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2016年8月の2件の投稿

2016年8月12日 (金)

「いざ!三浦水軍の基地、怒田城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

始まりました!タウンニュースにて三浦半島のお城シリーズ!!
記念すべき第一弾に選ばれたのは…
ジャジャーン!!
怒田城!!!!「ヌタ」と読みますよ。
ではでは、ドキドキワクワク!クリックどうぞ!


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Nuta





タウンニュース連載記事です!こちらもお読みくださいまし!
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Nutatown_news



久里浜駅から徒歩15分、京浜急行の線路沿いのこんもりとした山が怒田城です。
地元の人にもあまり馴染みのない地味なお城です。
「吉井貝塚」と言ったほうがピンと来る人が多いかもしれませんね。

私の生まれ育ちはこの山のふもと。子供の頃、どんぐり山と勝手に呼んで駆け回っていました。まさかそのどんぐり山がお城だとは、つゆ知らず…
その昔はお城で、はるか昔は貝塚だったなんて!
まさかまさかですよ!
学校で吉井貝塚の見学には行ったけど、お城だなんて教えてもらわなかったような…。
ね?身近なところにお城がいっぱい!

しかもここはすごいお城なんですよ!
このお城がなかったら、鎌倉時代の幕開けはなかった!!……かも?

ということで、今日は怒田城とその周辺の歩け歩けコースをご紹介します。

まずは怒田城のお話。
三浦一族の水軍の城です。水軍と言うと、戦いのイメージがありますが、言うなれば海上交通の要の城という意味ですね。
え?水軍?海なんてどこにも見えませんけど?
まぁ、確かに…。ちょっと、お待ちなさいよ。今から説明しますって。

怒田城は平安末期に衣笠城の出城として築かれたと伝わってます。三浦義明の末弟の義実は平塚の岡崎を領して、岡崎氏を名乗るわけなんだけど、岡崎に行く前にこの怒田城にいて、そのあと義明長男の義宗に譲ったんですって。義宗は後に鎌倉の杉本城に移って、杉本氏を名乗ってますね。

怒田城は、なんと2千坪あったらしい!残念ながら京急線敷設のため、半分以上が削られてしまいました。

お城への登城口は公園として整備されているものの、細くて、頭の上には木が生い茂ってて、うっそうとした感じ。馬一頭通れるか通れないかの道幅は想像を掻き立てます。
右手には、ひな壇状の地形も確認できます。
ただ、草木で分かりにくい!草を刈ってくれ~。
1分ほどで削平地に到着。結構広い。


Img_2114_2城址にある案内板。これが削られる前の写真。すごい!大きい!お城の形がよくわかる!これを見に来るだけでも来る価値あり!!


源平盛衰記には「怒田の城は三方は石山高うして馬も人も通い難き悪所なり。一方は海口に道ひとつ開けたれば善き兵2百人有らば、たとひ敵何万騎寄すとも、たやすく攻め落とすべからず」と書かれた怒田城。
衣笠合戦の時には、和田義盛が義明に、衣笠城ではなく、ここ怒田城への籠城を薦めたと言うほど。

衣笠合戦で敗色歴然となった三浦一族は義明だけを残して、義澄以下全員で衣笠城を脱出。そして、ここ怒田城から安房へ向かいました。石橋山の戦いで敗れた頼朝と合流すべく船を出したのです。そのとき、三浦側は頼朝の無事を知らなかったと言います。頼朝が生きていることを信じて、本懐を遂げようとしたんですね。
安房に向かった義澄たち一行は海上で、北条時政、義時父子、岡崎義実らと遭い、頼朝の生存を知り、泣いて喜びました。
そして、頼朝の鎌倉入りとなるわけです。三浦一族の力なくしては、成せなかったと思います!!
ね?この城が鎌倉時代の幕を開けたと言っても過言じゃないでしょ。

そもそも三浦一族は三浦半島の小豪族なんかじゃないんですよ!支配地は北は陸奥、南は筑前まで広がってるんですよ!すごいのですよ。
まぁ、そういう話はおいおいするとして…。


Img_2125_2登城口から登ってくると、もう一段高くなってる曲輪があります。空堀を掘って、土橋で渡るようになってます。渡るとまた広い削平地。端まで行って見下ろすと、京急の線路や自動車学校、久里浜の街並みが見えます。

想像してください。実は、ここは全部海の中です。当時は見渡す限り、海だったんです。久里浜湾が入り込んんだ入江になってたんですね。
ここに三浦水軍の船が泊まっていました。ここから義澄らは安房に向かったんです。
今も「舟倉」という地名が残ってることが当時を物語ってますね。そう思ってみると、足元に海が迫ってくるようです!

