「いざ!大多和城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)
タウンニュース連載も気づけば8回目!!早い!あっという間の「其の八」です。
今回は「大多和城」です。
ではでは早速タウンニュースの記事を!!
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大多和城は横須賀市太田和にあります。今の地名は「太田和」と表記しますが、城名、名字は一般的には「大多和」と書きますね。
この太田和には地元ではとても有名な幼稚園があります。
実はこの幼稚園、知る人ぞ知るイルミネーションの名所なんです!!クリスマスシーズンになると、地元のみならず、遠くから人がわんさか訪れるほど!!
幼稚園全体が魔法の国のようにキラキラ!
ここは夢の国?と思わんばかりにイルミネーションで光り輝きます。しかもまわりは何もなくて真っ暗なもんだから余計にビックリするほどに目立ちます。
※これだけ言いながらイルミネーションの画像はありません。あしからず…
と、まぁ地元の人からすれば「太田和なんてイルミネーション以外何もないでしょ?」と。
でもでもでも!お城があるんですよ。
じゃじゃん!これが大多和城だい!
はい。いつもどおりただの山な感じですね。標高20mちょっと。
それにしても青空きれい~。
今は山頂に福祉施設ができてしまって半分くらい壊されてしまいました。
まだ残ってる部分にガシガシ入っていきましたが、遺構はわからず。
ここは平安末期から鎌倉時代に大多和義久が築城したと伝わっています。義久は三浦義明の子です。なので、三浦義澄や佐原義連とは兄弟ですね。
義久はここの地をもらったので「大多和」を名乗りました。
ほかの兄弟は義春が「多々良」、義季が「長井」、義連が「佐原」、重行が「杜戸(森戸)」をもらってそれぞれ名乗りました。多々良は鴨居の浜に多々良浜ってありますがあそこですね。森戸は葉山ですね。現地にはこんな石碑と、
こんな棒…もとい、標柱しか残ってません。何もないよりはいいけど。
ヤジロー山って呼ばれてるらしい。「矢城山」「弥二郎山」「矢次郎山」とか表記してる資料などあり、意味は不明。「矢」っていうと本拠地の「矢部」が浮かぶけど…。義澄は「矢部次郎」って呼ばれてたし…。うーむ…。山裾を流れる川。小田和川と言うらしい。
城山のまわりは田んぼ、湿地になっててこの川とともに防衛の役割だったんでしょうね。
城山の前の道路はまっすぐ三浦氏の本拠地、衣笠・大矢部に繋がってます。たった4km!ここがいかに重要な守りの要であったことが分かりますね。
この大多和義久は葉山の鐙摺城にも居を構えてたとされ、鐙摺城から海沿いを経て大多和城のあたりのルートを押さえていた感じかな。
ちなみに鐙摺城は葉山日影茶屋の目の前の山です。日影茶屋はサザンの歌にも出てきて有名でオシャレな感じですが、その目の前が実は城址だったんですね~。
この鐙摺城は頼朝の愛妾「亀の前」が逃げ込んできた場所として有名。
亀の前は吾妻鏡さえも絶賛したほどの人だったらしいですね。亀の前は伏見広綱の館にいたんだけど、正妻の政子に襲撃されて命からがら鐙摺城に逃げ込んだとのこと。
このことからも義久と頼朝の信頼関係も見えてくるような。
ほかにも頼朝が逗子の岩殿寺に参拝したときや、逗子の海に遊びに来たときも食事を出したりしたそうな。三浦義澄や佐原義連も一緒だったんだって。なんか想像すると楽しい。城山のまわりは今でもこんな感じに小川が。
吾妻鏡では、衣笠合戦の時に中陣に布陣したとされる義久。この大多和城がいつ築城されたかの詳細は不明だけど、衣笠合戦に向かうときにここで戦支度をしたかもしれないし、家臣たちに色んな指示を出したかもしれない。城の目の前から衣笠にまっすぐ伸びてるこの道を胸を熱くして進んだかもしれない。
なーんてことを想像して、こっちの胸も熱くなるのはやはり現地に行ってこそ。
ぜひ、ふらりと出かけてみてください。
ちなみにこの大多和氏。時代が下って、太平記に「大多和」の名が出てきます。兵6000を率いて、分倍河原の戦いで新田義貞に加わって勝利に導いたと。
大多和氏は和田義盛の乱と宝治合戦で北条方について生き残ってるからあり得なくもないような気がしてワクワクしちゃいます。
ほかにも横須賀の名家、永島家との関係もいろいろと面白くて。
その辺はまたの機会に。
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