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2017年7月の3件の投稿

2017年7月20日 (木)

「いざ!歩け!神武寺から鐙摺城へ!」の巻(ガイド編)前編

今回は4月30日の歴史ウォーキングイベントのお話を。また随分と更新がおくれましたが…。
平成29年4月28日から5月28日までの1か月、三浦半島では132年に一度の大開帳がありました。三浦薬師とお不動さんが同時に御開帳の年なのです!!
ちなみに薬師さんは33年に一度、お不動さんは12年に一度です。それが同時なのが132年に一度なのでございます!次の132年後は生きてないし、33年後も微妙?!
と、いうことで今回のウォーキングでもいくつかお参りすることにいたしました。



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集合はJR東逗子駅。
ではスタートです!!
まずは神武寺へ。と言いながら、しょっぱなから寄り道。沼浜城へ。今は法勝寺となってるあたりが源義朝の館があったと伝わってます。義朝は頼朝のお父さんですね。ここから、鎌倉の亀谷山(今の寿福寺)に館を移したんです。

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「鎌倉郡沼浜郷」だったこの地は、いつしか「沼間」という名に変わりましたが、近くには「馬場橋」なる橋や「堀の内」という屋号をもつ家が残っていたりと、名残りが楽しめます。



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このあたりは、田越川が流れていて、沼浜という地名からも湿地だったことが伺えます。海からの入江、そして田越川を通り、横須賀市の船越へと向かうルート。「田越」「船越」という地名からでも十分に当時の道が連想できます。古東海道がこのあたりを通っていたんでしょうね。







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この法勝寺は少し高いとこにあります。詰城的な意味合いがあったかもしれませんね。


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裏手に回ると怪しげな地形もあり。ムフフな感じ。


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こんなとことか~。キリないから先に進みます。


寄り道でかなり時間を使ってしまいました~。
では、神武寺へ向かいます。薬師如来と脇侍の日光月光菩薩は33年ぶりの御開帳です!



入り口はここ。
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ここにかつては山門があったんだけど、軍の要請で山の上に移されたそうです。


神武寺は縁起によると、聖武天皇の勅願により724年に創建。修験道の道場でした。
ここで、たくさんの学僧が育ったんですね。
ふ~む、頼朝がここで平家追討の祈願をしたのか~。実朝もお参りに来たりしてたのか~。ゾワゾワ。そんな雰囲気がいまだ色濃く残ってますね。


山火事で山門を残して焼失したのを北条氏直が再建。だけど、秀吉の小田原攻めで焼き討ちにあってすべての伽藍をまたまた焼失。そのあと、家康がまた再建してくれたみたい。
家康、ありがとう~。

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山門の横に怪しげな平場。城っぽーい。砦っぽーい。
上から下の道が丸見えの位置!!
戦火で焼けてるくらいだから、僧兵が武装してたことは容易に想像つきますね。



さてさて山道を抜けて、山の反対側へ。

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小川のせせらぎがいい感じ。下見の時は、ぬかるんでて滑って転んで手首痛めたけど…。



そして、池子石の石切り場へ。
とても素敵な山道を抜けて。
池子石は人気がありましたが、鎌倉石と同様に関東大震災で被害を受けてから廃れてしまいました。

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それにしてもここはすごい。もっとここをみんなに知ってもらうべきだと思うけど。認知度低すぎて、もったいない!!

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そして、裏道裏道小道を駆使して池子運動公園に到着。お腹がすいたから、お弁当タイムです。そして、腹ごしらえを済ませたら、超ハードな後半戦に突入~!!

ふふふふ。ここからが本番。神武寺の山道で、ふぅふぅ言ってる場合じゃないっすよ。
まずは延命寺。御開帳のお不動さん、28番札所。ここは三浦氏→北条氏→徳川という感じに保護を受けました。
ここは「逗子」という地名発祥の地らしいです。
石碑の写真撮り忘れた~。
行基が延命寺を創建したときに、地蔵菩薩を安置したんだけど、その厨子を弘法大師が置いたから。「逗子」という漢字になったのは江戸時代からとの事。
まぁ、ほかにも役人である図師の住まいがあったからとか、「辻」が訛ったとか諸説あります。

