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2017年6月の4件の投稿

2017年6月29日 (木)

「山城ガールむつみの寺子屋!」の巻 其の五

あっというまに5回目の「山城ガールむつみの寺子屋」が5月26日(金)19時から開催されました。今回は逗子の花火大会と重なってしまい、数人の方から
「ごめん!天秤にかけて、花火を取ります!」という連絡あり…。致し方なし。だって、逗子市の花火大会ってすごいんですよ。ラスト10分の花火の上がり方ったら。誤って暴発したとしか思えないくらいに、ドカンドカンと上がります。笑いが止まりません。私だって、花火行きたかった!…おっと。口が滑りました。

 

と、いうことで席がガラガラかとビクビクしながら来ましたが、今回もたくさんの方に来ていただきました。ありがとうございます。


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いつも通り、城って何?山城って何?という話をサラっとした後は、考古学がお城の研究に取り入られるようになって、城郭研究がどう発達したかというようなお話を。
お城の研究は江戸時代前からされてるけど、当時は文献や絵図による研究でした。明治に入って、軍事施設ってことから陸軍が調査をするようになって。そこから縄張図の研究とかが始まったわけで。そのころから、城郭研究には考古学的調査が有効だとは言われてたけど、発掘調査された中世の城は安土城くらいで。古代だと、東北の柵や九州の古代山城。
それが1970年代の日本列島大改造論でどこもかしこもが開発開発という時代になって、それに伴って発掘調査が行われました。
そうしたら、出るわ出るわ!いろんな新しい発見があったのです!
例えば「落城」って簡単に言うけど、落城にもいろいろあるわけで。攻められて、業火に包まれて落ちた城、和睦で明け渡しになった城、ひとくちで「落城」と言っても大違いですね。発掘が行われる以前は、それすらも分かってなかったわけなんです。

そして、結果わかったのは焼け落ちた城は思いのほか少ないということ。
例えば、ドラマとか映画で、小谷城はゴーゴー燃えて描かれてるけど実際は焼け落ちてないし。こういう風に文献だけでは分からなかったことが見えてくるんです。
あとは、掘りだされた陶磁器とかいろんな遺物も歴史を紐解く手がかりになりますね。

さらには山城の曲輪から見つかった礎石!発掘調査がされるまでは、生活は山頂ではなく麓の根小屋で…というような話だったけど、掘ってみると臨時的な建物ではなく恒久的な礎石建物が建ってたことが分かりました。生活用の陶磁器なんかも見つかったりして。山頂に住んでたっぽいぞ!ということになった。守護大名クラスは山頂で生活してたみたいだぞ!と。こうやってだんだん、当時の実像が見えてくるんですね。今後の研究がますます楽しみですね。



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続いて、今回は東京にある渋谷城のお話を。
わたしは小さいころ渋谷に住んでて、ベビーカーでの散歩コースが金王八幡宮だったんです。記憶ないけど…。実はそこが渋谷城だったんです。横須賀に引っ越してきて、どんぐり山って呼んで、駆けずり回って遊んでた裏山が実は怒田城だったように、お城に縁がある…と、いうか、いかにお城というものが身近にあるかってことですね。そのへんにゴロゴロあるわけです。
もっと詳しく書こうと思ったんだけど、渋谷城の話は長くなるので、次のページで書くことにします。


今回の横須賀のお城紹介は公郷にある神金城。「かりがね」と読みます。
前にブログで詳しいこと書いたのでそちらをご覧いただければと思います。
ほぼ、何も残ってないけど、現地に行くと意外と楽しい。たいした高さはないけど、その辺まで来てた入江が想像でき、街道も見下ろせて想像するのが楽しい。こっそり入ったお寺の敷地には平場があったりして、思いのほか楽しめる城址だと、そんな話をしました。


