「いざ!三浦一族の聖地、衣笠城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)
タウンニュースにて連載の三浦半島のお城シリーズ!!
今回はジャジャーン!!
衣笠城!!!!
ではでは、ドキドキワクワク!クリックどうぞ!
クリックすると拡大しまーす!PDFになってます。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
タウンニュース連載記事です!
クリックすると拡大しまーす!
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
衣笠城址というと、地元の人は花見客で賑わう衣笠山公園を思い浮かべますが、あの桜の名所は城址ではありません。衣笠城があったのは衣笠山公園より衣笠インター方面に1キロほどの衣笠山です。
横浜横須賀道路の衣笠インターを下りると「衣笠城址前」という信号があります。まだ歴史にも城にも全く興味がなかった若かりし頃の私は「城址?なにこれ、お城なんてないじゃん。変なの」と思ったものです。
でも、衣笠城は日本城郭史上有数の名高いお城なんですよ。源平争乱期に登場するし、草創期のお城を考えるうえで極めて重要なお城なんですね。
重要な城なのは確かなんだけど、重要な城だけにいろんな説が飛び交ってまして、わたしの頭と心もモヤモヤ&ザワザワするわけで。 山頂にある石碑
まず、今まで語られてきた衣笠城のお話を。
山の中腹にある大善寺の縁起によると、衣笠城は前九年の役で源義朝に従って功をあげた平為朝が三浦の地を与えられて城を築いたということになってます。
衣笠城が歴史の舞台に登場するのは1180年源頼朝が伊豆で挙兵したとき。
挙兵に応じて石橋山に向かった三浦一族は途中で暴風雨のせいで合流できず、本拠衣笠に引き返します。その途中で畠山重忠軍と遭遇し合戦に及ぶも競り勝ち、無事に衣笠に戻ってきます。しかし、畠山重忠らが攻めてくるとのことで衣笠城に臨時の防御を施し、迎え撃つことになったのです。
そのときの守りのフォーメーションは…。
大手に当たる東木戸口は三浦義澄、佐原義連。西木戸口は和田義盛、金田頼次。中陣は長江義景、大多和義久。
と、まぁ豪華な面々。
だけど、奮戦するも力及ばず。
すわ!落城か!
というときに棟梁の三浦義明を残し一族は脱出し、安房にて頼朝と合流するわけです。一族を無事に城外に逃がした義明は城で壮絶な討ち死にしました。
吾妻鏡によると、衣笠合戦の経緯はザッとこんな感じ。
さらに、「源平盛衰記」によると、もっと詳しく楽しく描かれてて。
「木戸を三重にしろ!一の堀には橋を広く渡せ!中の堀には細い橋を。二の堀には逆茂木を立てろ!」
なんて感じに盛り上がってます。臨時的に防御施設を整えようとした感じですね。大手道を上がっていきます。源平盛衰記の一節を思い浮かべながら歩いていくと、ゾクゾクしますね。段々になってて、とてもそそられます。
大手道途中、なんだか怪しい感じね。
旗を立てたと伝わる大岩。民家の庭の奥にありますが威容を誇ります。
中腹にある大善寺。三浦一族とゆかりの深い寺。
そもそもこの衣笠山は信仰の対象の山だったんですね。大矢部方面から見ると山の形が綺麗なので、それで聖なる山に選ばれたのかな?
大正8年には物見岩の周辺から経塚が発掘されて、経筒や鏡、中国製の白磁の合子とかいろんなものが出てきました。高級な舶来品であることから、三浦氏が経塚を造ったのは間違いなさそう。このあたりは平安期の金峯蔵王権現社や不動堂があり、まさに三浦の聖なる地なわけですね。経塚が見つかった物見岩周辺。岩の周りには堀切と言われれば堀切っぽいものが。
物見岩の上には祠。
では、衣笠城を語る上で何が問題かというと…。
なんと、衣笠城址に城郭遺構が残ってないということが問題なんです。
えーーーーっ!!そうなの?
