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2017年6月29日 (木)

「山城ガールむつみの寺子屋!」の巻 其の五

あっというまに5回目の「山城ガールむつみの寺子屋」が5月26日(金)19時から開催されました。今回は逗子の花火大会と重なってしまい、数人の方から
「ごめん!天秤にかけて、花火を取ります!」という連絡あり…。致し方なし。だって、逗子市の花火大会ってすごいんですよ。ラスト10分の花火の上がり方ったら。誤って暴発したとしか思えないくらいに、ドカンドカンと上がります。笑いが止まりません。私だって、花火行きたかった!…おっと。口が滑りました。

 

と、いうことで席がガラガラかとビクビクしながら来ましたが、今回もたくさんの方に来ていただきました。ありがとうございます。


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いつも通り、城って何?山城って何?という話をサラっとした後は、考古学がお城の研究に取り入られるようになって、城郭研究がどう発達したかというようなお話を。
お城の研究は江戸時代前からされてるけど、当時は文献や絵図による研究でした。明治に入って、軍事施設ってことから陸軍が調査をするようになって。そこから縄張図の研究とかが始まったわけで。そのころから、城郭研究には考古学的調査が有効だとは言われてたけど、発掘調査された中世の城は安土城くらいで。古代だと、東北の柵や九州の古代山城。
それが1970年代の日本列島大改造論でどこもかしこもが開発開発という時代になって、それに伴って発掘調査が行われました。
そうしたら、出るわ出るわ!いろんな新しい発見があったのです!
例えば「落城」って簡単に言うけど、落城にもいろいろあるわけで。攻められて、業火に包まれて落ちた城、和睦で明け渡しになった城、ひとくちで「落城」と言っても大違いですね。発掘が行われる以前は、それすらも分かってなかったわけなんです。

そして、結果わかったのは焼け落ちた城は思いのほか少ないということ。
例えば、ドラマとか映画で、小谷城はゴーゴー燃えて描かれてるけど実際は焼け落ちてないし。こういう風に文献だけでは分からなかったことが見えてくるんです。
あとは、掘りだされた陶磁器とかいろんな遺物も歴史を紐解く手がかりになりますね。

さらには山城の曲輪から見つかった礎石!発掘調査がされるまでは、生活は山頂ではなく麓の根小屋で…というような話だったけど、掘ってみると臨時的な建物ではなく恒久的な礎石建物が建ってたことが分かりました。生活用の陶磁器なんかも見つかったりして。山頂に住んでたっぽいぞ!ということになった。守護大名クラスは山頂で生活してたみたいだぞ!と。こうやってだんだん、当時の実像が見えてくるんですね。今後の研究がますます楽しみですね。



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続いて、今回は東京にある渋谷城のお話を。
わたしは小さいころ渋谷に住んでて、ベビーカーでの散歩コースが金王八幡宮だったんです。記憶ないけど…。実はそこが渋谷城だったんです。横須賀に引っ越してきて、どんぐり山って呼んで、駆けずり回って遊んでた裏山が実は怒田城だったように、お城に縁がある…と、いうか、いかにお城というものが身近にあるかってことですね。そのへんにゴロゴロあるわけです。
もっと詳しく書こうと思ったんだけど、渋谷城の話は長くなるので、次のページで書くことにします。


今回の横須賀のお城紹介は公郷にある神金城。「かりがね」と読みます。
前にブログで詳しいこと書いたのでそちらをご覧いただければと思います。
ほぼ、何も残ってないけど、現地に行くと意外と楽しい。たいした高さはないけど、その辺まで来てた入江が想像でき、街道も見下ろせて想像するのが楽しい。こっそり入ったお寺の敷地には平場があったりして、思いのほか楽しめる城址だと、そんな話をしました。


Photo_2             神金城全景

ここで一番話したいのは「宗元寺」について。
今は横須賀高校の奥に「曹源寺」っていう寺がありますけど、かつては横須賀高校のあたり一帯に大伽藍を持つ、一大寺院「宗元寺」がありました。四方が100m以上の土塀で囲まれてて、出土した瓦から推測すると、時代は奈良時代まで遡るらしいんです。伽藍は法隆寺様式と同じって言われてるけど、確かなことは分かってない。ただここが奈良時代の三浦半島の中心地なんです。天平年間、聖武天皇が諸国に国分寺を建てた頃ですね。

大規模な寺院を建立できたということは、平作川流域や周辺一帯を支配する有力豪族が存在し、中央政権に対して忠誠を誓っていたということだと考えられます。

 

門前には、衣笠栄町方面から大津方面へかけて古東海道が延び、屋敷や役所が建ち並んでいたと想像されています。古東海道に沿って、相模と上総を結ぶ陸橋的な役割を果たした三浦半島の中心だったんですね~。

 

付近から土師器、須恵器も多数出土。かなりの数の人が生活してたよう。
 
「横須賀市史」によると…
 
出土した須恵器の中にはかなりの高級品も混ざってて、地位の高い人たちが住んでたと考えられる。豪族・役人のの居住地、役所のような建物が集まる栄えた場所だったのではないか…とのこと。

鎌倉時代までは、創建以来の伽藍がそのままあったと伝えられ、源頼朝が神馬を奉納するなどもあったとのことです。その後は衰退の一途をたどりました。1331年に鎌倉幕府がなくなる時の一連のゴタゴタで焼失してしまいました。

 

その後、1628年に代官、長谷川長綱が再建。いまの曹源寺はかつての宗元寺の薬師堂に建ってるんですね。

 

さっき出土した瓦から時代は奈良時代にさかのぼるって、簡単に私言いましたが、この瓦奈良時代のものだってわかったのにはすごい苦労があって。

 