Photo_2             神金城全景

ここで一番話したいのは「宗元寺」について。
今は横須賀高校の奥に「曹源寺」っていう寺がありますけど、かつては横須賀高校のあたり一帯に大伽藍を持つ、一大寺院「宗元寺」がありました。四方が100m以上の土塀で囲まれてて、出土した瓦から推測すると、時代は奈良時代まで遡るらしいんです。伽藍は法隆寺様式と同じって言われてるけど、確かなことは分かってない。ただここが奈良時代の三浦半島の中心地なんです。天平年間、聖武天皇が諸国に国分寺を建てた頃ですね。

大規模な寺院を建立できたということは、平作川流域や周辺一帯を支配する有力豪族が存在し、中央政権に対して忠誠を誓っていたということだと考えられます。

 

門前には、衣笠栄町方面から大津方面へかけて古東海道が延び、屋敷や役所が建ち並んでいたと想像されています。古東海道に沿って、相模と上総を結ぶ陸橋的な役割を果たした三浦半島の中心だったんですね~。

 

付近から土師器、須恵器も多数出土。かなりの数の人が生活してたよう。
 
「横須賀市史」によると…
 
出土した須恵器の中にはかなりの高級品も混ざってて、地位の高い人たちが住んでたと考えられる。豪族・役人のの居住地、役所のような建物が集まる栄えた場所だったのではないか…とのこと。

鎌倉時代までは、創建以来の伽藍がそのままあったと伝えられ、源頼朝が神馬を奉納するなどもあったとのことです。その後は衰退の一途をたどりました。1331年に鎌倉幕府がなくなる時の一連のゴタゴタで焼失してしまいました。

 

その後、1628年に代官、長谷川長綱が再建。いまの曹源寺はかつての宗元寺の薬師堂に建ってるんですね。

 

さっき出土した瓦から時代は奈良時代にさかのぼるって、簡単に私言いましたが、この瓦奈良時代のものだってわかったのにはすごい苦労があって。

 

 

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横須賀高校辺りから瓦が出土しました。花をデザインした二種類の模様の瓦。これを研究したのは赤星直忠先生って言う考古学者。三浦半島城郭史っていう三浦半島の歴史研究の礎をつくったような方。明治35年に横須賀市で生まれて、88歳で亡くなるまで、縄文時代から中世の城郭、やぐらまで、神奈川県全体の研究をしてた素晴らしい方です。

この人の赤星ノートって言われる資料は神奈川県埋蔵文化センター、馬車道の県立博物館にも収蔵されてます。
この赤星先生は、瓦の出所が分かれば、三浦半島の歴史が見えてくるんじゃないか?ということで、リュックにたくさんの瓦を詰めて、奈良京都の古い寺をしらみつぶしに調べてみることにしたんですね。涙が出るほどの情熱!!
どれくらいの時間がかかったのか分からないけど、結構な時間がかかったはず。熱意が実って、奈良県の西安寺っていうお寺の跡地から見つかった瓦と一致した。これによって、片方の瓦が奈良時代の終わり、もう片方の種類が平安時代初め。宗元寺は規模が大きいから、時間をかけて、法隆寺のような伽藍を完成させたことが分かったんですね。

 

 

 

ここの寺は仏像が素晴らしいのです。

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なんとかレンジャーみたい。「かっこよすぎる仏像」ってニュースになってました。薬師様の横にいる12神将。まさにナントカ戦隊!この12神将は国立博物館所蔵です。国の重要文化財。建久年間(1190-99)に制作されたらしい。今、お寺にある12神将はレプリカです。黒ずんでてすごくよくできてる。
ぜひ、本物を上野まで見に行ってみてください。常設されてます。

 

勝手に本紹介のコーナー。
今日はこの本を紹介。岩井三四二さんの「光秀曜変」を。

9784334769437
この人の小説はシュールなんです。ブラックユーモアというか。ちょっと面白い切り口の歴史小説で私は好き。

 

 例えば、忍者というか忍びを書いた「竹千代を盗め」って小説があるんだけど、徳川家から大きな仕事を頼まれた落ちぶれた忍者の話。大きい仕事で嬉しいんだけど、落ちぶれすぎて部下がいない。慌てて親戚や知り合いを頼って集めるんだけど、文句ばかり言われる。で、徳川家からは話が違うほどの難題を持ってこられたりして、また部下に文句を言われる。板挟みの中間管理職みたいな感じ。なんかシュールでクスリと笑ってしまう。でも、歴史の背景とかもきちんとしてて楽しめる。

