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2017年8月の3件の投稿

2017年8月17日 (木)

「山城ガールむつみの寺子屋!」の巻 其の六

2017年7月28日(金)19時
第六回目の寺子屋が開催されました~。
前にほかのイベントでお会いした方も来てくださり、ほぼ満席の中楽しい時間になりました。
今回の話としては、前に少し話した山城における発掘調査の有効性と、出てきた遺物の話を。

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お城、館跡で出土する遺物で一番多いのは陶磁器。出てきた陶磁器でレベルというか階層がわかるんですよーなんて話を。戦国大名クラスになると、中国製の天目とか貿易による海外の陶磁器。国衆程度だと瀬戸美濃とかの国産陶磁器だったり。
その発掘された陶磁器の中で8割がたを占めるのが「かわらけ」というものです。素焼きの10cmくらいの土器。タールが淵についてるのもあって、それは灯明皿です。でも、ほとんどの「かわらけ」は飲酒、儀式に使われてたので一回使って終わりだったのですなんて話をサラッと。皿だけに。うひゃー!

ということで。
かわらけはすべて割ったということじゃないようで、完全な形のものも多数出てるようです。

かわらけは室町時代、足利将軍家で儀式で使われ、ろくろではなく手づくねでした。戦国時代のかわらけは、既に、ろくろの技術があったけど、地方の守護や戦国大名は、あえて将軍家の模倣で手づくねにしてました。あえての手づくね。それが、みやびであり、権威を持ってる人のできる特権のような。

八王子城の御主殿から手づくねのかわらけが発掘されてるらしいです。城下の武家屋敷エリアはろくろのかわらけ。要は城主の氏照のみが手づくねのかわらけを使えたとのこと。まさに権威の象徴。平安時代以来の京、都の儀式をそうやって真似てたんですね。
そんな話をさせていただきました。

あとは、土塁の話を。土塁にはざっと言うと、たたき土塁と芝土塁というのがありますよ。芝は香附子、麦門冬、冬芝、小笹を入れるといいと林子平は言ってますよーとか、土塁の敷は何間、芝土塁は何間。勾配は何度だとか軍学者は言ってますよーなんて話を。
まぁ、そんなもんでしょうかね。話したことは。
あと、この前、静岡県の薩た峠に行ってきたので、陣城の話を。由比のPAの裏手の山です。浮世絵にも描かれてる風光明媚な所。陣城ってのは、戦いの時に臨時で作るお城。城の用途には、そういうものもあるんですよーとか。
あとは、戦いが起きる、軍がぶつかる場所ってのは大体同じなんですよと。
木曽川、関が原、瀬田の唐橋しかり。

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あとは和田氏と多々良氏の話を少々。
和田氏は1213年の和田合戦で、義盛をはじめたくさんの死者が出ます。だけど、滅びたわけではなく、脈々と血はつながれていきました。
義盛の弟の義茂は奥山荘(今の新潟県胎内市)の地頭となっていたので、そっちに移って、黒川氏、中条氏を名乗りました。それで、上杉の家臣になり、上杉が会津に移ったときも一緒に会津へと行きました。
多々良氏は同じ一族の中でも和田氏と関係が濃かったようで、和田氏について奥山荘に移ったようです。奥山荘の文書に多々良氏の名があるようなので家臣になってたみたいです。

今書いてて、ふと思ったことが。
蘆名氏が会津に移って、城を築いたのが「黒川城」。これはのちの会津若松城なわけですが。奥山荘の和田氏が名乗ったのが「黒川氏」。関係あるのかな?ちょっと調べてみることにしますね。

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今回の本紹介コーナーは、遠藤周作の「戦国夜話」。
意外にも遠藤周作は山城好きなんですね。山城で、その時の人々の姿を想像すると胸がうずくと書いてありました。講演のたびに地方の山城を巡っていたようです。文章も素晴らしいので、ぜひ読んでみてください。

ということで、次回の寺子屋は9月22日(金)19時です!!