そのため、最近では「伝衣笠城」などど書かれることもあり、伝承の域を出ないという扱いに変わりつつあるんです。今までの定説では三浦半島のほかの城たちは、「衣笠城を守るように馬蹄型に配置された支城群」なんて言い方をされてたんですけど、そもそも衣笠城って城なの?ってことになってきてる訳なんです。平場も何だか微妙…土塁と言われてるものは城郭遺構っぽくなく、寺の名残りか公園の整備をしたときのものっぽいな。
大善寺から上がる階段。
一応、搦手と言われてるあたり。
ざっと大まかに説をあげると
①三浦一族の本拠地衣笠城だ!!
②あくまで信仰の山だ。だけど、衣笠合戦ではここに籠り、防御施設をつくり、畠山軍を迎え撃ったんだ!恒常的な城ではないけど、合戦地なんだ!
③衣笠山は信仰の山だ。衣笠合戦もここではなく、大矢部の地だ!
…などなど。というかんじに入り乱れてます。
いろいろ読んだり調べたり、「軍機密」って書かれた地図を見たり、何度も現地に行ったりして考えたけど、私としては衣笠城はやはり信仰の山であり、城ではないと思う。だけど、衣笠合戦で籠ったのは衣笠城址と言われてる衣笠山なんじゃないかなと思います。逆茂木程度の簡単な防御を築いて迎え撃ったんじゃないかな。
大矢部が本拠地の三浦一族。
大矢部の今の清雲寺の台地に三浦の館があったとして、そこで立て籠もって戦ったのなら、あのあたりの場所を吾妻鏡は「衣笠城」って言わない気がします。衣笠山に臨時的に籠って戦ったから「衣笠城」って言葉ができたんじゃないのかな。そんなことをつらつら考えて今年も暮れていきますね。
どこで戦ったんだろう。あー!タイムスリップして見てみたい!!タイムマシーン、プリーズ!!!!!
先日、ある会のガイドで、横須賀のとある博物館を訪れて、学芸員の方のお話を聞かせてもらった時の事。
その学芸員の方が、衣笠城の模型の前で、「衣笠城は城って言いたくない!城郭に見えないもん!」と言い放ってました。そして、その一言だけ言うと、衣笠城の話は何一つせずに、終わり……。
事情が分かってる人は言ってる意味が分かりますが、そのときその場にいたのは「山城って何?天守閣がなくてもお城なの?よくわからないけど、山城めぐるりしてみようかしら」みたいな、今から山城を廻ってみようとしてる人ばかりだったので、みなさん困惑してました。
え?城あとじゃないの?じゃ、ただの山なの?歴史的に意味がないの?どうゆうこと?って。
なんだか愛のかけらもない言い方に聞こえて悲しくなりました。
だって、「城郭」じゃなくても衣笠山に歴史があったのは確かな訳で。三浦一族の信仰の山であり、衣笠合戦のときにもあそこに立て籠もった可能性は大いにあるし。城郭として否定するなら、あんな言い方じゃなくて、ちゃんと初めての人たちにもわかるように経緯を説明してほしかったな。
「城郭」かどうかだけではなく、ちゃんと歴史があったことを。
歴史の楽しさを伝えないから歴史に興味のない日本人が増えちゃうんだと思う。…と、ブツブツ言ってみたりして。
と、まぁそんなこんなで、衣笠城&大矢部城の周辺のガイドコースをご紹介して終わりとしますね。
コースの詳しい内容は一番上の手書きプリントをご参照くださりませ。
この辺りを歩いてるとゾクゾクしてきますよ!ぜひ、お出かけください。
JR衣笠駅
⇓
衣笠城
⇓
小矢部城
⇓
衣笠城
⇓
摩崖仏
⇓
満昌寺
⇓
近殿神社
⇓
三浦義澄墓
⇓
清雲寺
⇓
大矢部城
⇓
腹切松公園
⇓
京急北久里浜駅
| 固定リンク
| コメント (1)
| トラックバック (0)