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2016年2月11日 (木)

「いざ!玉縄城へ!」の巻

今回の出陣は神奈川県鎌倉市にある「玉縄城」へ!!

では今日も張りきってクリックどうぞ!

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 玉縄城は今では女子高(清泉女学校)となっていますが、かつては難攻不落の名城でした!

1512年に北条早雲により築城されました。実は早雲本人は生前に、「北条早雲」と名乗ったことはないので、正確には伊勢新九郎盛時、出家後は早雲庵宗瑞ですね。小田原から席巻してきた早雲は次なる敵である三浦氏との戦いに備え、三浦半島の付け根のここ玉縄の地に城を築いたんですね。もとは扇ケ谷上杉氏の玉縄要害として存在していた、この玉縄の場所を使いました。


 ではでは、謙信、信玄さえも退けた天下の名城を山城ガールがご案内いたします!

最寄り駅はJR大船駅。駅から城までは、ちょうど2kmの距離です。徒歩で30分くらい。バスだと、清泉女学院行で10分というところでしょうか。でも、歩けるなら徒歩での城攻めをオススメします。途中にも見どころたくさんあります。今回の手書きプリントは大船駅からの地図を書いてみました。参考にしてみてください。例によってかなりザックリとしてますけど…。


 大船駅からテクテク歩き出すと、すぐに玉縄首塚に着きます。今でもキレイなお花が供えられているこの首塚は何かというと…。

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鎌倉を守るために戦った玉縄城の戦死者を弔うために造られたもの。
1526年に安房の里見氏が鎌倉に攻め込みました。そのとき、北条軍は玉縄城から柏尾川まで出てきて、里見軍を迎え撃ったのです。毎年8月に首塚まつりが開催され、灯籠流しの施餓鬼の供養が行われているとのこと。いまだに鎌倉を守ってくれた北条氏に感謝の念を持ってるんですね。

 
首塚を過ぎると、なんだかとても通りたくなるトンネルが出現。

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トンネルを抜けて、さらにテクテク歩くと、龍宝寺が見えてきます。そして、行く手の奥には玉縄の城山が見えてきます。テンションが上がってきますね。

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この寺は玉縄北条氏の菩提寺であり、併設された民俗資料館で城の模型なども展示してあるので立ち寄りたいスポットですね。
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 3代目城主の氏繁を弔うために建てられ、寺の名前はその戒名から取っています。玉縄城歴代城主の位牌や、源実朝の位牌も安置されてるとのこと。胸が詰まります。
 ちなみにここは新井白石の知行地になったことがあり、碑が建っています。

資料館で模型や資料を見た後、城山を見ると城の形がぼんやりと浮かび上がってきますね。今歩いている道、結構幅の広い市道ですが…これは植木谷戸で、谷間だったんでしょうね。城の防衛ラインですね。だんだん近づくと緊迫感が高まってくる気がいたします!!奥に見えるのが城山です。

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 右手に諏訪神社。これはもともと城内の諏訪壇にあったのをここに移したものですね。左手方向に大手口へ続く七曲道がありますが、とりあえず横目で見て、さらに進むとします。しばらくして、清泉女学院の入り口に着きます。歩いて上っていくと、かなりの坂になってることに気づきますね。標高80mの山城ですもん!!

 お城は学校の敷地内のため、自由には見学できません。訪れる際は事前に清泉女学院に許可を取り、当日は守衛室に立ち寄ってから見学となります。守衛室から玉縄城入口と書かれた階段を登るとすぐに諏訪壇に着きます。諏訪壇は見張り用、攻撃用の櫓などが建っていて、天守台のような役目をしていたんでしょうね。万が一の際は詰の丸的な役目を果たす場所だったのかな。でも、なんせ一度も落ちなかった城なので分かりませんがね。
ただ、かつての城の最高部が、今ではこんもりとした土のあととなってしまってるのが切ない。やるせない…。くぅ!悔しいぞ!ちゃんと開発の仕方、考えろってんだ、バカヤロー!…あ、つい、乱暴な言葉つかいになってしまいましたわ。
 下の写真は諏訪壇の遺構です。

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諏訪壇の西側には腰曲輪があった模様。馬出してきな役目かな?
 諏訪壇を下りると、かつて本丸だったグラウンド、テニスコートが見渡せます。縄張図を片手に行くと、さらに全体図を想像でき、楽しさ倍増です。

縄張図を見ながら歩くと、1片のピースでしか見えていなかった城が突如として目の前に巨大な山城となって浮かび上がり、ドキッします。まさにこれが山城歩きの醍醐味!!

