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2017年5月の2件の投稿

2017年5月18日 (木)

「山城ガールむつみの寺子屋!」の巻 其の四

2017年3月24日
山城ガールむつみの寺子屋!第4回!開催されました~。
またまたたくさんの方に来ていただき感謝です。
初参加の方もチラホラ。嬉しいですね。

まず、マクラがわりにちょっと前に行った静岡の旅のお話を。
お土産の直虎クッキーも振舞いました。THEおみやげって感じのクッキーでしたが、美味しかった~。

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そして、お城ブームにかこつけて松江城のお話を。
知ってます?松江市って大手門の復元に当たって、懸賞金出してるんですよ、500万!!
大手門を復元するから、当時の姿の分かる絵図か写真に500万!!
平成28年4月から1年間の期間で募ってたんだけど、期間終了の現在でもまだ見つかってないらしい。
みなさん!松江に知り合いか親戚いませんか?蔵を持ってればなおよし!チャンスですよ!と、ハッパをかけさせていただきました(笑
松江城は2015年に国宝になった時も500万の懸賞金懸けてるんですね。築城年が書かれた祈祷札に500万!すぐに神社から見つかって、晴れて国宝になりました。その時の500万を神社側が辞退したので、今回の大手門復元にその懸賞金が回されたんですね。
ちなみに松江城の祈祷札は見つかって、慶長16年(1611年)って文字は書いてあったけど、「松江城」って文字が入ってなかった。状況証拠から言ったら、松江城のものに間違いなく、1611年に松江城が築かれたってことになるんだけど決定的な証拠にならない。そこで、関係者総出で松江城の隅から隅まで探したんですって。その祈祷札と形が一致する痕があるはずだと。そしたら、地下の井戸の横の柱にピタッと一致する痕が!!
それが晴れて決定的な証拠となり、国宝になりましたとさ。ちゃんちゃん。

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そんな話をしながら、たまに山城の話を。
ほんとうに山城の話はたまに挟むだけという雑談会。
今回は大矢部城の話をして、本の紹介コーナーでは磯田道史さんの「歴史の愉しみ方」を。わたしは磯田さんが大好きです。歴史を見る目が、切り口がとても暖かくて優しい。こんな風に歴史を感じる人がいたんだ、という嬉しい気持ちになり、感動します。

前にNHKの「達×達」という、違うジャンルの達人たちが対談をするという番組で磯田さんとさかなくんが対談してました。なんて異色の二人!!この二人を選んだスタッフもすごい!

その中で、磯田さんが「僕とさかなくんの共通点は無償の遊戯性を持ってることだと思う」と言ってました。要は、好きなことをやってたら楽しくて楽しくて仕方がなくなり、これを人に伝えたい!この楽しさを知ってほしい!という想いから今ここまで来たと。最初は自分が楽しければそれでよかったのに、突き詰めれば突き詰めるほど自己満足じゃ済まなくなったと、そういうことだと私は解釈しました。
なんだか磯田さんの人柄を表してるような言葉に思えて、とても心がくすぐられました。
好きだからやる、それがスタートだと改めて励まされてような気分。ちなみに私は、さかなくんも大好きです。

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話が逸れましたが、今回紹介の本は磯田さんの歴史コラム、読売新聞の「古今おちこち」の連載をまとめた本です。
忍者の子孫の古文書を調べた話や、古文書から読み解く地震や防災の話。
一番のお気に入りは東京発の新幹線の車窓から見るお城の楽しみ方。しかも、お城も楽しみつつ、関ケ原に向かう家康の気持ちも味わおうという、一粒で二度おいしい歴史の愉しみ方!帰り道は東に向かう石田三成の気持ちを味わいつつ帰路に着く。

面白いんですよ。「どこどこ駅を過ぎたら、進行方向右の席に行け」とか、「どこどこ川を越えたらデッキに行け」とか言って、新幹線からの楽しみ方を指南してくれる。結構、本当に実践するとかなり怪しげな行動も含まれますが…(笑
そんな可愛くも楽しい歴史の愉しみ方。よかったら読んでみてください。

次回の寺子屋は5月26日(金)。ご参加お待ちしてます!!