 

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2017年8月11日 (金)

「いざ!芦名城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

タウンニュース連載14回目!!
今回は横須賀市芦名にある「芦名城」でーす。

さっそくタウンニュースのコラムを。クリックどうぞ!!

  ↓   ↓   ↓   ↓   ↓

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「あしな」は吾妻鏡には「葦名」と書かれ、戦国期には「蘆名」と書かれました。ここの地名の漢字表記「芦名」となったのは江戸時代以降だそうです。

芦名城は今の大楠小学校のあたりです。小学校の正門前の山が城山です。
小学校の場所に館があって、城山が詰城という感じでしょうか。小学校のあたりには「御館(みたち)」いう名が残ってます。

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これが小学校正門です。なんてことない普通の学校なんだけど、裏に回ると…


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はい!どんっ!
水路でーす!
……え?だから何って?これはきっと、当時の防衛用の堀の名残りだと思われますのよ。ぐるりと、川で囲まれてるのです。


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ほら、ピンクの矢印。水路です。こんな感じで。守られてる感がありますね。
まぁ、散々、大楠小学校と言いながら地図上では「大楠幼稚園」と出てますが、同じ敷地内にあるのでお気になさらず。「館」と書いておきました。

さっきの写真は、上の地図の北側の水路に当たります。館の背後を守ってた感じですね。南側の川は城山の背後に流れてます。緑に塗ってあるところが、城山。かなり、ザクッと大胆に塗ってありますけど。
その川の写真がこちら!



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あ、その前に城山の写真を。これが北側から見た城山。
うんうん!っぽいですね!何っぽいって、城山っぽい!
この麓に川が流れてます。この写真だと、下までこんもりし過ぎてわかりませんが、こんな感じ。はい、どんっ!


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川でーす。芦名川です。
付近は水田、湿地だったようでこの川と一緒に防衛に一役かっていたんでしょうね。

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「はしど」という地名も残り、この北側には「からいけ」という名も残ります。城内への橋が架かっていたのかな?

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「はしどばし」全景。右側に行くと城山。
城山は明治に入ると石切り場になったようで、当時の姿は分かりません。今はマンションが建って、私有地なので中に入れません。
でも、何となく山肌に人工的な切岸のようなものを感じます。なんとなくね。


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城山に建ってるマンションの隙間から、一生懸命に名残りを探すも、全然わからん…。
芦名城は元は三浦義明の弟の為清が居を構え、「葦名」を名乗ったことが始まりだと言われてます。葦名氏は、阿波国久千田荘(いまの徳島県阿波町)の地頭になってたようです。


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城山の北?西?には切通のような道があります。
こんな感じ。

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クネクネと道は続く。



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麓には庚申塚。もとは城山の上にあったらしいです。ここに唯一、「芦名城址」と書かれてます。これ以外に案内板や説明板、石碑等はありませーん。

タウンニュースにも書いたけど、「あしな」と言えば摺上原で伊達政宗と戦った蘆名氏を思い浮かべる方も多いのでは?そうです!そうですとも!ここの「あしな」ですとも!!
ざっと経緯を説明すると…
まず、奥州合戦で武功を立てた佐原義連が会津を所領にもらいました。どうもこの頃には横須賀の芦名も佐原氏が管理してたみたいです。で、宝治合戦で三浦宗家が滅びる中、北条方について生き残った佐原氏は義連の孫の光盛の時に「あしな」を名乗ります。そして、直盛の代に会津に移り住み、黒川城を築城します。なんとなんと、これが後の会津若松城となるのです!すごーい!!
ちなみに、義連-盛連-光盛-泰盛-盛宗-盛員-直盛という感じです。


本当に横須賀と会津は縁があるもんで、横須賀中央の「若松町」、これは会津若松から名を取ったんです。多々良城の回で少し書きましたが、幕末に会津藩が海防でこっちに来たときに世話をした高橋勝七さんが「若松屋」を号しますが、その後、今の若松町あたりの埋め立て事業をします。で、「若松町」と命名したんですね~。なんだか、逆輸入って感じですね。