当時の東海道は今のような陸路ではなく、三浦半島を横断して、海路で房総へと向かいました。まさにここが玄関口のような役目をしてたのかもしれません。
三浦水軍の要衝の地だったわけですね!
そんなことを考えてたら、標高たった20mほどのこの小山が、ものすごい存在感を放ってるような気がしてきました。

ここからは佐原城や衣笠城方面が見えます。いろいろと想像しながら、その位置関係などを見るのも面白いです。
空堀の発掘調査で、12世紀末から13世紀初頭という年代観も分かり、戦国期以前の城の様相を残す貴重な城址でもあります。遺構はほとんど残ってなくとも、とてもワクワクすることができました。周辺のオススメスポットと合わせて、ぜひ足を運んでみてくださいね。


Img_2119_2発掘調査によると、空堀の底は「V字」になってる薬研堀で、幅4.5m、深さ1.7mとのこと。貝塚の層を掘って空堀を作ってます。貝層が崩れやすいから貝を抜き取って泥岩の塊で置き換えられていたそうです。仕事が丁寧ですね~。


Img_2122_2結構な高低差あり!空堀後は発掘後に埋め戻されちゃってるから分かりにくいけど、堀底から左手の曲輪まで、当時は高低差4mくらいはあったでしょうね。



では、周辺のオススメ紹介です。詳しいコースは上の手書きプリントに書いてあるので見てみてくださーい。


久里浜駅(京急でもJRでも可)

若宮神社

宗円寺

怒田城

真福寺

御林

高坂貝塚

常福寺

西叶神社

浦賀駅

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2016年8月 9日 (火)

「いざ!歩け!朝比奈切通しから鎌倉城へ!」の巻(ガイド編)後半戦

朝比奈ウォーキング後半戦です。
今回は歩け歩けツアーで何回かガイドしたコースをご紹介!!
鎌倉朝比奈切通しから鎌倉に抜ける道をご案内します!
資料は前半戦にアップしてあるので、よかったら参考にしてください。

それでは後半戦!張り切っていってみよー!
後半戦のスタートは十二所神社からです。
前半戦は金沢八景の駅をスタートして、朝比奈の切通を抜けてきました。
切通しを抜けて、ビュンビュンと車の往来する県道に出ると、まるでタイムスリップしたような気分ですね!


十二所神社はもともとは光触寺の境内にあった熊野十二所大権現です。神仏分離により、こちらに移りました。これにより、ここの地名が「十二所(じゅうにそ)」になったと言われてます。
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ここのオススメは兎の彫り物。珍しいですね。ここは八幡宮の真東に当たります。だから卯なのかな?

そして、左手に見えるこんもりとした怪しげな地形を横目で見つつ、光触寺(こうそくじ)へと向かいます。
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ここは時宗のお寺。時宗の僧は、従軍僧なので戦場で念仏を唱えたり、救助したり、討ち死にした人を連れ帰ったりしました。光触寺の奥のやぐらからは、たくさんの白骨が見つかりました。きっと鎌倉幕府が滅亡した戦いの際のものでしょう。

この寺の境内には「塩嘗め地蔵」さんがいます。
昔、旅の安全を願って塩をお供えしたところ、帰り道に寄った時には塩がなくなってたことからこの名前がつきました。なんともかわいらしい逸話ですが、このことからも朝比奈ルートが塩の道とされてたのがうかがえますね。

さてさて、10人以上の予約じゃないと見せてもらえない重要文化財の頬焼阿弥陀さまと、後醍醐天皇宸の「光触寺」と書かれた勅額をみせてもらったあとは、どんどん鎌倉中心部へと進んでいきます。
それにしても後醍醐天皇の勅額の字がね、なんだかすごかったですよ!必見!


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テクテク歩いていくと、大江広元邸の石碑。このあたりに邸宅がありました。かなり広い土地で、石碑の裏山広範囲にわたって敷地だったようです。幕末に毛利家が買おうとするも値段の折り合いがつかず断念したほど。
大江広元の3男が厚木の毛利荘を与えられて毛利の祖となったので、毛利家は祖ということで大江邸宅を手に入れたかったんでしょうね。

さて、お次は明王院。
4代将軍藤原頼経創建。鎌倉市内で唯一現存する、将軍の発願で建立された寺院です。茅葺の本堂が趣きがあります。
お庭がとても綺麗で、人も少ないので穴場ですよ。



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次なる石碑を発見いたしました。「足利公方邸跡」と書かれてます。
ここは足利氏の邸宅跡です。尊氏もここに住んでいました。すごい!
室町幕府が開かれると、ここに鎌倉府が置かれました。鎌倉府の長官を鎌倉公方といいます。鎌倉公方と関東管領の話になると大変長くなるので今回は割愛!

と、いうことで脇道から奥に進みます。
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おっ!なにやら駐車場の奥にやぐらがみえてきましたぞ。
さて、このやぐらはなんだったでしょうか?聞きたい?聞きたい?

