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2017年7月14日 (金)

「いざ!長井城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

さてさて早いものでタウンニュースの連載も13回目!なんと、知らないうちに1年が過ぎました。おめでとう!ありがとう!
ということで、今回は「長井城」です。
早速、タウンニュースの記事に行ってみましょう~。ポチっとな。

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長井城は今の荒崎公園あたりが推定地と伝わります。横須賀市だけど、三浦市との境ですね。すぐ隣は和田義盛ら和田氏の郷。
で、長井城は、ココ。小さな岬になってるところ。赤い丸がついてるとこ。

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なんて雑な…。

それで、小さな岬を拡大するとこんな感じ。
この辺一帯が多分、長井城。

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なんて大雑把な…。

航空写真の岬の付け根の「P」。ここは今の駐車場なんだけど、このあたりは、城山から比べると低地になってます。で、「城口」という名前が残ってるんです。この辺は館のエリアなのかな~。門でもあったのかなーと。その名残で、ある程度、平場になってたとこを駐車場にしたっぽいしね。


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さらに城山だけ拡大すると…。
「潮風の丘」が城山です。ピンクの丸が「どんどんびき」と呼ばれる入り江。
黄色だか黄緑だかの丸が今の駐車場「城口」から城山に向かう通路。
これがね、面白いの。テンション上がるの。


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どどどん!土橋!…っぽくない?
この両サイドは切り立った崖になってます。自然地形というよりも手を加えたような感じよ。この奥が城山です。
どんどんびきから、この土橋を見ると…

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このピンクのマークのあたり。
(我ながら、なんてゆるい写真加工…)

さらにこのあたりには平場。
どんどんびきの入江と土橋を見張るかのよう!



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平場、どんっ!!
わかりにくいけど、キレイに平らになってました。広さは20畳くらいかな。
この平場はどこにあるかというと…

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ここでーす。
とってもいい位置ですね。


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城山を西側の夕日の丘から写すとこんな感じ。
岩礁がまるで城山を守るかのように囲んでます。



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この岩礁は三浦半島が海の底だった頃に堆積した砂岩と凝灰岩で形成されてるらしい。数千万年前ですってよ。鎌倉時代どころの騒ぎじゃありませんよ。

この鬼の洗濯板のような景色は、難しく説明すると、
「この凹凸の特殊な地形は、岩石の硬軟の差により起こる水や風などの浸食だけじゃなく、水分を吸って膨張収縮しやすい砂岩と、吸いにくい凝灰岩層との間で長い時間をかけて変化したと思われる」とのこと。
むずかしい~。こういう話は苦手~。

まぁ、とにかく城山の周囲は断崖絶壁。しかもこんな歩きにくそうなゴツゴツデコボコした岩場がぐるりと。なかなか堅固な詰城ですね。
『三浦郡誌』によると、「周囲は暗礁も多く、相模灘第一の危険地帯です」って。さもありなん。


西側の丘は今では「夕日の丘」と呼ばれてます。さぞかし、夕日がきれいに見える事でしょうよ。江の島も見えるし、最高の景色でしょうね。


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城山から見た夕日の丘。
お城としてどう使ってたのかは分からないけど、幕末、ここに彦根藩が砲台を築きました。なので、お城の遺構としてある程度の削平地になってたのかな。だから、砲台を築く場所として選ばれたのかな。
横から見ると綺麗に削平されてるのが分かる。真横に平らになってますね。


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ここが砲台跡。
いまは公園広場になってます。
城山のまわりで当時を偲ぶものはこんな感じ。
あとは、東側の丘。そこは「くらかけ」という地名が残ってるらしい。「鞍掛」かな?



