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2017年7月 2日 (日)

「いざ!思い出の渋谷城へ!」(母娘で行く過去への旅編)

今回は東京にある渋谷城のお話を。同時に母娘の思い出のお話を。言うなれば、母の歴史をたどる旅。大学卒業後、女優になりたくて、三重県からひとり上京してきた母の若かりし日の物語。


母は何年かに一度、「渋谷に行きたい」と、ふと思い出したように言うことがあるんです。その「渋谷」が指す場所は「若者の町!渋谷!」(←この言い方で年が分かる)ではなく、母が夢をいっぱい抱えて上京し、初めてのひとり暮らしをした渋谷区東1丁目のアパートと、父と結婚して住んだ東2丁目のアパート界隈のこと。その付近を思い出に浸りながら歩きたいという意味なわけです。

母は劇団に入って舞台に出る傍ら、居酒屋などのバイトを掛け持ちして、一生懸命頑張っていたようです。結構有名な劇団に所属してたんだけど、だからと言って、役者として食べて行けるわけでもなく…。そんな中、父と出会い結婚。劇団を続けるも、私を授かり、苦渋の決断の末、退団。それで、私が1歳の時に父の実家の横須賀に引っ越したというわけです。

思い出と叶わなかった夢の詰まった地を母娘で、たま~に散策するのです。
私を乗せたベビーカーを押しての散歩コースが渋谷区東2丁目付近、氷川神社や金王八幡宮あたり。大人になって歴史を好きになってから知ったんだけど、実はその金王八幡宮が渋谷城だったんですね。
横須賀の実家の裏山が怒田城だったように、お城と縁がありますね。

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まずは母が上京後にひとり暮らしをしてた渋谷1丁目のアパートへ。と、言ってもアパートは取り壊されてて、残ってないけど。4畳半一間で、お風呂トイレ共同のアパートの跡地には今は白い立派なおうち。

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お次は、結婚した父と母が一緒に住んだアパートへ。ここも取り壊されて、立派なマンションが建ってます。ここは最初のアパートと徒歩5分くらいの距離。引っ越しの時には三重県からおじいちゃん(お母さんのお父さんね)が出てきて、リヤカーでエッチラオッチラと荷物を運んだんだって。想像すると、かわいくて笑える。


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この階段の右側にアパートがあったらいし。階段は当時のままですって。変わってないって。この新しいマンションの横に40年前と同じ階段。名残り探しは面白い~。わーい、ブラタモリならぬ、ブラムツミだ~と、楽しんでたら、「あなた、この階段、覚えてないの?」と母。さすがに生後半年の記憶はないです…。


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通ってた銭湯。わたしも来たことあるんだって。改装して、今風になってるけど、こんな都会に銭湯が残ってるんだ!?と感動。



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渋谷川。渋谷城の防衛ラインだったんでしょうね。そうそう、今回は渋谷城の話が書きたくて、わざわざ思い出話に花を咲かすに至ったわけで。と、いうことで渋谷城へ!!


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ここね、渋谷城。渋谷3丁目にある金王八幡宮です。渋谷氏が創建し、鎮守とした八幡宮です。このあたりが中心地で、近くに館があったと伝わります。渋谷警察、ヒカリエあたり一帯が城域だったんですね。
鎌倉道と、大山街道が通ってて、周りを渋谷川が囲んで、さらには北東には黒鍬谷と言われる谷地があったので、かなりの天然の要害になってたんですね。今は渋谷が要害って言われると、なかなかピンと来ないけど、道玄坂、スペイン坂、宮益坂とか気づけば「坂」がやたらあるじゃないか!!と改めて驚く。
この城は1524年に後北条氏に焼き討ちされてます。氏綱が攻めてきたらしい。当時は扇ガ谷上杉氏の城だったみたい。その辺のことも文献にはなく、それ以上のことは分かりません。残念~。


元はと言えば、桓武平氏秩父氏から出た渋谷氏の領地。渋谷氏は相模国高座郡の渋谷荘をもらって、渋谷を名乗ったんですね。そのあとに、今の東京の渋谷も領地にしたので両方とも今でも「渋谷」という名前が残ってるんですね。なので、今では東京の渋谷の方が都会ですが「渋谷」の地名は神奈川の高座渋谷の方が先ということですね。あと、一つ補足すると、高座豚という神奈川のブランド豚、とてもおいしいです。
ちなみに神奈川県の川崎。市の名前にもなってますが、ここも秩父平氏と縁のある地名。秩父一族が今の川崎駅周辺を領地にして、「河崎氏」を名乗ったんですね。

じゃ、金王八幡宮っていうけど、金王って何?
これは渋谷金王丸常光のこと。金王丸は渋谷(河崎)重家の子と伝わります。


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八幡宮境内には金王丸御影堂もあり、金王丸17歳初陣のときに、母に贈るために自分の姿を彫らせた木像が納められているそうです。金王丸が持っていたと伝わる毒蛇長太刀も宝物館に収められています。この宝物館は、お宝モリモリ!しかも無料~!!