 

 他に「とまどい関ヶ原」っていう短編集があるんだけど。それは関ケ原の戦いにかかわった人たちが自分のすべき事、進む道をワタワタと、とまどいながら模索しながら戦いに参加してく話。そこには断固とした思いを持ってる武士もいれば、巻き込まれて泣きそうになってる人たちもいたり、いろんな目線から描いててこれもオススメ。表舞台と裏舞台の色んな人がそれぞれ迷って、とまどってて。その中に野心や策略やいろんなドラマ。その中でも「敵はいずこに」っていう徳川秀忠の話がわたしは一番好き。よかったら読んでみてください。

 

 で、今日紹介するのは光秀の話。

 

 本能寺の変を起こすに至るまでに、光秀に何があったのかという話。まぁ、これだけ聞くとありきたり。
世の中にはたくさん本能寺の変がらみの本が出てますからね。いろんな検証する本も。野望説、怨恨説、黒幕説とかいろいろ言われてますし。
実は、
そもそも光秀の生まれた年もはっきりわかってないんですね。いろんな書物によると、本能寺の変の時の光秀の年齢は、55歳、57歳、63歳、67歳とバラバラで。最近は67歳ってのが注目されて取り入れられてるらしい。その根拠は「当代記」。江戸時代初期、軍記ものではなく編纂もの。

 

この小説では本能寺の変を起こした要因の一つに、認知症を挙げてます。光秀は認知症を患ってたんじゃないかと。もちろん他にも今まで言われてきたような複合的な理由もあるんだけど。
光秀のいろんなおかしい行動として、笹のちまきを笹の葉を取らずに食べたとか、
二度三度くじを引いたとか、他にも妖しい行動が確かにある。これが小説としてとてもうまく面白く書かれてる。

 

 色んな人の目線から、光秀の行動や言動、想いをあぶりだすように描いて物語が進んでいく。登場人物の中で、光秀との昔の話をする人物も出てくるから、光秀の半生も丁寧に追っていける仕組みになってる。読み進めると、光秀の気持ちが憑依してきて切なくてやりきれなくなる。

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今までにない光秀像として、ぜひ読んでほしい。これとあわせて、「死んだのか、信長」という短編集も。同じ岩井三四二さんの作品です。本能寺の変外伝的な小説なんだけど、一作だけ、「本能寺の変に黒幕はいたか」っていう歴史エッセイが収録されてます。ここで、端的にまとめられてるからこれも読んでみるといいと思います。私はこの人のタイトルの付け方のセンスも好き。これは光秀の年齢の検証とかも資料を例にとって書いてあるから、「光秀曜変」のあとに読むといいかも。

 

 

 

ということで、こんな感じで今回の寺子屋は無事に終了。次回もお待ちしてます!
次回は728日(金)19時!!



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5回皆勤賞の方々と。「5回!」のポーズですが歌舞伎みたいになってる~。ここには写ってませんが他にも毎回来て下さる方は何人かいらっしゃいます。ありがたいですね。


 

 

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2017年6月16日 (金)

「いざ!花園城・鉢形城へ!」の巻

最近は三浦半島の話題ばかりだったので、久しぶりに他県の山城めぐりのお話を。
Facebookには小まめにアップしてるんだけど、ブログだと、じっくりしっかり書かなきゃと思い後回しになってしまう…。
記事を貯めるより、とりあえずサラっと書こう!という、やる気満々な感じで紹介するのは「花園城」と「鉢形城」!埼玉県寄居町です。

今回は友人9人でお城めぐり。寄居駅に10時に集合して出発です。

まずは正龍寺へ。
ここには北条氏邦夫妻・藤田康邦夫妻の宝篋印塔などがあります。
花園城のあたりはもともとは鎌倉時代から続く藤田氏の所領。藤田氏は武蔵七党のひとつ、猪俣党の出。山内上杉氏の重臣だったんだけど、河越合戦の後に北条方に。
それで、藤田康邦が北条氏邦を婿にして、それ以降、藤田氏の嫡流は氏邦が継ぐことに。で、藤田康邦の子たちは用土氏を名乗ったそうな。

それにしても、氏邦、康邦ってややこしい。ここに氏康とか入ってくると、ますますややこしい!!
このあたりの住所は「藤田」。こうやって藤田という名は残ってるんですね~。

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この正龍寺は山門から立派!!本堂には北条の家紋の入った駕籠もありました!
あと、飛天もたくさん!

