« 「いざ!江戸城へ!」の巻(浴衣でプラプラ番外編) | トップページ | 「いざ!玉縄城へ!」の巻 »

2015年10月20日 (火)

「いざ!近江へ!」の巻(其の四) ”玄蕃尾城・金ヶ崎城・関ケ原・岐阜城”

引き続き琵琶湖周りの旅をご紹介! 無事に4目突入でございます。
では本日も張り切ってクリックどうぞ!
※スマホ表示になってるときはPC表示に切り替えることをオススメしまーす。
クリックすると拡大しまーす!PDFになってます。
↓  ↓  ↓  ↓  ↓


Oumi4



≪4日目≫
2013年9月29日
時のうねりに巻き込まれながらも己の生と死に真っ直ぐに向かい合った武将たちの生き様に胸を熱くした3日目を終え…。
今日は4日目、旅の最終日。まずは玄蕃尾城へ。
北国街道(365号)を柳瀬方面から敦賀方面に走り、トンネルを抜けたらすぐに右。見落としそうになるので要注意!右折後、道なりに2kmくらい行くと駐車スペースあります。ただ、この2kmがとても長く感じ、間違ってるかも!と、不安になり引き返してしまいそうなります。自分を信じて進むべし!
駐車スペースには簡易トイレあります。そして、登城者名簿なるノートもあります。書き込みつつ、登城者チェック。ほぉ~、同じく横浜市民結構来てるではないか。訪ねて行って、山城トークで盛り上がりたいでござる。
登ること30分。縄張り図見ながら、首を傾げる。なんだか図面と一致しない…。うーん、ここ虎口かな、ここは郭かな、たいしたことないな、などとブツブツ言いながら進んでいくと…
なんとっ!!目の前に美しい虎口が出現!なーんだ、まだ虎口に着いてなかったのか。たいしたことないとか言ってごめんなさい!
うねるように盛り上がる大地!土!土!そして土っ!掘って盛って、掘って盛って…
あまりのすごさにヨダレが…。大興奮ですぞ!
まさに「土で成る」=「城」です。
天守がないとつまらない、とか言うやつ出てこーい!
山城ってどうせ何も残ってないんでしょ、とか言うやつも出てこーい!!
玄蕃尾城、すごいぞ!やっほーい!
……落ち着こう、わたし。深呼吸。
とにかく、見せ方、整備の仕方が素晴らしいです。この残暑の厳しい9月中旬に空堀の底まで丸見え!堀切も虎口も無駄な草木がなく、当時の姿を目の当たりにしている高揚感!
整備、維持管理してる方々の愛を感じました。感動。感謝、感激アメアラレ。

Img_2073見よ!この大地のうねり!今にも動き出しそう!9月中旬だっていうのに、空堀の底まで丸見えよ!

Img_2091土塁の盛り方が美しすぎるよ~。ずっと見ていたい♡



お次は金ヶ崎城へ。
敦賀湾を目指して車を走らせること30分。気比神宮の立派な鳥居が見えてきました。後醍醐天皇の皇子、尊良親王と恒良親王はこの気比神宮の大宮司に奉じられ、金ヶ崎城に入城しました。鳥居越しに境内が見えただけでも、胸がキュっとなります。かく言う私は南北朝時代、大好きなのです。気比神宮で軽くお参りを済ませ、また車を走らせると、ほどなく金ヶ崎神宮の駐車場に到着。もう、目の前には海がどーん!
城攻め前に金ヶ崎神宮にお参り。すでに境内はお城の中。金ヶ崎神宮は1890年に尊良親王を祀るために創立され、今は恒良親王も合祀されてます。言うなれば、明治新政府の意図が明らさまに見えるタイプの神社ですな。
最初に見てほしいのは境内の右手の方にある金ヶ崎城の模型です。かなり無造作に置かれ薄汚れてますが、これで城の全体像がバッチリつかめます。
城内を歩き進めると、ところどころに堀切や切岸の名残のようなものが多数目につきます。そして、落城時に尊良親王が自刃した地と見られている「尊良親王墓所見込地」を過ぎると、本丸跡(月見御殿)、3つの城戸跡と続き、稜線伝いに天筒山城へとつながります。
金ヶ崎城から天筒山城へと歩いていて感じたのは、二つの城が一体となったときにこの城は本来の機能を発揮したんだろうなということ。やっぱり、現地に行かないと見えないものがいっぱいありますね。金ヶ崎城は公園として整備され、ハイキングコースになっているけど、何度も歴史の表舞台にに登場し合戦が繰り広げられた生々しさの跡は全く消えていませんでした。
昔、森村誠一の「太平記」を読んで以来、ずっと訪れたかった金ヶ崎城!万感こみあげてくるものがありました。うるうる(涙)

Img_1959鋭い角度の堀切は激戦を彷彿とさせますね。

Img_1966幾多の合戦が行われ、表舞台に登場する金ヶ崎城!まさにその痕跡!