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ここには三浦道香らの供養塔があります。道香は三浦道寸の弟。平塚の岡崎城の攻められた道寸は三崎の新井城に逃げます。
道香はこの延命寺近くの小坪住吉城を守ってましたが、北条勢に攻められて深手を負い、道寸と合流することなく、ここで自害しました。その菩提を家臣であった菊地家が弔いました。この辺は菊地あんというお家がたくさんあります。しかも、どこも豪邸です。道香の家臣の子孫の方々なんですね。


では、ここから葉山方面に向かいます。
かなり長くなってしまったので、続きは後編として後日書きまーす。
長いと最後まで読み気がなくなりますしね。
と、いうことで「いざ!歩け!神武寺から鐙摺城へ!」の巻(ガイド編)前編、終了です。
手書きのプリントも次回の後編に添付しまーす。

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2017年7月14日 (金)

「いざ!長井城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

さてさて早いものでタウンニュースの連載も13回目!なんと、知らないうちに1年が過ぎました。おめでとう!ありがとう!
ということで、今回は「長井城」です。
早速、タウンニュースの記事に行ってみましょう~。ポチっとな。

↓   ↓   ↓   ↓   ↓

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長井城は今の荒崎公園あたりが推定地と伝わります。横須賀市だけど、三浦市との境ですね。すぐ隣は和田義盛ら和田氏の郷。
で、長井城は、ココ。小さな岬になってるところ。赤い丸がついてるとこ。

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なんて雑な…。

それで、小さな岬を拡大するとこんな感じ。
この辺一帯が多分、長井城。

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なんて大雑把な…。

航空写真の岬の付け根の「P」。ここは今の駐車場なんだけど、このあたりは、城山から比べると低地になってます。で、「城口」という名前が残ってるんです。この辺は館のエリアなのかな~。門でもあったのかなーと。その名残で、ある程度、平場になってたとこを駐車場にしたっぽいしね。


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さらに城山だけ拡大すると…。
「潮風の丘」が城山です。ピンクの丸が「どんどんびき」と呼ばれる入り江。
黄色だか黄緑だかの丸が今の駐車場「城口」から城山に向かう通路。
これがね、面白いの。テンション上がるの。


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どどどん!土橋!…っぽくない?
この両サイドは切り立った崖になってます。自然地形というよりも手を加えたような感じよ。この奥が城山です。
どんどんびきから、この土橋を見ると…

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このピンクのマークのあたり。
(我ながら、なんてゆるい写真加工…)

さらにこのあたりには平場。
どんどんびきの入江と土橋を見張るかのよう!



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平場、どんっ!!
わかりにくいけど、キレイに平らになってました。広さは20畳くらいかな。
この平場はどこにあるかというと…

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ここでーす。
とってもいい位置ですね。


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城山を西側の夕日の丘から写すとこんな感じ。
岩礁がまるで城山を守るかのように囲んでます。



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この岩礁は三浦半島が海の底だった頃に堆積した砂岩と凝灰岩で形成されてるらしい。数千万年前ですってよ。鎌倉時代どころの騒ぎじゃありませんよ。

この鬼の洗濯板のような景色は、難しく説明すると、
「この凹凸の特殊な地形は、岩石の硬軟の差により起こる水や風などの浸食だけじゃなく、水分を吸って膨張収縮しやすい砂岩と、吸いにくい凝灰岩層との間で長い時間をかけて変化したと思われる」とのこと。
むずかしい~。こういう話は苦手~。

まぁ、とにかく城山の周囲は断崖絶壁。しかもこんな歩きにくそうなゴツゴツデコボコした岩場がぐるりと。なかなか堅固な詰城ですね。
『三浦郡誌』によると、「周囲は暗礁も多く、相模灘第一の危険地帯です」って。さもありなん。


西側の丘は今では「夕日の丘」と呼ばれてます。さぞかし、夕日がきれいに見える事でしょうよ。江の島も見えるし、最高の景色でしょうね。


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城山から見た夕日の丘。
お城としてどう使ってたのかは分からないけど、幕末、ここに彦根藩が砲台を築きました。なので、お城の遺構としてある程度の削平地になってたのかな。だから、砲台を築く場所として選ばれたのかな。
横から見ると綺麗に削平されてるのが分かる。真横に平らになってますね。


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ここが砲台跡。
いまは公園広場になってます。
城山のまわりで当時を偲ぶものはこんな感じ。
あとは、東側の丘。そこは「くらかけ」という地名が残ってるらしい。「鞍掛」かな?



