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2017年6月 9日 (金)

「いざ!和田城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

タウンニュース連載12回目!!
早いもので12回目…ということは、1年が経ちました!あっとゆーま!!
ということで、今回は「和田城」です。

ではでは早速タウンニュースの記事を!!
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

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和田城址は三浦市初声和田にあります。「あります」といっても、遺構は何もありません。
この辺にあったのかなぁ?館くらいのものだったのかな?どんな感じだったのかな?当時の地形はどうだったんだろう?というような、みなさんの逞しい想像力が頼りです!!

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正確な位置も分かってませんが、国道134号の「和田」交差点を曲がると、「和田義盛旧里碑」があります。
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アップにするとこんな感じ~

さらのその目の前の坂を上がると「和田城址碑」があります。


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眩しい!字が読みづらい!


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今の地形はこんな感じ。右上に「和田義盛旧里碑」があって、赤い印のとこが「和田城址碑」。ここから、長浜海岸の方に下りてく道が続く。航空写真を見ると、一帯が台地になってるのがわかりますね。

付近には「城戸脇・空池・門後・出口・入口」などの当時を連想させる字名が残っています。「殿屋敷」という名も残り、それが上の航空写真の赤い印のあたり。「和田城址碑」のあたりとのこと。平塚農業高校初声分校…。ほら、怪しい。だいたいね、学校になってるところは怪しいんですよ。なんか、ニオウぞ。くんくん。

右下に「初声町入江」の文字。ここは文字通り入江だったので、臨海高校のあたりは完全に海の中ですね。
ふむふむ。航空写真を見てると、なんだか、雰囲気がちょっぴりイメージできるぞ。このあたりは新田開発されるまで、海が深く入り込んでて一面は水田でした。大穀倉地帯!大事な食糧庫に当たるわけです。三浦一族の屋台骨を支えていたんですね。

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旧里碑の目の前の坂を上ると、台地になってる、ちなみにこの道は明治になってからの道らしい。天王坂っていうんですって。


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坂の上にはこんな光景が広がります。延々と続く畑。どこを見てもキャベツ!キャベツ!キャベツ!
当時もこんな風景だったのかなと思わせてくれます。

和田義盛は三浦義明の孫です。お父さんは義明の嫡男。最初は怒田城に入って、そのあと鎌倉の杉本城に入りました。それで、「三浦」ではなく「杉本」を名乗りました。鎌倉の杉本城、いまは杉本寺として人気の観光地。そこに拠ったために杉本義宗を名乗りました。

義宗は安房国長狭城の戦いで若くして死んでしまったので、義盛が家督を継ぎました~。で、初声の和田の地にやってきたわけです。それで「和田」を名乗りました。ちなみに、義宗が死んだあとの杉本城には義盛の弟の義茂が入りました。

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杉本城の遠景。釈迦堂切通に向かう途中の道からの撮影。ここは釈迦堂切通も近く、抜ければ三浦半島。三浦氏にとって大事な地。

三浦義明からの武勇に優れた血は、杉本義宗、和田義盛&義茂兄弟、さらには義盛の子どもの朝比奈義秀まで、受け継がれていったんですね~。

和田義盛は頼朝の挙兵の時、義澄らと一緒に石橋山に向かいましたが、川の増水に阻まれて、衣笠城に戻って来ます。由比ガ浜で畠山軍とぶつかりそうになったとき、せっかく和議が成ったのにもかかわらず、弟の義茂の早とちりでドンパチ開始してしまったり、義明が衣笠城に立て籠もろうとした時に、義盛が「怒田城の方が堅固だからあっちにしようよ」と言ったりと和田兄弟の存在感は抜群!目立つわ~。

そして、侍別当に任じられ、幕府の要職を担っていくことになるわけですが建暦3年(1213年)5月2日、和田合戦が起こります。執権北条氏との全面戦争。横山党や渋谷氏などと、兵を挙げるも敗北。義盛は息子の義直の戦死に大声で泣き、敵陣に突っ込み討ち死にを遂げたと言われます。
この時の朝比奈義秀の政所門破りの武勇は後世に語り継がれてます。浮世絵とかにも描かれてますね。

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江ノ電の和田塚駅にある石碑。
数か国にわたる首謀者の広がり、死傷者の数、戦後の都や西国の動揺などを考えると、義盛の北条義時に対する私怨だけではなさそう。幕府に対する不満が全国的に広がってて、それによるクーデターという感じ。


和田義盛は人間味があって剛毅なイメージ。三浦一族の中でも、時代を問わず、愛されました。武勇伝はもちろんですが、ちょっと可愛らしいエピソードにも事欠かない彼は、生き生きと人物像を浮かび上がらせてくれます!!

永井路子さんは著書の中で、「鎌倉時代の幕開けとともに三浦半島は歴史の重要な舞台となったわけだが、その中でも千両役者は三浦義明と和田義盛なのである」と書いてます。この文章だけでワクワクしてきます。さすが、永井路子さんです!!


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こんな景色を見て、何を考えていたのかな?心休まる時はあったのかな?
越後国奥山荘、現在の新潟県胎内市ですがここは和田氏が地頭となっていました。
和田合戦で敗れた和田氏ですが、その後も和田の血脈は奥山荘にて、受け継がれていったのです!!
奥山荘には三浦一族の多々良氏の名前も見えるので、一緒に移ったようですね。


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長浜海岸。海が深く入り込み、近世まで湊があったとのこと。水運の要地でもあったことがわかりますね。

初声和田の地には義盛ゆかりの史跡がゴロゴロ。
和田の里の北側にあった安楽寺は鬼門として建てられたそう。そこの薬師三尊像は廃寺になってからは天養院に移されました。なんと藤原様式初期とのことで、三浦半島現存の仏像の中で最も古いかも!?ということ。
先日、33年に一度の大開帳で見てきましたが、たおやかで美しかったです!!
ちなみに天養院には和田義盛の位牌と、像があります。江戸時代に作られたとのことですが、位牌に「建暦3年5月3日」と和田合戦での義盛の命日が刻まれてるのを見たときは鳥肌が立ちました!!

他にも芦名の浄楽寺をはじめ、三浦半島には義盛ゆかりの寺仏がたくさんあります。
不器用ながらも一生懸命に一族を守り、祈った、そんな義盛の足跡をたどってみてはいかがでしょうか?

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