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話を戻して、芦名城の周辺へ。
細い道。いい感じです。いろいろと想像・妄想できます。
あ、そうそう。会津を領したという話ですが、だいぶ広い範囲だったようで。
義連の子供や孫たちはそれぞれの場所をもらって、蜷河氏、猪苗代氏、新宮氏などを名乗ったんですね。三浦一族は全国津々浦々に広がって、色んな所に登場してきますね。




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最後に、今の靴の流通センターの横にある庚申塚。ここが旧道だったのがわかりますね。
そして、このあたりは「長坂古戦場」と呼ばれてます。三浦道寸が新井城に退く途中にこのあたりで北条軍と一戦交えたと、「北条五代記」には書かれてます。

そういえば、芦名城の近くに「ノッコシ」という名が残ってます。ここからは奈良時代の窯跡群が見つかってます。「乗越遺跡」と名付けられました。古墳時代後期以降の横穴墓1基、奈良時代の窯跡8基があったとのこと。ここでは、瓦や須恵器を焼いていたようで、奈良時代に建立された海老名市の相模国分寺の屋根瓦と同じ文様の瓦が見つかったそうな!この頃に本格的な瓦の生産拠点がここにあったんですね~。それで、ここから相模川などを伝って約40km先の国分寺まで船で運ばれていたんですね!!このあたりの水運の様子が少し分かりますね!

と、いうことで、芦名城を取り巻くお話はこんな感じです。
たいした遺構が残ってないけど、なんやかんや楽しめます。ふらりと出かけてみてはいかがでしょうか?

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2017年8月 8日 (火)

「いざ!歩け!神武寺から鐙摺城へ!」の巻(ガイド編)後編

さてさて、神武寺から鐙摺城までの歩け会。後半戦に突入でーす!!
前半戦では東逗子から神武寺を抜けて、逗子の延命寺まで来ました。ではここから、寄り道しながら鐙摺城を目指しまーす!!
レッツゴー!!

今回はちゃんと手書きプリントを用意しました!ん?なんか、久々の手書きプリント。最近、すこしサボってしまってました~。
ではでは、クリックどうぞ!
是非、これを持ってお出かけくださいませ。PDFになってまーす。

↓   ↓   ↓   ↓   ↓

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まずは最初は「三浦胤義遺狐碑」。
あれれ?写真がない…。ま、いっか。

三浦胤義は三浦義澄の子。なので、三浦義村の弟に当たりますね。
その胤義の遺児、義有、高義、胤泰がこの田越川あたりで、斬首されたという石碑です。
1221年の承久の乱で、義村は幕府側につき、弟の胤義は後鳥羽上皇側について敵対したんですね。で、幕府側が勝って、胤義は死ぬことになるんだけど。そのときに胤義の子供たちがこの田越川辺りで殺されてそれを記した碑がこれということなんだけど…。

でも、吾妻鏡には処刑されたはずの胤義の子供たちが宝治合戦で泰村と自害したとの記述あり。だから、きっとここで殺されたってのは後世の作り話っぽいですね。

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この橋、個人宅専用になってる!!おもろーい!


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川沿いに行くと石碑が。
徳富蘆花と国木田独歩の文学碑です。蘆花が住んでたゆかりの地に建てられた石碑。ちなみにお兄さんの蘇峰のお孫さんの家がいまでもすぐ脇に。この辺は「徳富」さんが多いです。逗子は浪子不動をはじめ、蘆花とゆかりの深い地ですね。
国木田独歩も蘆花と同じ貸家に住んでたりと、ゆかりの深い人です。


さらに川沿いを。
お次は「六代御前の墓」。お不動さんを祀る護摩堂も。このお不動さんも今回御開帳です。



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六代御前は平正盛からの六代目。正盛-忠盛-清盛-重盛-維盛-御前(名は不明)。
平家滅亡後に六代御前は仏門に入るも、田越川沿いにて処刑されました。その遺臣たちがここに堂を建て墓守したとのこと。