そして、次は「関ケ原」……
この地名を聞いただけで、胸が震えます。
古来から幾多の合戦地になり、東西が激突する地、関ヶ原。
そして歴史史上最大の合戦、関ケ原の戦いがこの地で幕を開けたのであります。ジャジャーン!!
現地に行くと鳥肌の立つような緊張感に襲われ、これからも一生懸命歴史の勉強に精進することを誓いました。(誰に?)
一日かければ全陣地回ることが可能です。車より、レンタサイクルがオススメ。車でピュンと周るのは味気ない気がいたします。陣地ひとつひとつに無数のドラマがあり、そしてここに集まった無数のパワーこそが歴史を動かしました。ぜひ、歩いて感じてほしいと思います。ちなみに、関ケ原民俗資料館で自転車貸してくれます。この資料館は見どころ満載。特に館内のジオラマ!何度見ても楽しく、何回もスタートボタンを押しちゃったぜ。島津が駆け抜ける場面も秀逸。数時間楽しめる資料館でした。

Img_6217あちこちに陣地を知らせる幟!なんともワクワクするではありませんか!特に立ち寄りオススメするのはひっそり佇む大谷吉継の墓。隣には湯浅五助の墓もあります。湯浅五助は吉継の首を最後まで東軍に渡さず守った家臣です。こういう個々の点の集まりこそが歴史であり、出来事だけで歴史を追うと大事なものが見えなくなる気がいたします。

Img_6266我ながら似合うぞ。満足じゃ。



そして、旅の最後を飾るのは岐阜城。
遠くからでも金華山の上にチョコンと乗っかってる岐阜城が見えるので、迷わず行けます。
たくさんの登城ルートがあります。今回選んだのは、「七曲の道」。
1564年、竹中重治がわずかな手勢で稲葉山城を奪取。そのとき駆け上がったのが、この七曲の道。信長時代も大手道となり、フロイスも通った道。少しずつ歩を進める度にドキドキいたします。他にも、めい想の径、百曲がりの道、馬の背道などなどルートはたくさん。一番登るのが厳しいのは馬の背道かな。ロープウェイなんてナンセンスよ!
信長が天下布武の御朱印を使い始めたのは小牧山からここ稲葉山に引っ越した頃。そして、元々の井ノ口という地名を「岐阜」に改めたわけで、まさに岐阜城は天下第一歩の城ですね。
一歩一歩石段を踏みしめ、感慨を噛みしめ、頂上に着いた私はガッカリ&ショック。
ハイキングコースとしてプッシュされすぎてるためか、山頂は城に興味のなさそうな登山客がウジャウジャ。興を削がれます。
資料館もひどい。昭和かよ!と、突っ込みたくなるほどの雰囲気。展示の仕方も古臭いし、内容も薄い…これだけの歴史的な名城なのに!!!
気を取り直して…
荒々しさの残る石垣が荘厳な雰囲気を醸し出しています。特に井戸の後ろの石垣は当時のままの姿で残り、見ごたえ十分。虎口・堀切なども現存し、戦国の厳しさを想像させてくれます。それらの遺構を誰も足止めて見ないのが残念でなりませぬ……。くぅっ!

Img_2190ルイスフロイスも歩いた七曲の道。あちらこちらに浪漫が転がってる~。フロイスは麓の居館と山頂の城の両方に招かれたという記録が残っていますよ。

Img_2250発掘調査が続いている信長居館跡。調査で分かったのは、屋敷は「ハレ」と「ケ」の空間がきっちり分けられて整備されていたということ。山水を愛でたであろう滝も発掘されました。現在は公園になっている居館跡ですが、谷を流れる谷川の両側の段々の地形も信長頃に造られたものだということも判明しました。ここ岐阜城にて安土城築城の構想を練った信長。この居館でどんな未来を見て何を考えたのか。想像するだけで胸が高鳴りますね!