 

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 現在、グラウンドになっている場所が当時の本丸に当たります。山を削り、くり抜いた、珍しいスリ鉢状の本丸です。山全体をそのまま利用していて、あまりの巨大さに驚きます。


驚きの航空写真!学校を建てる前のものです。

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学校の裏口が城の大手口に当たります。降りていくとそこは七曲道。往時の雰囲気を今に残し、幾重にも折れ曲がり、さきほどの植木谷戸へと続く。冠木門(かぶらぎもん)が復元されていて、北条の家紋であるミツウロコの幟がはためいていたりと、当時の雰囲気を想像しやすくなっています。

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コンクリートの建物の後ろに、上に向かって幟が続いていくのがみえますか?七曲坂から大手に続く道の形が今でも同じように残っています!!

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 復元された冠木門です。
 
謙信もここから本丸を見上げ、巨大にして堅固な玉縄城の攻略を諦め、包囲を解き帰ったのです。謙信と同じ場所から城山を見上げると、在りし日の城が目に浮かびゾクゾクすること極まりなし!!上から、矢が降ってきそうな恐怖!!

 

Img_8678 山城ガールもテンションが上がりまして、攻め手の気分で大手の坂を駆け上がっております!なかなかの高低差ですね。
 (でも、この階段は本来の道とは少しずれてます。)


 玉縄城には「お花畑」や「まりけば(蹴鞠場?)」と呼ばれる曲輪(くるわ)があったようです。これはとても珍しく、豪壮堅固にして巨大な城の中に雅びな香りが混ざり、さらに想像する楽しみが広がります。
 「お花畑」は宅地になってますが、その形は
グーグルアースで見るとバッチリ分かります。ぜひ、見てみて。諏訪壇の東側の空堀はいまはマンションがスッポリとハマって建っており、縄張図と航空写真を照らし合わせると興奮します。

 付近を歩いてみると、目につく名残りがあります。例えば、「植木」という地名。これは防衛対策として、北条氏がたくさんの木を植えたことに由来します。他にも相模陣、早雲台、打越、関谷、大鋸、鉄砲宿など、当時を彷彿とさせる地名が藤沢市にまたがり残っています。
 玉縄城の周りには、ひと足伸ばしていけるオススメスポットがゴロゴロあります。玉縄城と連携していた出城の長尾砦、二伝寺砦。そして、家康が小田原攻めの時に立ち寄った久成寺など、目白押し!!

では、最後に恒例になりつつある「真面目にエッセイ」コーナーです!
行ってみよー!

 「真面目にエッセイ」コーナー!!
「鎌倉の名城―玉縄城」
 
鎌倉市城廻(しろめぐり)、現在は清泉女学院の建つ山の上に、かつて難攻不落の名城があった。その城の名を「玉縄城」という―。

1512年、玉縄城は早雲庵宗瑞により築城されました。出家する前の名を伊勢新九郎盛時といい、かの北条早雲です。玉縄城は『新編相模国風土記』に、「この地は山を背面に置き、さらに海に出ることも容易である。しかも幹線道路である東海道からも半里の距離に位置する場所で、四方の道を塞ぐことができる。まさに絶好の要害」と記されているように、東から南へ柏尾川、北から西へ柄沢川が流れ、天然の要害の姿を呈した海抜80mの典型的な戦国山城です。さらには城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで船を出すことが可能だったため、水運、水軍両面において重要拠点となりました。
 そして玉縄の地形を語る上で、もうひとつ注目したいのは、大船付近の当時の地理状況です。今は居酒屋が軒を連ね賑わう大船一帯は、当時は大きな船が入ることができるほどの水運があり、あたりは湿地帯でした。そのため、大船周辺は玉縄城の防衛として大きな役目を担っていたと言えるでしょう。その昔、新田義貞も鎌倉入りの際、大船を通過するのに難儀したといいます。小田原城を奪い西相模を席巻した早雲は、東の三浦氏との戦いのために三浦半島の付け根に拠点となる城が必要でした。そして建てられたのが天然の要害を持つ玉縄城だったのです。