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他にも、北爪氏の武勲を賞し、氏邦から三ツ鱗の家紋を許されたとの碑。北爪家に伝わる氏邦の感状も。ぜひ、お立ち寄りください。





お次は花園城へ。諏訪神社の裏手を登っていきます。


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とくに道はない。と、いうか分からなかった。草ぼうぼうで、道らしくものが見つからん…。9人それぞれが思い思いに草をかき分けながら斜面を登るも、どれが道かわかんないー!誰の進む道が正解?
とにかく草を掴んで上るのみ!

うーん、私の勘だと、そろそろ竪堀が出現するはずなんだけどな…
あっ!!あったー!やっぱり~。と、二本の竪堀を発見!!
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これ、竪堀ですよ!横堀じゃないんですよ!!なのにこの写真写りの良さったら!!肉眼はもっとすごいです!これが横並びで二本!!叫び声上げました。

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そして、おびき寄せられるように進むと石積みの行き止まり!!
しまった!罠に嵌った!!!…ってな感じ。


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この石積みは正面にドバンと。大手道かな?
かなり埋まってるけど、掘ったらかなりの石積みがでてきそう!!
石積みに当てられて、進路を右へ。

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石積みの左手には横堀が入ってます。


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おっと!虎口!繁りすぎてて、めちゃ分かりにくいけど。
木の中に入ると良好な感じで残ってることが確認できました!


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角度がすごい!結構深いぞ!岩盤だ!うーん、ここは堀底が道なのかな?
…とキョロキョロすると発見~。

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あれに見ゆるは橋脚台じゃありませんか?
上ってみよう!


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ほーら。ビンゴ!!
ここに橋を渡してたと思われます!

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曲輪の上の土塁を歩く人たち。下には腰曲輪が続いてる。

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石碑もあった!

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本曲輪の横堀。これが竪堀に繋がっていくのかな。岩盤がっつり。

西側の斜面がどうなってるか見たくて、みんなでガソゴソ進む。迷彩のズボン履いてる人もいるもんだから、自衛隊みたい。迷彩色は森の中に入ると、まったく見つけられない。ゲリラ部隊のようで笑える!!

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ひとり、またひとりと藪の中に消えていく…


結局、道なき道を突き進み、雨上がりのため泥だらけになり、服もビショビショ。やっと出たと思ったら思い切り民家の庭。リビングで寛いでる家主と目が合い、頭を下げながら庭を突っ切らせてもらいました。
山の中ってのはなぜこんなに楽しいのか。全員、童心に帰ってましたね。



氏邦は永禄年間(1558-70)には鉢形城に移ってるらしい。豊臣軍に鉢形城は落とされたとき、花園城はどうなったのかな?攻撃されたのかな?
発掘されてないから、今のところは不明点が多いですね。
このお城はかなり面白い!石積みをなぞって行くと、気づくとおびき込まれてたりとワクワクドキドキ!またいい時期に来たいな~。


近くには伝藤田氏館もあり、その隣にも中世の館跡である箱石遺跡も見つかってます。それらを鑑みると、詰城としての花園城と居館の関係が見えて来るとの事。
by「関東の名城を歩く・南関東編」


と、いうことで次は鉢形城に。歩くこと、1時間。
素晴らしい荒川の渓谷が見えてきます。キャンプをやってる姿も見え、美しい景勝地です。
美しい景色とは裏腹にお城の北側は断崖絶壁!
「鳥も窺い難し」と言われたほどの天然の地形を利用した要害です。

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荒川の水運は昔から使われてて、この地が重要とされたのも舟運が発達してたからでしょうね。
長尾景春がここで主君の上杉顕定に反旗を翻して、鉢形城が歴史の舞台に出てくるわけで。なんやかんやあって、太田道灌に鉢形城が落とされて、ここは山内上杉氏の拠点になっていきます。さらに、なんやかんやあって、鉢形城は北条氏のものになり、氏邦が入って大改修を行い、今のような城になったんですね。

当時の文献から、鉢形・八王子・小田原を結ぶ道が明らかになってるらしい。すごく重要な街道ですね。そして、鉢形城も要衝地なんですね!


