「いざ!近江へ!」の巻(其の壱) ”坂本城・瀬田城・近江八幡山城”
いざ!近江!
琵琶湖周りの歴史巡りの旅をご紹介!
3泊4日で回った旅を、1日ごとにアップします。
其の四まで立て続きにアップしますので乞うご期待!
※スマホ表示になってるときはPC表示に切り替えることを
オススメしまーす。
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「夏休みの家族旅行で城に立ち寄ったり、歴史巡りしたいけど
子供や奥さんからブーイング来そうだな~。でもせっかくの
夏休み、城にいきたいぞー。うーむ」
…とお悩みの方!!そんな悩める子羊に…
今回は歴史に興味がなくとも、家族で楽しめるコースをご提案!
城だけでなく、観光地や寺社仏閣まで取り揃えております。
夏の旅の参考になれば幸いです。
《1日目》
2013年9月26日(2年も前…)
今回の夏休みは近江を回ろうと思いつき、下準備バッチリで車で
出陣。横浜町田ICから、最初の目的地「坂本城」までは430km。
秋口とは言え残暑も厳しく、VS蚊、VS草との戦いは覚悟の上での
出陣と相成りました。虫よけ、そして蚊を除けきれなかった時の
キンカン!必需品です。
坂本城は本丸跡は公園になってて、駐車場もあります。(無料)
公園周辺をウロチョロしたけど、面影は発見できず。潮の満ち引き
で石垣が見えることもあるらしいけど、今回は残念。
ただ、今回の目的は本丸跡に立って、琵琶湖と対岸の安土を眺め
ることだったので、遺構はなくとも大満足なのです。
津田宗及が『天王寺屋会記』に坂本城で茶会を開いた時の様子を、
「御座舟を城の内より乗り候へて安土に参る」と書いていたので、
水城形式の城だったんでしょうね。
当時、琵琶湖の水運を握ることは、経済・流通を掌握することに
なり、この坂本を光秀に任せたことで、信長の信頼のほどが
分かりますね。
光秀はここから安土を見て何を思ったのか…
あぁ、妄想が暴走。
キリがないので、次へ。
あ、そうそう、次に行く前に時間があれば、西教寺と聖衆来迎寺へ。
すぐ近くです。西教寺、聖衆来迎寺の表門は坂本城城門を移築し
たもので、さらに聖衆来迎寺には森可成の墓がありますよ。
そのため、比叡山の焼討ちのときはこの寺だけ焼討ちを免れた
そうです。
ただ一つ、残念すぎるは本丸跡に建つ、光秀像…
ただただ残念すぎる…
昔観た大魔神にしか見えない…
さらに隣には「光秀(おとこ)の意地」とい曲の歌詞の石碑…
鳥羽一郎が歌ってるらしい…もうやめてくれ~。「光秀と書いて男と読みます。ここは近江坂本、坂本城址でございます」…みたいな?
気を取り直して、坂本の街をプラプラ。坂本は穴太衆の町です。
歩いてると、そこら中に穴太積みが!いつの時代のものかな〜
なんて、考えながら歩いてるだけだ楽しい!
大津絵を売ってるお土産やさんなどもあり、観光気分で楽しめる!
あと、ぜひ行って欲しいのは比叡山の登り口の石段!
早尾神社と比叡山高校の間にあります。別に何があるってわけ
じゃないんです。ただ、果てしなく続く階段を見上げてるだけで、
涙が出るほど込み上げてくるものがありました。
どれほどの人がここを通ったのか…
歴史における比叡山の重要性を考えると、登らずとも見上げた
だけで感動の尽きない素晴らしい場所でした!
ひっそりとしてて、観光客なんて誰もおらずタイムスリップ気分。
ケーブルカーで上まで行けますが、そんなものナンセンスじゃ!
次回は絶対ここから登るぞ!
観光客どころか人っ子ひとりいない。ひっそり。
ぜひ、見上げて思いを馳せてみて~
お次は瀬田へ。わたしは、ここにずっと来たかったの!
壬申の乱や恵美押勝の乱では決戦場となり、南朝と北朝は
ここを挟んで交戦、そして本能寺の変後の攻防戦!