この金王丸は、17歳で源義朝について保元の乱に出陣。武功をたて、1159年の平治の乱でも義朝と一緒に戦いますが、義朝は敗れ、東国へ落ち延びようとします。しかし、なんてこったい。尾張国野間で義朝は裏切りにより、長田忠致に討たれてしまいます!オーマイガッ!

金王丸は義朝を守れなかったことを悔やみ、菩提を弔うため出家し、土佐坊昌俊と名乗った。…との伝承もありますがこれに関しては資料で確証は取れず、金王丸と土佐坊が同一人物だったかどうかはちょっと分かりません。
土佐坊昌俊というと、頼朝の命を受けて義経追討に向かったと言われる人物。京都堀川の義経邸を襲撃するも捕えられ、六条河原で刑に処されてしまいました。


尾張国野間と聞いて思い出すのは、織田信長3男の信孝の辞世の句。
「むかしより主をうつみの野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」
この壮絶な句です。

柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れた後に、信孝の兄の信雄が岐阜城の開城と、秀吉との和議を求めてきました。それにより、尾張国に向かった信孝。しかし、野間の内海大御堂寺着いた途端に信雄より切腹との沙汰が来て、自害に追い込まれました。完全に信雄と秀吉にハメられましたね。
信孝は切腹のとき、腸をつかみ出して、床の間の掛け軸に臓物を投げつけたと言われてます。
なので、辞世の句は、昔、源義朝が長田忠致に同じ野間で討たれたことと掛けてるんですね。壮絶ぅ~。

ちなみに長田忠致は平家に義朝の首を差し出したけど、恩賞をもらえなかったんです。で、打倒平家に立ち上がった頼朝に味方しました。頼朝の実父である義朝を殺したにもかかわらず、頼朝から「懸命な働きがあれば、美濃尾張をやる」と言われました。まぁ、なんて寛大な頼朝さん!!
その言葉通り懸命に働きました。では、どんな恩賞に預かったんでしょうか?
まぁ、美濃尾張をもらうなんて、そうは問屋がおろしませんぜ!ということで、平家追討後に頼朝から

「ミノオワリ」

をもらいました。「身の終わり」…要は打ち首にされましたとさ。
こわーい!うまいけど、こわーい!
昔、怪談だか、面白い話だかで、キャンプとかで話しませんでした?
「恐怖の味噌汁」=「今日麩の味噌汁」
「面白い話があるのね…」=「あるところに真っ白な猫がいました。手も足も白くて、尾も白い…」
みたいな?そんな感じですね。

この信孝の話でオススメなのは
岩井三四二さんの短編集「死んだのか信長」の中の「最後の忠臣」
これがシュールで面白すぎます。ぜひ読んでみてください。

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渋谷氏で面白いのは薩摩にいった渋谷氏の一族。
向こうに行ってから東郷氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏、祁答院氏にさらに分かれていくんだけど、この東郷氏から東郷平八郎が出たんですね。なので、その祖先の地に、ということで渋谷に東郷神社があるんですね。

秩父平氏はもちろん三浦氏とも縁があるので、調べれば調べるほど面白いです。衣笠城に攻めてきたのも秩父平氏の畠山、江戸、河越氏ですしね。姻戚関係も濃いですし。


そんなかんじで、私の赤ちゃんの頃の散歩コース渋谷城のお話でした。
渋谷氏ゆかりの城、神奈川県綾瀬市の早川城もオススメ。結構テンションあがるほどに残ってます。また機会がある時にご紹介しますね。そういえば、早川城に「統合元帥祖先発祥の地」という石碑がありましたね。

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オマケ
最後に金王八幡宮の脇の公園。お母さんがホームシックにときに揺られてたブランコ。
夜中に一人で揺られてたかと思うと笑える。

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