今でこそ、宅地開発や学校の建設などで在りし日の姿は失われてしまっている玉縄城ですが、当時は江戸城、川越城と並び、「関東三名城」と謳われた堅城でした。何度となく安房里見氏の軍勢を撃退し、上杉謙信、武田信玄さえも、あまりの構えの堅固さに攻略を諦め、包囲を解いたほど。まさに城のあるべき姿、「守り堅固にして戦なし」戦わずして、民の生活を守る理想の城の形であると言えるでしょう。

しかし、天下に聞こえた北条の名城も落日を迎えることとなります。時代は豊臣政権に移り、秀吉が天下統一事業を推し進める中、1590年北条氏の本拠地小田原城が豊臣連合軍に囲まれ、降伏落城。玉縄城も、徳川家康の攻撃を受け降伏開城となりました。時代は豊臣、徳川と移り変わっても玉縄城の重要さは変わらず、一国一城令が出された後も、玉縄藩として存続しました。
 けれどもついに、
1703年に松平氏が大多喜藩(現千葉県)に移ったのを機に廃城となります。太平の世が続くこの時代、玉縄城は必要なくなってしまったのかもしれません。こうして歴史の舞台から静かに名を消した玉縄城ですが、廃城から90年後もう一度玉縄城の名前が、ある人物の口から出ることとなります。その人物の名は松平定信。寛政の改革を推し進める中で、そのころ出没しだした異国船への対策として玉縄城に目を付けたのです。幕府に玉縄城再興計画を打診し、異国船への最前線軍事基地にしようとしました。ところが、その3か月後に定信は失脚。玉縄城再興は幻となってしまったのです。もう一度、玉縄城が民を守るところを見てみたかったと思うのは贅沢でしょうか。

「枯るる樹に また花の木を植え添えて もとの都に成してこそみめ」

これは早雲が1512年に三浦氏を追いやり、鎌倉入りした際に八幡宮に奉納した一首です。当時の鎌倉は荒廃しきっていました。かつて幕府が置かれ、武家の中心であった鎌倉の地は見る影もなかったといいます。そんな鎌倉を見て早雲は、八幡宮と鎌倉のまちの再興を誓ったのです。玉縄城は、民のための国づくりという理想のために造られたのです。早雲は税制を下げ、善政を敷き、鎌倉の繁栄を図りました。そして初代城主である氏時をはじめ、早雲の意思を継いだ城主たちは6代に渡り、鎌倉のまちを整備し、八幡宮を改修しました。世界遺産に名乗りをあげるまでになった鎌倉のまちの発展は、北条氏なくしては成し得なかったのです。

時は過ぎ、昭和30年代に学校建築による造成が始まり、城は破却の憂き目にあいました。学校の敷地内の諏訪壇と呼ばれる遺構や周辺に僅かな名残りを残すばかりとなっています。

 

鎌倉のまちを歩いていると、ふと私は早雲の句を思い出します。そして、思うのです。早雲は奉納した句のごとく、枯れきっていた鎌倉の地に見事に花を咲かせたのだと。

「城」の役目とは軍事施設というだけではなく、そこには民を想い必死に国を守ろうとした先人の熱き心が詰まっているのではないでしょうか。

そんな愛のあふれる玉縄城に出かけてみませんか。いざ!出陣!

 

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コメント

むっちゃんの活躍に感謝している一人です。素人でも、のめり込んでしまう文脈はさすがですネ!まさしくこれが天職というものでしょうか?次回は、大庭城を取材して下さいネ!今、城下ではトンデモナイ歴史絵巻が起きていますので…。

投稿: 陰陽師ノリ | 2016年2月19日 (金) 01時07分

陰陽師ノリさま
コメントありがとうございます!
おかげさまで1番好きなことをやっております。
書くことは大好きですが、伝えたいことが多すぎて、文章が長くなってしまいます(^^;;
大庭城址、近いうちに調査に行くことにしますね!

投稿: | 2016年2月22日 (月) 17時37分

初めてメールします。
逗子で仕事をして、すでに20数年経ちますが玉縄城の存在を全然知りませんでした。激戦の地であり、やがて戦国時代に入っていく幕開けがこの地だったのではないかしら?睦さんのメッセージから往時の兵士の叫び声や馬のいななきが聴こえてくるような気がしました。次回は大庭城?浦賀城?小机城?楽しみにしてます(^ー^)ノ

投稿: ハルミン | 2016年2月23日 (火) 13時06分

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