正解は…
御馬冷場!
なんじゃい、そりゃ!?
現代でいうと、洗車場です。馬を洗っていたところですね。あのやぐらには水が溜まっていたみたいですね。いまもぬかるんでます。頼朝の馬もここで洗ってたらしいですよ。へぇ~。

なーんて、裏ガイドしながらずんずん進む。
杉本寺に到着。
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ここは坂東三十三箇所の第一番札所。観光客もたくさん来てます。
ここね、実は山城なんですよ。うふ。
三浦義明の子、義宗がここに居を構えて築城したんです。そして、杉本氏を名乗りました。
ここは、朝比奈・六浦道を抑える要衝の地に当たり、さらに目の前には釈迦堂切通し。この釈迦堂切通しは、三浦氏の拠点、三浦半島へ抜ける道です。すごい立地ですね。道を抑えたもん勝ちです。
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杉本城遠景。
ほぼ、遺構は残ってないけど、遠目にみたこんもりとした山が山城っぽさを醸し出してますよ。

では一気に鎌倉に街に攻め込みましょう!
まずは大倉幕府跡。よく、鎌倉幕府ってどこにあったの?と聞かれます。ここです。清泉小学校が建ってるところです。
ここに最初の幕府、御所が置かれました。今は石碑を残すのみですが、西と東に門がありました。
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この大倉のあと、宇都宮辻子幕府、若宮大路幕府と移ったんですね。


では、筋替橋を通り、宝戒寺へ。
この筋替橋は宝治合戦で激しい戦闘が繰り広げられた場所です。
宝戒寺は別名「萩の寺」。ただ、萩に限らず、一年中、何かしらの花が楽しめるので人気のお寺です。
でもね、花よりなにより忘れちゃいけないのは、ここが鎌倉北条氏の邸宅跡だという事!
門に北条氏の家紋の三鱗。ここのは背が高い紋です。高いのは鎌倉北条氏、少し背が低い三鱗は小田原北条氏のものです。

鎌倉幕府滅亡の際、北条一族郎党は迫ってくる戦火に覚悟を決めて、この裏山の東勝寺へと逃げました。そして、腹を切り、鎌倉時代が終わりを迎えたのです。
菩提を弔うために、後醍醐天皇が尊氏に命じてこの宝戒寺を建てさせたんですね。
怨霊が一番怖いですからね。

境内に咲き誇る花を見ていると、その綺麗さがまた切なさを誘います。鎌倉幕府倒幕の軍勢が鎌倉の地に雪崩れ込んできたその日を思うと…

と、胸に痛みを感じながら、今回のツアーのクライマックス、東勝寺跡へと向かいます。

少し進むと滑川が見えてきました。青砥藤綱の石碑もあります。
太平記によると、この青砥藤綱さんはこの川に10文を落としちゃったんですね。探したけど、夜だから見つからない。仕方ないので50文払って松明を買って探したら、めでたく見つかった。めでたし、めでたし。

ん?でも待てよ?10文探すのに50文払ったらマイナスじゃーん!バカじゃーん!
と、藤綱さんにツッこんでみたところ、
「10文なんて、はした金だから拾うのやーめたなんて言って、10文を探さないで川の底に落としたままにしたら世の中にお金が回らないでしょ。たとえ損したとしても、50文かけて10文を拾えば10文も50文も世の中に回るでしょ。お金が回れば、天下のためになるじゃん。俺はそこまで考えてるんだよ。小さくセコイこと言いなさんな。けったいな奴やな」
と、青砥藤綱さんが言ったとか言わないとか。

落語みたいな情景を思い浮かべてニヤニヤしながら、橋を渡ります。
小さな橋です。木立の間から光が差して、キラキラして、とても綺麗な川です。もう河口が近いのに水も少なく、穏やかな流れです。すぐそこの小町通りの喧騒が嘘のようです。

この橋の位置を覚えておいてくださいね。もう少し上ったあたりで、かなり切ない妄想ポイントになりますので…。
そして、山の方へどんどん進みます。結構、上ります。先ほどの北条邸跡から見ると、やはり詰めの城のような位置にありますね。
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東勝寺跡は広い平場を残すのみ。見たところ、三段の平場になってます。
向かいには鎌倉市の放置自転車管理所があります。管理所の奥の方に、やはり怪しい地形。このあたり一帯全部が東勝寺の敷地だったんだろうな~。
そしてさらに奥に向かうと、腹切りやぐらです。
入り口には「霊所浄域につき、参拝以外立ち入り禁止」の看板。心なしか、一瞬にして、空気がひんやりとした気がします。
やぐらの前に立つと、若宮大路方面、そして海方面が見渡せます。
だんだんに火の手が上がって迫ってくる模様が一望できたことでしょう。
御家人たちは、さっきの橋のあたりで必死に敵を食い止めたと言います。
最後のひと働きと命を賭して戦ったのでしょう。北条一族が腹を切る時間を稼いだのです。

この場所からは遺骨は見つかってません。他の場所に運んで供養したのでしょう。
あまりの出来事に、当時の人々の感情に想像が追いつきません。ただただ、胸が苦しく詰まります。

さて、今日のツアーの終わりも近づいてきました。
1236年-1333年の滅亡まで幕府が置かれてた若宮大路幕府跡、1225年-1236年までの幕府が置かれてた宇都宮辻子幕府跡に立ち寄りました。今は石碑しか残ってません。
この二つは歩いて数十mほどの位置。先に立ち寄った大倉幕府だけが少し離れてます。北条氏が権力を握ったあと、大倉の地から離れることによって、色々と一新したかったのかもしれませんね。



今日の行程は10kmちょっと。ちょうど、6時間の旅でした。
おわり。
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