田越川は以前は葦が生い茂って、うっそうとして、血なまぐさいエピソードも頷けるような地だったとのこと。



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六代御前から少し山に登り、公園方面へ。脇村邸をチラリとみて、進む。脇村邸は昭和9年の日本建築。元は三井物産の藤瀬氏の別荘だったのを東大教授の脇村さんが買ったもの。逗子市の文化財。あれれ?脇村邸の写真もない…。ま、いっか。

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さらに葉山方面に進むと、「鐙摺不整合」と呼ばれる地層があります。
簡単に説明すると、三浦半島で一番古い2500万年前の地層の上に1500万年前の地層が乗ってる?…そんな感じ。つまり地殻変動によって押し上げられた層が1000万年の間、地表に出てて、そのあとまた海の中に沈んだ…まぁ、そんな感じです。
ここの写真もないため、近くの断層の写真を。

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なかなかのもんですな。断層、よくわからないけど見てるのは好き。


と、いうことでお待ちかねの鐙摺城~。
日影茶屋前のこんもりした山が鐙摺城です。

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日影茶屋。
こんな階段を上る。滑りそうだ。

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道路をつくるので、結構削られちゃってる模様。旗立山とも軍見山とも呼ばれる小山。東際に「木戸際」なんて名も残ってます。
ここからは富士山も大海原も見える風光明媚な場所。三浦道寸が攻めてくる北条早雲の軍をここから見たとの伝承もあります。
今は曲輪しか残ってないし、城道なども分からないけど色々と想像できて楽しい。

鐙摺城がいつからあったのかは正確にはわからないけど、三浦義明3男の大多和義久がここを押さえて、海側の道の守りを固めてました。三浦義澄もここに拠ってたようです。
1180年の由比ガ浜合戦では、和田義盛が三浦義澄にここに籠るように勧めたとの話も見られます。
そんな感じで、重要な場所にあるお城なんですね。

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曲輪内には伊東祐親の供養碑もあります。
義澄がここで祐親を頼朝から預かってたらしいです。祐親はいわば頼朝の舅。頼朝は伊豆にいたときに祐親の娘と子をつくってしまいます。祐親はこれに怒り、子供を殺してしましました。さらには頼朝のことも殺そうといました。
頼朝の挙兵の際に平家方についた祐親は捕えられ、ここに。そのあと、許されるも自ら自害してしまいました。そんな縁があるため、ここに供養碑があるんですね。

景色や当時の想像をして楽しんだ後は、住宅街を通り、すこし浜辺を歩き、桜山古墳へ。

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砂浜、見てる分にはキレイなんだけど疲れた足にはキツイ…


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トンネルの上の階段、関係者用の急階段かと思いきや、ちゃんとした古墳への390段もある階段なのです~。旅の終わりに390段?!

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悲鳴と怒号が聞こえましたが、構わず登ります。ひとり、またひとりと登ってくる皆さんとハイタッチ!なんとか、みんなで登り切りました!そして、この夕方、最後にここに来たかったのは理由があるのです。

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じゃじゃん!!今日のご褒美の景色!これが今日の疲れを取ってくれますね。
おおー!江の島も見える~。

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そして、みんなの後姿がかっこいいぞ!!


小休憩で景色を堪能した後は古墳へ。1号、2号、二基あります。


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この古墳沿いの道は古東海道。古くから重要な場所だったんでしょうね。
古墳があるのは分かってたらしいんだけど、平成11年に地元の愛好家が埴輪片を発見したのをきっかけに発掘が行われて、二基の前方後円墳があることが分かりました!!すごーい!愛好家の執念ですね。
綺麗に前方後円墳の形をしてて、こんな山の中にあることに感動しました。

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山の中を抜けて逗子駅に。途中こんな廃墟もあり、盛り上がった。

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そんなこんなで、とてもハードな充実したコースとなりました。
参加者の皆様、お疲れさまでした。

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