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十文字と呼ばれる洞窟。中で洞窟が交差してるから、「十文字」と呼ばれてるらしい。ここが食糧庫とも伝わるけど、詳細は不明でーす。

城山が長井の浜のエリア「浜長井」、その内側には「岡長井」と呼ばれるエリア。ここは広大な台地で戦時中には飛行場が設置されたとのこと。「浜」と「岡」の対比も長井の面白いところですね。

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岡長井と呼ばれてたあたりは、こんな感じに畑が広がってます。当時も穀倉地帯としての役割もあったんでしょうね。




長井城は三浦義明の5男、義季がこの地をもらって長井氏を名乗ったと伝わってます。
長井氏に関しては文献が乏しいけど、吾妻鏡にちょこっと登場します。
例えば、一の谷の戦いに向かった平家追討軍の中に長井氏の名があったり、頼朝の初上洛のときや、実朝の正室を迎えるために上洛したメンバーにも名前が入ってます。他の三浦一族に負けないくらいの活躍をしてたことが伺えますね~。


長井義季の弟の杜戸重行は名の通り、今の葉山の森戸海岸あたりを領地にしました。
長井、森戸、鐙摺(あぶずり)と海岸沿いに配置して連携してる感じがよく分かりますね。

長井城は長井氏の館とも、三浦義澄の館とも、はたまた宝治合戦後に佐原氏が館を築いたとも伝わります。
結構、こういう伝承は馬鹿にできない。地元に語り継がれてる話って真実が隠れたりしてるから面白い。
どれが正解とかじゃなくて、全部正解かも。みんなで順繰りに住んで、時期的にズレてるからそういう伝承になったのかもしれないしね。




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ちなみに、長井中学校のあたりに「屋形」という地名が残ってます。地図上のピンクの丸のところ。下の丸は城山です。
この「屋形」のあたりは、台地になってて平地。佐原氏が宝治合戦後に住んだとしたらこの辺なんじゃないかな。近くに、執権北条氏の史跡もあるし。
海の城山は長井氏と義澄ゆかりなんじゃないかな。義澄に関しては、鐙摺城にも縁があるから、長井城も何となく頷けるし。


「屋形」という地名が残る長井中学校ちかくにある史跡。
やっぱり、執権北条とつながりのある地だから、北条家に味方した佐原氏がここに移って住んでたとしても、あり得る気がしますね。
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4代執権北条経時の宝篋印塔。
3代執権北条泰時の孫に当たります。なので、イコール矢部禅尼の孫ということですね。泰時の前妻は矢部禅尼なので。5代時頼も矢部禅尼の孫にあたります。

矢部禅尼は北条泰時と離縁しますが、その後に佐原盛連と再婚し、光盛、時盛、時連を産み、その血が会津蘆名氏へと続いていくんですね。

なんだか、ややこしくなってきましたが、とにかく4代執権経時の宝篋印塔があるよというお話です。



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不断寺の屋根の三つ鱗。

やっぱり、このあたりは宝治合戦後に、北条氏側についた佐原氏が館を築いたという伝承があるように、北条氏とゆかりがある地のようです。

矢部禅尼の再嫁先の佐原氏は、宝治合戦では北条氏側につき戦いました。矢部禅尼と5代執権の時頼が祖母と孫という関係性もあったので。
ちなみに、矢部禅尼は三浦義村の娘なので、宝治合戦で敗れて法華堂で自害した三浦泰村、光村とは兄弟なのに敵味方に分かれたということになりますね。
でも、それによって結果的に三浦の血は絶えずに、会津蘆名氏などに受け継がれていくことになるんですね。


今回はタウンニュースのコラムを書くに当たって、久しぶりに荒崎に来ました。数十年ぶり。父と来た記憶の中でも、荒崎の海はとても輝いているけど、大人になって訪れた荒崎はもっともっと美しく感じました。透き通った海や屈曲した海岸線はもちろん、山も遠くに見える大島もトンビの鳴き声も心地よく吹く風も、心に身体に浸みました。

そして、荒崎は楽しい。三崎口駅を出発して、ハイキングコースを歩くと、こんな秘密の通路があったり…

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こんな抜け穴があったり…
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さらには石でできた土橋!…なんのこっちゃ。
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そうだ。
今度歩け会で、このコース使いたいからこれ以上は内緒~。
まぁ、とにかく15kmコースで一日まわって楽しめるコースです。
ぜひ、きれいな景色を見ながらの城めぐりを楽しんでみてください

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