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十文字と呼ばれる洞窟。中で洞窟が交差してるから、「十文字」と呼ばれてるらしい。ここが食糧庫とも伝わるけど、詳細は不明でーす。

城山が長井の浜のエリア「浜長井」、その内側には「岡長井」と呼ばれるエリア。ここは広大な台地で戦時中には飛行場が設置されたとのこと。「浜」と「岡」の対比も長井の面白いところですね。

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岡長井と呼ばれてたあたりは、こんな感じに畑が広がってます。当時も穀倉地帯としての役割もあったんでしょうね。




長井城は三浦義明の5男、義季がこの地をもらって長井氏を名乗ったと伝わってます。
長井氏に関しては文献が乏しいけど、吾妻鏡にちょこっと登場します。
例えば、一の谷の戦いに向かった平家追討軍の中に長井氏の名があったり、頼朝の初上洛のときや、実朝の正室を迎えるために上洛したメンバーにも名前が入ってます。他の三浦一族に負けないくらいの活躍をしてたことが伺えますね~。


長井義季の弟の杜戸重行は名の通り、今の葉山の森戸海岸あたりを領地にしました。
長井、森戸、鐙摺(あぶずり)と海岸沿いに配置して連携してる感じがよく分かりますね。

長井城は長井氏の館とも、三浦義澄の館とも、はたまた宝治合戦後に佐原氏が館を築いたとも伝わります。
結構、こういう伝承は馬鹿にできない。地元に語り継がれてる話って真実が隠れたりしてるから面白い。
どれが正解とかじゃなくて、全部正解かも。みんなで順繰りに住んで、時期的にズレてるからそういう伝承になったのかもしれないしね。




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ちなみに、長井中学校のあたりに「屋形」という地名が残ってます。地図上のピンクの丸のところ。下の丸は城山です。
この「屋形」のあたりは、台地になってて平地。佐原氏が宝治合戦後に住んだとしたらこの辺なんじゃないかな。近くに、執権北条氏の史跡もあるし。
海の城山は長井氏と義澄ゆかりなんじゃないかな。義澄に関しては、鐙摺城にも縁があるから、長井城も何となく頷けるし。


「屋形」という地名が残る長井中学校ちかくにある史跡。
やっぱり、執権北条とつながりのある地だから、北条家に味方した佐原氏がここに移って住んでたとしても、あり得る気がしますね。
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4代執権北条経時の宝篋印塔。
3代執権北条泰時の孫に当たります。なので、イコール矢部禅尼の孫ということですね。泰時の前妻は矢部禅尼なので。5代時頼も矢部禅尼の孫にあたります。

矢部禅尼は北条泰時と離縁しますが、その後に佐原盛連と再婚し、光盛、時盛、時連を産み、その血が会津蘆名氏へと続いていくんですね。

なんだか、ややこしくなってきましたが、とにかく4代執権経時の宝篋印塔があるよというお話です。



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不断寺の屋根の三つ鱗。

やっぱり、このあたりは宝治合戦後に、北条氏側についた佐原氏が館を築いたという伝承があるように、北条氏とゆかりがある地のようです。

矢部禅尼の再嫁先の佐原氏は、宝治合戦では北条氏側につき戦いました。矢部禅尼と5代執権の時頼が祖母と孫という関係性もあったので。
ちなみに、矢部禅尼は三浦義村の娘なので、宝治合戦で敗れて法華堂で自害した三浦泰村、光村とは兄弟なのに敵味方に分かれたということになりますね。
でも、それによって結果的に三浦の血は絶えずに、会津蘆名氏などに受け継がれていくことになるんですね。


今回はタウンニュースのコラムを書くに当たって、久しぶりに荒崎に来ました。数十年ぶり。父と来た記憶の中でも、荒崎の海はとても輝いているけど、大人になって訪れた荒崎はもっともっと美しく感じました。透き通った海や屈曲した海岸線はもちろん、山も遠くに見える大島もトンビの鳴き声も心地よく吹く風も、心に身体に浸みました。

そして、荒崎は楽しい。三崎口駅を出発して、ハイキングコースを歩くと、こんな秘密の通路があったり…

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こんな抜け穴があったり…
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さらには石でできた土橋!…なんのこっちゃ。
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そうだ。
今度歩け会で、このコース使いたいからこれ以上は内緒~。
まぁ、とにかく15kmコースで一日まわって楽しめるコースです。
ぜひ、きれいな景色を見ながらの城めぐりを楽しんでみてください