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本曲輪。自衛隊がいる!


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二の曲輪。ほんのりと畝堀。横矢もかかる。

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伝秩父曲輪の馬出のとこ。

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馬出の内側。石積みは補強の為かな?

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こっちも石積み。排水溝も完備。

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歴史館に行った後は外曲輪経由で馬出をみて帰路へ。
スマホの電池切れにより、全然写真が撮れず…。がびーん。
諏訪神社あたりもすごかったのに!悔やまれる~。

好戦派だった氏邦は鉢形城に籠るも、前田&上杉軍などに攻撃され開城。
氏邦は前田利家預かりになり、能登へ。鉢形城はまもなく廃城に。


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スマホの最後のひと頑張りで、記念撮影。
大宮で終電まで飲んで帰りましたとさ。楽しかったです。

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2017年6月 9日 (金)

「いざ!和田城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

タウンニュース連載12回目!!
早いもので12回目…ということは、1年が経ちました!あっとゆーま!!
ということで、今回は「和田城」です。

ではでは早速タウンニュースの記事を!!
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

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和田城址は三浦市初声和田にあります。「あります」といっても、遺構は何もありません。
この辺にあったのかなぁ?館くらいのものだったのかな?どんな感じだったのかな?当時の地形はどうだったんだろう?というような、みなさんの逞しい想像力が頼りです!!

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正確な位置も分かってませんが、国道134号の「和田」交差点を曲がると、「和田義盛旧里碑」があります。
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アップにするとこんな感じ~

さらのその目の前の坂を上がると「和田城址碑」があります。


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眩しい!字が読みづらい!


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今の地形はこんな感じ。右上に「和田義盛旧里碑」があって、赤い印のとこが「和田城址碑」。ここから、長浜海岸の方に下りてく道が続く。航空写真を見ると、一帯が台地になってるのがわかりますね。

付近には「城戸脇・空池・門後・出口・入口」などの当時を連想させる字名が残っています。「殿屋敷」という名も残り、それが上の航空写真の赤い印のあたり。「和田城址碑」のあたりとのこと。平塚農業高校初声分校…。ほら、怪しい。だいたいね、学校になってるところは怪しいんですよ。なんか、ニオウぞ。くんくん。

右下に「初声町入江」の文字。ここは文字通り入江だったので、臨海高校のあたりは完全に海の中ですね。
ふむふむ。航空写真を見てると、なんだか、雰囲気がちょっぴりイメージできるぞ。このあたりは新田開発されるまで、海が深く入り込んでて一面は水田でした。大穀倉地帯!大事な食糧庫に当たるわけです。三浦一族の屋台骨を支えていたんですね。

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旧里碑の目の前の坂を上ると、台地になってる、ちなみにこの道は明治になってからの道らしい。天王坂っていうんですって。


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坂の上にはこんな光景が広がります。延々と続く畑。どこを見てもキャベツ!キャベツ!キャベツ!
当時もこんな風景だったのかなと思わせてくれます。

和田義盛は三浦義明の孫です。お父さんは義明の嫡男。最初は怒田城に入って、そのあと鎌倉の杉本城に入りました。それで、「三浦」ではなく「杉本」を名乗りました。鎌倉の杉本城、いまは杉本寺として人気の観光地。そこに拠ったために杉本義宗を名乗りました。

義宗は安房国長狭城の戦いで若くして死んでしまったので、義盛が家督を継ぎました~。で、初声の和田の地にやってきたわけです。それで「和田」を名乗りました。ちなみに、義宗が死んだあとの杉本城には義盛の弟の義茂が入りました。