 

Photo

横須賀高校辺りから瓦が出土しました。花をデザインした二種類の模様の瓦。これを研究したのは赤星直忠先生って言う考古学者。三浦半島城郭史っていう三浦半島の歴史研究の礎をつくったような方。明治35年に横須賀市で生まれて、88歳で亡くなるまで、縄文時代から中世の城郭、やぐらまで、神奈川県全体の研究をしてた素晴らしい方です。

この人の赤星ノートって言われる資料は神奈川県埋蔵文化センター、馬車道の県立博物館にも収蔵されてます。
この赤星先生は、瓦の出所が分かれば、三浦半島の歴史が見えてくるんじゃないか?ということで、リュックにたくさんの瓦を詰めて、奈良京都の古い寺をしらみつぶしに調べてみることにしたんですね。涙が出るほどの情熱!!
どれくらいの時間がかかったのか分からないけど、結構な時間がかかったはず。熱意が実って、奈良県の西安寺っていうお寺の跡地から見つかった瓦と一致した。これによって、片方の瓦が奈良時代の終わり、もう片方の種類が平安時代初め。宗元寺は規模が大きいから、時間をかけて、法隆寺のような伽藍を完成させたことが分かったんですね。

 

 

 

ここの寺は仏像が素晴らしいのです。

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なんとかレンジャーみたい。「かっこよすぎる仏像」ってニュースになってました。薬師様の横にいる12神将。まさにナントカ戦隊!この12神将は国立博物館所蔵です。国の重要文化財。建久年間(1190-99)に制作されたらしい。今、お寺にある12神将はレプリカです。黒ずんでてすごくよくできてる。
ぜひ、本物を上野まで見に行ってみてください。常設されてます。

 

勝手に本紹介のコーナー。
今日はこの本を紹介。岩井三四二さんの「光秀曜変」を。

9784334769437
この人の小説はシュールなんです。ブラックユーモアというか。ちょっと面白い切り口の歴史小説で私は好き。

 

 例えば、忍者というか忍びを書いた「竹千代を盗め」って小説があるんだけど、徳川家から大きな仕事を頼まれた落ちぶれた忍者の話。大きい仕事で嬉しいんだけど、落ちぶれすぎて部下がいない。慌てて親戚や知り合いを頼って集めるんだけど、文句ばかり言われる。で、徳川家からは話が違うほどの難題を持ってこられたりして、また部下に文句を言われる。板挟みの中間管理職みたいな感じ。なんかシュールでクスリと笑ってしまう。でも、歴史の背景とかもきちんとしてて楽しめる。

 

 他に「とまどい関ヶ原」っていう短編集があるんだけど。それは関ケ原の戦いにかかわった人たちが自分のすべき事、進む道をワタワタと、とまどいながら模索しながら戦いに参加してく話。そこには断固とした思いを持ってる武士もいれば、巻き込まれて泣きそうになってる人たちもいたり、いろんな目線から描いててこれもオススメ。表舞台と裏舞台の色んな人がそれぞれ迷って、とまどってて。その中に野心や策略やいろんなドラマ。その中でも「敵はいずこに」っていう徳川秀忠の話がわたしは一番好き。よかったら読んでみてください。

 

 で、今日紹介するのは光秀の話。

 

 本能寺の変を起こすに至るまでに、光秀に何があったのかという話。まぁ、これだけ聞くとありきたり。
世の中にはたくさん本能寺の変がらみの本が出てますからね。いろんな検証する本も。野望説、怨恨説、黒幕説とかいろいろ言われてますし。
実は、
そもそも光秀の生まれた年もはっきりわかってないんですね。いろんな書物によると、本能寺の変の時の光秀の年齢は、55歳、57歳、63歳、67歳とバラバラで。最近は67歳ってのが注目されて取り入れられてるらしい。その根拠は「当代記」。江戸時代初期、軍記ものではなく編纂もの。

 

この小説では本能寺の変を起こした要因の一つに、認知症を挙げてます。光秀は認知症を患ってたんじゃないかと。もちろん他にも今まで言われてきたような複合的な理由もあるんだけど。
光秀のいろんなおかしい行動として、笹のちまきを笹の葉を取らずに食べたとか、
二度三度くじを引いたとか、他にも妖しい行動が確かにある。これが小説としてとてもうまく面白く書かれてる。

 

 色んな人の目線から、光秀の行動や言動、想いをあぶりだすように描いて物語が進んでいく。登場人物の中で、光秀との昔の話をする人物も出てくるから、光秀の半生も丁寧に追っていける仕組みになってる。読み進めると、光秀の気持ちが憑依してきて切なくてやりきれなくなる。

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今までにない光秀像として、ぜひ読んでほしい。これとあわせて、「死んだのか、信長」という短編集も。同じ岩井三四二さんの作品です。本能寺の変外伝的な小説なんだけど、一作だけ、「本能寺の変に黒幕はいたか」っていう歴史エッセイが収録されてます。ここで、端的にまとめられてるからこれも読んでみるといいと思います。私はこの人のタイトルの付け方のセンスも好き。これは光秀の年齢の検証とかも資料を例にとって書いてあるから、「光秀曜変」のあとに読むといいかも。

 

 

 

ということで、こんな感じで今回の寺子屋は無事に終了。次回もお待ちしてます!
次回は728日(金)19時!!



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5回皆勤賞の方々と。「5回!」のポーズですが歌舞伎みたいになってる~。ここには写ってませんが他にも毎回来て下さる方は何人かいらっしゃいます。ありがたいですね。


 

 

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