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2017年7月 2日 (日)

「いざ!思い出の渋谷城へ!」(母娘で行く過去への旅編)

今回は東京にある渋谷城のお話を。同時に母娘の思い出のお話を。言うなれば、母の歴史をたどる旅。大学卒業後、女優になりたくて、三重県からひとり上京してきた母の若かりし日の物語。


母は何年かに一度、「渋谷に行きたい」と、ふと思い出したように言うことがあるんです。その「渋谷」が指す場所は「若者の町!渋谷!」(←この言い方で年が分かる)ではなく、母が夢をいっぱい抱えて上京し、初めてのひとり暮らしをした渋谷区東1丁目のアパートと、父と結婚して住んだ東2丁目のアパート界隈のこと。その付近を思い出に浸りながら歩きたいという意味なわけです。

母は劇団に入って舞台に出る傍ら、居酒屋などのバイトを掛け持ちして、一生懸命頑張っていたようです。結構有名な劇団に所属してたんだけど、だからと言って、役者として食べて行けるわけでもなく…。そんな中、父と出会い結婚。劇団を続けるも、私を授かり、苦渋の決断の末、退団。それで、私が1歳の時に父の実家の横須賀に引っ越したというわけです。

思い出と叶わなかった夢の詰まった地を母娘で、たま~に散策するのです。
私を乗せたベビーカーを押しての散歩コースが渋谷区東2丁目付近、氷川神社や金王八幡宮あたり。大人になって歴史を好きになってから知ったんだけど、実はその金王八幡宮が渋谷城だったんですね。
横須賀の実家の裏山が怒田城だったように、お城と縁がありますね。

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まずは母が上京後にひとり暮らしをしてた渋谷1丁目のアパートへ。と、言ってもアパートは取り壊されてて、残ってないけど。4畳半一間で、お風呂トイレ共同のアパートの跡地には今は白い立派なおうち。

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お次は、結婚した父と母が一緒に住んだアパートへ。ここも取り壊されて、立派なマンションが建ってます。ここは最初のアパートと徒歩5分くらいの距離。引っ越しの時には三重県からおじいちゃん(お母さんのお父さんね)が出てきて、リヤカーでエッチラオッチラと荷物を運んだんだって。想像すると、かわいくて笑える。


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この階段の右側にアパートがあったらいし。階段は当時のままですって。変わってないって。この新しいマンションの横に40年前と同じ階段。名残り探しは面白い~。わーい、ブラタモリならぬ、ブラムツミだ~と、楽しんでたら、「あなた、この階段、覚えてないの?」と母。さすがに生後半年の記憶はないです…。


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通ってた銭湯。わたしも来たことあるんだって。改装して、今風になってるけど、こんな都会に銭湯が残ってるんだ!?と感動。



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渋谷川。渋谷城の防衛ラインだったんでしょうね。そうそう、今回は渋谷城の話が書きたくて、わざわざ思い出話に花を咲かすに至ったわけで。と、いうことで渋谷城へ!!


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ここね、渋谷城。渋谷3丁目にある金王八幡宮です。渋谷氏が創建し、鎮守とした八幡宮です。このあたりが中心地で、近くに館があったと伝わります。渋谷警察、ヒカリエあたり一帯が城域だったんですね。
鎌倉道と、大山街道が通ってて、周りを渋谷川が囲んで、さらには北東には黒鍬谷と言われる谷地があったので、かなりの天然の要害になってたんですね。今は渋谷が要害って言われると、なかなかピンと来ないけど、道玄坂、スペイン坂、宮益坂とか気づけば「坂」がやたらあるじゃないか!!と改めて驚く。
この城は1524年に後北条氏に焼き討ちされてます。氏綱が攻めてきたらしい。当時は扇ガ谷上杉氏の城だったみたい。その辺のことも文献にはなく、それ以上のことは分かりません。残念~。


元はと言えば、桓武平氏秩父氏から出た渋谷氏の領地。渋谷氏は相模国高座郡の渋谷荘をもらって、渋谷を名乗ったんですね。そのあとに、今の東京の渋谷も領地にしたので両方とも今でも「渋谷」という名前が残ってるんですね。なので、今では東京の渋谷の方が都会ですが「渋谷」の地名は神奈川の高座渋谷の方が先ということですね。あと、一つ補足すると、高座豚という神奈川のブランド豚、とてもおいしいです。
ちなみに神奈川県の川崎。市の名前にもなってますが、ここも秩父平氏と縁のある地名。秩父一族が今の川崎駅周辺を領地にして、「河崎氏」を名乗ったんですね。

じゃ、金王八幡宮っていうけど、金王って何?
これは渋谷金王丸常光のこと。金王丸は渋谷(河崎)重家の子と伝わります。


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八幡宮境内には金王丸御影堂もあり、金王丸17歳初陣のときに、母に贈るために自分の姿を彫らせた木像が納められているそうです。金王丸が持っていたと伝わる毒蛇長太刀も宝物館に収められています。この宝物館は、お宝モリモリ!しかも無料~!!