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2017年5月12日 (金)

「いざ!多々良城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

タウンニュース連載11回目!!
ということで、今回は「多々良城」です。

ではでは早速タウンニュースの記事を!!
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓
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多々良城は多々良氏の居館だったと思われます。城というより、館ですね。
この多々良氏は三浦義明の4男、義春がこの多々良の地をもらって「多々良氏」を名乗ったと言われてます。
横須賀市鴨居に「たたら浜」という海岸があります。学生時代、よくBBQをやりました!きれいな海岸です。
このあたりに居館があったと伝わりますが正確な場所は分かっていませーん。

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とんびがすごいんですよ。なぜかいつも私だけ攻撃されるので本当に苦手。そんなに、どんくさそうに見えるんでしょうか。


横須賀の鴨居は浦賀と観音崎の間辺りに位置する、とても風光明媚な場所。近くには深い歴史を持つ走水もあります。走水はヤマトタケルが房総に渡ったとされる場所ですね。弟橘媛が身を挺してヤマトタケルを助けた哀しい話でも知られてます。古東海道は走水から上総に延びていたんですね。


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たたら浜から500mの鴨居八幡神社は源頼朝の命を受けて、多々良義春が鶴岡八幡宮より勧請したと伝わっているので、このあたりが多々良氏と縁が深いのは確かだと思われますね。
※タウンニュースに「鴨居八幡宮」と書いてしまいました!!!ごめんなさい!!なんてこったい!!


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多々良氏は三浦氏の中で、少し存在が薄いかな。でもでも、実はとても活躍したんです!
平家物語の一の谷の合戦のとこに、義経や佐原義連、三浦義澄らとともに多々良義春の名が見えます。彼らと一緒に戦ったのか~と、目を細めてしまいます。


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境内には立派な銀杏の木も。


吾妻鏡によると、多々良義春の子の重春と明宗は、頼朝の挙兵の時に、三浦義澄らとともに石橋山に向かったようです。酒匂川の増水により、三浦に引き返す途中に由比ガ浜で畠山軍と衝突。果敢に戦うも重春は果敢に戦い討ち死。
その後、重春の弟の明宗は鎌倉の勝長寿院の落慶供養に参列。
勝長寿院は頼朝が父の義朝の菩提を弔うために建てたお寺で、三浦義澄ら三浦氏を代表する面々が居並ぶ中、明宗も参列したんですね~。
ちなみに重春のお墓は鎌倉の来迎寺にありますよ。

ほかにも、頼朝の上洛に供として付いて行ったり、さらには由比ガ浜で笠懸の射手をも務めました!すごい!
笠懸の射手はとっても名誉なこと!しかも、上洛のお供まで!頼朝の信頼を受けていたことがわかりますね~。
笠懸(かさがけ)ってのは流鏑馬みたいに馬から弓で的を射るんだけど、流鏑馬がかなり儀礼的だったのに対して、笠懸は略式というか余興的な感じ?流鏑馬より難易度が高くて、実践的というか。競ったり、ゲーム感覚でやったりと。ま、ともかく上手い人しかできない大変名誉なものだったのでございます!!
三浦義澄、和田義盛とか、三浦一族は弓上手として知られてたらしいです。笠懸は三浦一族のお家芸。今も年に一回、新井城の海岸で開催される三浦道寸まつりで見ることができます!!今年は5月28日!行かなくちゃ-!
弓馬術っていうと、あとは犬追物ってのもありますね。

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たたら浜の公園の奥には大規模な大規模な古墳時代の横穴墓群が見つかっていたり、近くでは弥生時代の集落も発見されているので、古来、人が集まっていた土地だったんですね。
いまではたくさんの家族連れで賑わってます。
この削平っぷりは戦時中の経緯からくるものかな?軍の演習で浜を使ってたみたいなので。会津藩がこのあたりに陣屋を築いたりもしてますしね。


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多々良館のあった場所の手がかりと言えば…。
「新編相模国風土記」によると、
石井塚と呼ばれる塚があって、それが由比ヶ浜の合戦で重春と一緒に討ち死にした石井五郎の墓と伝わるとのこと。そのあたりを館跡としてます。観音埼灯台のあたりかな。
このあたりは、砲台が築かれたりとだいぶ地形が変わってるので、全くわかりません。