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杉本城の遠景。釈迦堂切通に向かう途中の道からの撮影。ここは釈迦堂切通も近く、抜ければ三浦半島。三浦氏にとって大事な地。

三浦義明からの武勇に優れた血は、杉本義宗、和田義盛&義茂兄弟、さらには義盛の子どもの朝比奈義秀まで、受け継がれていったんですね~。

和田義盛は頼朝の挙兵の時、義澄らと一緒に石橋山に向かいましたが、川の増水に阻まれて、衣笠城に戻って来ます。由比ガ浜で畠山軍とぶつかりそうになったとき、せっかく和議が成ったのにもかかわらず、弟の義茂の早とちりでドンパチ開始してしまったり、義明が衣笠城に立て籠もろうとした時に、義盛が「怒田城の方が堅固だからあっちにしようよ」と言ったりと和田兄弟の存在感は抜群!目立つわ~。

そして、侍別当に任じられ、幕府の要職を担っていくことになるわけですが建暦3年(1213年)5月2日、和田合戦が起こります。執権北条氏との全面戦争。横山党や渋谷氏などと、兵を挙げるも敗北。義盛は息子の義直の戦死に大声で泣き、敵陣に突っ込み討ち死にを遂げたと言われます。
この時の朝比奈義秀の政所門破りの武勇は後世に語り継がれてます。浮世絵とかにも描かれてますね。

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江ノ電の和田塚駅にある石碑。
数か国にわたる首謀者の広がり、死傷者の数、戦後の都や西国の動揺などを考えると、義盛の北条義時に対する私怨だけではなさそう。幕府に対する不満が全国的に広がってて、それによるクーデターという感じ。


和田義盛は人間味があって剛毅なイメージ。三浦一族の中でも、時代を問わず、愛されました。武勇伝はもちろんですが、ちょっと可愛らしいエピソードにも事欠かない彼は、生き生きと人物像を浮かび上がらせてくれます!!

永井路子さんは著書の中で、「鎌倉時代の幕開けとともに三浦半島は歴史の重要な舞台となったわけだが、その中でも千両役者は三浦義明と和田義盛なのである」と書いてます。この文章だけでワクワクしてきます。さすが、永井路子さんです!!


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こんな景色を見て、何を考えていたのかな?心休まる時はあったのかな?
越後国奥山荘、現在の新潟県胎内市ですがここは和田氏が地頭となっていました。
和田合戦で敗れた和田氏ですが、その後も和田の血脈は奥山荘にて、受け継がれていったのです!!
奥山荘には三浦一族の多々良氏の名前も見えるので、一緒に移ったようですね。


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長浜海岸。海が深く入り込み、近世まで湊があったとのこと。水運の要地でもあったことがわかりますね。

初声和田の地には義盛ゆかりの史跡がゴロゴロ。
和田の里の北側にあった安楽寺は鬼門として建てられたそう。そこの薬師三尊像は廃寺になってからは天養院に移されました。なんと藤原様式初期とのことで、三浦半島現存の仏像の中で最も古いかも!?ということ。
先日、33年に一度の大開帳で見てきましたが、たおやかで美しかったです!!
ちなみに天養院には和田義盛の位牌と、像があります。江戸時代に作られたとのことですが、位牌に「建暦3年5月3日」と和田合戦での義盛の命日が刻まれてるのを見たときは鳥肌が立ちました!!

他にも芦名の浄楽寺をはじめ、三浦半島には義盛ゆかりの寺仏がたくさんあります。
不器用ながらも一生懸命に一族を守り、祈った、そんな義盛の足跡をたどってみてはいかがでしょうか?