この金王丸は、17歳で源義朝について保元の乱に出陣。武功をたて、1159年の平治の乱でも義朝と一緒に戦いますが、義朝は敗れ、東国へ落ち延びようとします。しかし、なんてこったい。尾張国野間で義朝は裏切りにより、長田忠致に討たれてしまいます!オーマイガッ!

金王丸は義朝を守れなかったことを悔やみ、菩提を弔うため出家し、土佐坊昌俊と名乗った。…との伝承もありますがこれに関しては資料で確証は取れず、金王丸と土佐坊が同一人物だったかどうかはちょっと分かりません。
土佐坊昌俊というと、頼朝の命を受けて義経追討に向かったと言われる人物。京都堀川の義経邸を襲撃するも捕えられ、六条河原で刑に処されてしまいました。


尾張国野間と聞いて思い出すのは、織田信長3男の信孝の辞世の句。
「むかしより主をうつみの野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」
この壮絶な句です。

柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れた後に、信孝の兄の信雄が岐阜城の開城と、秀吉との和議を求めてきました。それにより、尾張国に向かった信孝。しかし、野間の内海大御堂寺着いた途端に信雄より切腹との沙汰が来て、自害に追い込まれました。完全に信雄と秀吉にハメられましたね。
信孝は切腹のとき、腸をつかみ出して、床の間の掛け軸に臓物を投げつけたと言われてます。
なので、辞世の句は、昔、源義朝が長田忠致に同じ野間で討たれたことと掛けてるんですね。壮絶ぅ~。

ちなみに長田忠致は平家に義朝の首を差し出したけど、恩賞をもらえなかったんです。で、打倒平家に立ち上がった頼朝に味方しました。頼朝の実父である義朝を殺したにもかかわらず、頼朝から「懸命な働きがあれば、美濃尾張をやる」と言われました。まぁ、なんて寛大な頼朝さん!!
その言葉通り懸命に働きました。では、どんな恩賞に預かったんでしょうか?
まぁ、美濃尾張をもらうなんて、そうは問屋がおろしませんぜ!ということで、平家追討後に頼朝から

「ミノオワリ」

をもらいました。「身の終わり」…要は打ち首にされましたとさ。
こわーい!うまいけど、こわーい!
昔、怪談だか、面白い話だかで、キャンプとかで話しませんでした?
「恐怖の味噌汁」=「今日麩の味噌汁」
「面白い話があるのね…」=「あるところに真っ白な猫がいました。手も足も白くて、尾も白い…」
みたいな?そんな感じですね。

この信孝の話でオススメなのは
岩井三四二さんの短編集「死んだのか信長」の中の「最後の忠臣」
これがシュールで面白すぎます。ぜひ読んでみてください。

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渋谷氏で面白いのは薩摩にいった渋谷氏の一族。
向こうに行ってから東郷氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏、祁答院氏にさらに分かれていくんだけど、この東郷氏から東郷平八郎が出たんですね。なので、その祖先の地に、ということで渋谷に東郷神社があるんですね。

秩父平氏はもちろん三浦氏とも縁があるので、調べれば調べるほど面白いです。衣笠城に攻めてきたのも秩父平氏の畠山、江戸、河越氏ですしね。姻戚関係も濃いですし。


そんなかんじで、私の赤ちゃんの頃の散歩コース渋谷城のお話でした。
渋谷氏ゆかりの城、神奈川県綾瀬市の早川城もオススメ。結構テンションあがるほどに残ってます。また機会がある時にご紹介しますね。そういえば、早川城に「統合元帥祖先発祥の地」という石碑がありましたね。

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オマケ
最後に金王八幡宮の脇の公園。お母さんがホームシックにときに揺られてたブランコ。
夜中に一人で揺られてたかと思うと笑える。

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