≪本日のエッセイ(ちょこっと真面目に)≫
『月いづこ』
金ヶ崎城は1180年源平合戦の際、平通盛が木曽義仲との戦いに備えて築いたとされています。そして、この「金ヶ崎」の地名の由来は、736年誓法山金前寺の創建まで遡ります。金前寺は金ヶ崎城の麓にあり、聖武天皇の勅により建てられたお寺です。そのとき、聖武天皇から親筆の金光明経を賜り、その経を金櫃に入れて丘に埋めたことから、「金ヶ崎」と呼ばれるようになりました。金前寺は気比神宮の奥の院にあたり、南北朝時代の金ヶ崎の戦いでは新田軍の本陣になったお寺です。
太平記に「かの城の有り様は三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」と描写されている金ヶ崎城。絶壁の要害であると同時に、風光明媚な様がまざまざと浮かんできます。晴れた日には遠く越前海岸まで見渡せ、夜は空を見上げて月を愛でる…堀切、城戸跡などから感じる合戦の生々しさとの対比がかえってリアリティを持って私の胸にせまって来ます。新田義貞は援軍を求め金ヶ崎城を脱出。しかし、戻ることができずに恒良親王は捕縛され、尊良親王と義貞嫡男の義顕は自刃します。
「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」
松尾芭蕉の句です。新田義顕は自刃する直前に陣鐘を海に沈めました。
兵たちを鼓舞し、出撃の合図を送ったであろう陣鐘。まさに戦の象徴です。それを沈めたときの義顕の心中、いかばかりか…。金ヶ崎城は籠城から半年、北朝の総攻撃を受け落城。城兵300人は城に火を放ち自害したのでした。
戦場では己の信じる「義」が幾多のドラマを作り出します。南朝、北朝、それぞれの「義」がぶつかり合い、まるでこの城の眼下の海のように波を立て、しぶきを上げたのです。月見御殿から下を見ると、そこにはまるで全てを飲み込んでしまったかのような濃くて深い海の色がありました。義顕の魂も鐘と一緒に海のそこに眠っているような気がして、私はいつまでも海のそこを覗き込んでいたのでした。

そして、ここでも「義」がたくさんのドラマを生み出しました。
関ヶ原。
この地は街道の合流地点であり、東西の境目、要は東西軍の激突する地でもあります。
1600年、石田三成は己の義のために立ち上がり、歴史のうねりを作り出します。
戦のあと、堺で引き回しにされ人々に囃し立てられた三成はこう答えたと言います。
「天地がある限り、わしが大事をして豊臣家のために天下分け目の戦いをしたことは語り継がれる。そう囃し立てるものでないぞ」
三成にとって、戦を起こすことこそが大義であったのです。
もし、三成が佐和山でおとなしく蟄居していたら、幕藩体制が確立される前に家康の寿命が尽きていたかもしれない。そして、豊臣家は滅びなかったかもしれない。
どこを見渡してもこれほどドラマチックで巨大な戦いはありません。
とてものどかな風景が広がる関ケ原。ここに巨大なパワーが集まり、新しい時代の扉が開いたのです。まさにここで歴史が動き、運命が決まったのです。これは日本人が共有する貴重な文化財産であり、日本人なら一度は訪れるべき場所だと思います。歴史のうねりを、時代の風を、ぜひ関が原に行って感じてほしいのです。
長い歴史の中で何度も激戦が繰り広げられた関ヶ原。ここに集まった名のある武将も、たくさんの名もなき兵も空にぽっかりと浮かぶ月を眺めたのでしょうか。新田義貞が金ヶ崎城で眺めた月も、石田三成が関が原で見上げた月も、いま私が見ている月も同じ月。ふと、そんなことを思ったら、遠い存在の二人を少し近くに感じた気がしました。心に寄り添い、読み解くことが歴史を楽しむ真髄かもしれませんね。

|

« 「いざ!江戸城へ!」の巻(浴衣でプラプラ番外編) | トップページ | 「いざ!玉縄城へ!」の巻 »

コメント

山城ガールむつみさん

昨年末、やきとり龍馬におまかせでお会いした、高橋と申します。

面白い活動ですね〜

頑張って下さいね‼︎

投稿: 高橋 | 2016年1月20日 (水) 23時31分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「いざ!近江へ!」の巻(其の四) ”玄蕃尾城・金ヶ崎城・関ケ原・岐阜城”:

« 「いざ!江戸城へ!」の巻(浴衣でプラプラ番外編) | トップページ | 「いざ!玉縄城へ!」の巻 »