ほかにも、「三浦古尋録」には、
三軒谷が屋敷跡か?などとも書かれています。三軒谷は昔は「三軒家」と書いたらしく観音崎のバス停のあたりです。
ま、とにかくどっちにしろ全くわかりません。

ほかの手がかりと言えば、多々良氏のお墓?っていうのが出土。会津藩が江戸末期に海防のために陣屋を建てたとき、五輪、骨、刀とかが出てきたらしい。浦賀誌録では多々良氏のお墓と推察してる。

あと、怪しいなと感じる物があるのは、西徳寺というお寺。鴨居八幡神社から、歩いて2分。

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西徳寺境内。裏手に裏山に登る道。
さらに上には上の台遺跡があります。今は中学校になっちゃってるけど。
上の台遺跡からは縄文時代の土器や弥生時代の竪穴式住居139棟が発掘されています!
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この変の地形が怪しい。
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登り切ると平場になってて、お墓が。これは会津藩のお墓。こっちに海防とかで来て、亡くなった人のもの。


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和田地蔵。和田義盛が戦勝を祈願したと伝わる!このお寺の前の川に流して、川下、川上のどっちに流れるかで戦勝を占ったとも伝わる。


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この川かな?


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さらに境内には和田義盛の剃刀塚なる物もあります。義盛が月代を剃った剃刀を埋めたとも伝わる物の詳細不明。こんもりしてるー。
西徳寺は1560年に鎌倉の光明寺の末寺として開かれたらしいんだけど。じゃ、その前は何だったの?ってことで。
なぜ、こんなにここに和田関連の物が?!
和田氏は新潟の奥山荘を領地としてもらいますが、その奥山荘の文書の中にも多々良の名前が見えます。和田氏と多々良氏は同族の中でも近しい間だったんですね。
まぁ、とにかく、この西徳寺あたりも怪しい場所です。


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剃刀塚の所にはこんな祠も。


散々、たたらたたらと言ってきましたが、「たたら」というと思い浮かべるのは製鉄でしょうか?日本で発展した製鉄方法ですね。たたらというのは製鉄するときに火力を強めるために使う鞴(ふいご)を指します。
「ふいご」と言えば、職場で11月8日に鞴祭りをやります。鋳鉄とか扱う仕事なので。
お神酒や餅、みかんなどを供えて、鉄をカンカンとみんなで打って、
「いや~さか、いや~さか」と唱えるんですね。「いやさか(弥栄)」です。
商売道具である鞴の労をねぎらって、火の安全と仕事の繁栄を祈願するんですね。
仕事中にお酒が飲めるという楽しい日です。

旧暦のころから11月8日は、鞴を使う鍛冶屋、刀工、鋳物師たち職人の祭日でした。この日は仕事を休んで神社に詣でて、ふいご祭りを行ったんですね~。


話が逸れましたが、「たたら」というとそんな感じのことを思い浮かべます。
三浦一族の鍛冶が、たたら浜あたりに住んでたりしたんでしょうか?古代から製鉄が行われていた場所だったのかもしれませんね。
ちなみに三浦義明の太刀をつくったのは沼浜の鍛冶職人と言われてます。沼浜とは今の逗子市沼間のことです。当時、沼浜には頼朝のお父さん、義朝の館があったと伝わります。現在の法勝寺のあたりです。
このように三浦半島にはいくつかの鍛冶が存在したんですね。
なので、多々良に鍛冶職人が存在していた可能性は大いにありますね。
しかも、戦国時代には鴨居で大筒(大砲)が造られていたようです。

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とにかく、たたら浜に立って思うのは房総半島が近い!ということ。久里浜の海岸で見るより、近い!しかも景色が全く違う。久里浜の海岸から見慣れた富津の火力発電所がない!こんなにも景色が違うんだ?ということに上手く理由は言えないけど驚いた!
館跡がどこであれ、こんなに海の目の前で房総が近いんだからきっと水運水軍的な要素でも使われてたのは間違いないはず。
たたら浜の砂浜は白砂でとても美しい。
お散歩がてら出かけて海を見ながら思いを馳せるのもいいですね。

おまけにもう一つ。
歩いてたらこんな案内板を。
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横須賀中央のあたりの「若松町」は会津若松から来てるんですね。いまでもこの絵のような名残りがあり歩いててとても楽しい道でした。

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