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2017年6月 6日 (火)

「いざ!歩け!佐原城&衣笠、小矢部城へ!」の巻(GGガイド其の参)

ありがたいリクエストにお応えして、横須賀グリーンゴルフにて3回目の歴史イベントです。今回も同じように三浦一族の本拠地の大矢部周辺をめぐりました。

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1回目と2回目は土曜日に開催でしたが、今回は日曜日。そのせいか、ほとんどが初めてのお客様でした。
初めての方が多いと緊張するー!!
ということで、張り切ってお話させていただきました。

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まず最初はスクリーンを使って、たくさんの写真を交えての山城のお話。

「山城という言葉を聞いたことある方?」
意外と多くの方が手を挙げてくださいました。

「お城って全国にいくつあると思いますか?」
などなど、そんな話からスタート。
建物の残ってないお城の楽しみ方、山城に散りばめられた仕掛けの見方など…山城に行ったときに楽しめるように、参考になるように、そんな話をしました。

後半は三浦半島の歴史のお話。
桓武平氏だった三浦氏と、源氏、頼朝との関係。そして、鎌倉幕府設立に向けての三浦氏の尽力、功績。日本の歴史にどんなに深く関わっていたかなどなど。
三浦氏は単なる三浦半島の一豪族ではないんですよ!日本の歴史においても素晴らしい功績を残し、今でも全国で活躍し、今でも色んなところで脈々と血が受け継がれてるんですよ!…なぁ~んて、まるで自分のことのように自慢げに力説しちゃったりして。

今日のウォーキングのメインになる衣笠城が舞台となった合戦のお話も。頼朝の挙兵から石橋山合戦、そして由比ガ浜から衣笠城とザザっとですが物語的に話させてもらいました。
あとは、衣笠城問題も。
衣笠城は城じゃないと言われる昨今ですが、たとえ城郭じゃなくても三浦の精神の拠り所だったわけで。聖地です。とても意味のある山なんです。
それを踏まえて、午後のウォーキングコースの説明なんかもしました。予定より、時間オーバーするほどたっぷりお話させてもらいました!

そして、鶴ジュンさんのキネシオテープ講座。
このテープは本当に魔法のテープのようです。貼ると、筋肉のこわばりが一瞬で緩和されて腰、ひざ、肩などの痛みがなくなります。青あざも消えます。
いつも、どなたかに実演してもらいますがまるでサクラ?かと思うくらいの効果がその場で現れます。四十肩の人が貼った瞬間に腕が上がるようになるんですよ!すごーい!貼ったら死人までも生き返るくらいの勢い(笑

そんなこんなで、横須賀で大人気のパン屋さん「Zacro」のサンドイッチランチを食べて出発です。

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クイズ用紙を配って、出陣なり!正解者の中から抽選でプレゼント!という楽しい企画。


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佐原城にて地形から、なんとなく当時の名残りを探す。ガクンと落ちてる感じが分かり、ただの丘だけど意外と高さのあることを実感。

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大矢部城。今日は上には登らないけど、今度行ってみてねと勧めてみたり。


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三浦義明の菩提を弔うために頼朝が建てた満昌寺。住職の永井さんと一緒に撮影。


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33年に一度の御開帳の薬師如来。本当は数日前に閉帳だったのにもかかわらず、開けて待っていてくれました!感謝!!

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衣笠城の「追手門」の石碑。みんなで、「ちっちゃ!こんなん気付くかいっ!?」と、ツっ込んでるところ。

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旗立岩に登らせてもらう。いつもご厚意で敷地内に入れていただいてます。

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物見岩。磐座。

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道が狭まり、ワクワク感が増してきた!!
ゾロゾロと隊列を組んで。


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衣笠城址から衣笠公園まで結構な階段を上ったあとのご褒美の景色。
横須賀ってなんて美しいんだー!!
疲れが吹き飛びますね。やっほー!!


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最後は小矢部城。今は、見事にただのマンションだけど、盛り上がりました!見る気になると、見えてくるものですね。
と、言うことで朝早くから夕方まで、かなり楽しく和気あいあいとしたイベントになりました。関係者各位、参加いただいた皆様、ありがとうございました~。



タウンニュースのコラム「出陣のススメ」をスクラップしてくださってる方もいて、ビックリ!嬉しい!こういうイベントは読んでくれてる方の顔が見えるから嬉しいですね。

次回は秋口かな?また何か企画考えます!それまで、お楽しみに!!!!

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