あー、興奮してまいりますとも!
そんな感じなので、瀬田の
唐橋を渡った私の狂喜乱舞は書くまでもありませんね。
さて、諺「急がば回れ」の語源になった瀬田の唐橋。
上の手書きプリントで紹介した連歌師宗長の訳こんな感じ。
「東から京へ行くには矢橋(やばせ)からの航路が一番早い
けど、比叡おろしの強風で船が遅れたり、欠航することも
少なくなかった。瀬田まで南下すれば強風の影響はなく、
日程の乱れもなく旅ができるよ」と、いう意味。
ついでに松尾芭蕉の句も一句。
「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋 橋桁の忍は月の名残哉」
そうなんです!夜の琵琶湖に浮かぶ唐橋は美しかった!
そして石山寺へ。石山寺は観光客で賑わってました。
お土産屋さんなどもあり、オススメは蕎麦ソフトクリーム。
ペロッと食べちゃった。重要文化財の「石山寺縁起絵巻」は
当時を今に伝えてくれ、「蜻蛉日記」「更科日記」にも石山寺は
登場します。さらに「枕草子」では、霊山として紹介されたりと、
美術・文化においても重要なお寺さんです。あと、石山寺には
「大津ひかるくん」なるキャラがいますので探してみて。
これまた、かわいいんです。
とても広く見ごたえ満載!少なくとも、一時間は必要だな~
旅の1日目の終盤は近江八幡へ移動。八幡山城はロープ
ウェイで上まで登ることができ、全く城に興味のない観光客も
ウジャウジャおります。
夕暮れが近かったため、わたしもロープウェイで登っちゃった…
山城ガールとしたことが、なんたる体たらく!!ガッデム!
八幡山はかなりの急峻な山。曲輪を配置するのも苦労したそう。
うん、確かに凄い山だ!
本丸跡の瑞龍寺は日蓮宗唯一の門跡寺院です。
城下町は当時のまま、いまでも眼下に広がってます。
そして、悩めるお父さま方、朗報です!城下町の一部は
日牟礼八幡宮になってて、参道にはお土産屋さんがたくさん!
御饅頭からソフトクリーム、近江牛コロッケまで!
しかも、和菓子屋「たねや」の洋菓子店「クラブハリエ」なるお洒落
カフェもあり、ケーキも食べれます。奥様とお子様にカフェで待って
てもらい、お父上は八幡山城を堪能…そんな別行動もアリかも。
そして時間があるなら是非、秀次館跡へ!草をかき分け、木の
枝で顔に傷を作りながらも秀次の居館跡を探し、ずんずん進むと、
だだっ広い削平地!曲輪跡でしょう。
そして、さらにずんずんずんずん進むと大きな石垣!
うわー!どびっくりだよー!
近年の発掘調査で色々なことが分かってきました。居館曲輪から
大型の礎石列、溝などが発掘され、その形から書院造りの
御殿が建っていたと推測できるんだって!
さらに居館から一直線に伸びる大手道が見つかり、その距離
なんと270m!うひゃー!安土城の2倍ですね〜
さらに徹底的に破壊された瓦が出土し、秀吉による破却が
どれほどのものだったかが想像できます。その瓦には金箔が
惜しげもなく貼られていて、東からやってくる家康への威嚇で
あると同時に、かつての秀次に対する秀吉の愛情を感じて
切なくなってしまいました。
秀次感跡の石垣。かなりの高さ!
草をかきわけて、目の前に石垣が現れたときは感涙!
殺生関白などと呼ばれ、歪んだ秀次像を作り上げられてしまった
秀次だけど、実際は馬術・武芸にも優れ、政務の手腕にも長けて
いました。八幡楽市楽座を作り、現在に続く近江商人の気質、
そして発展する基礎を作った秀次。秀次事件のときも石田三成を
始めとする多くの人が擁護してます。ルイス・フロイスの「日本史」
にも、「万人に愛される人物で野心もない」と、書かれている様に、
秀次は古筆を愛する当代一流の文化人だったのです。発掘調査
により、居館が書院造だったと知り、さらに私の中に秀次像が
鮮やかに浮かび上がってきた、そんな旅の一日目でした。
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