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2017年8月11日 (金)

「いざ!芦名城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

タウンニュース連載14回目!!
今回は横須賀市芦名にある「芦名城」でーす。

さっそくタウンニュースのコラムを。クリックどうぞ!!

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「あしな」は吾妻鏡には「葦名」と書かれ、戦国期には「蘆名」と書かれました。ここの地名の漢字表記「芦名」となったのは江戸時代以降だそうです。

芦名城は今の大楠小学校のあたりです。小学校の正門前の山が城山です。
小学校の場所に館があって、城山が詰城という感じでしょうか。小学校のあたりには「御館(みたち)」いう名が残ってます。

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これが小学校正門です。なんてことない普通の学校なんだけど、裏に回ると…


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はい!どんっ!
水路でーす!
……え?だから何って?これはきっと、当時の防衛用の堀の名残りだと思われますのよ。ぐるりと、川で囲まれてるのです。


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ほら、ピンクの矢印。水路です。こんな感じで。守られてる感がありますね。
まぁ、散々、大楠小学校と言いながら地図上では「大楠幼稚園」と出てますが、同じ敷地内にあるのでお気になさらず。「館」と書いておきました。

さっきの写真は、上の地図の北側の水路に当たります。館の背後を守ってた感じですね。南側の川は城山の背後に流れてます。緑に塗ってあるところが、城山。かなり、ザクッと大胆に塗ってありますけど。
その川の写真がこちら!



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あ、その前に城山の写真を。これが北側から見た城山。
うんうん!っぽいですね!何っぽいって、城山っぽい!
この麓に川が流れてます。この写真だと、下までこんもりし過ぎてわかりませんが、こんな感じ。はい、どんっ!


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川でーす。芦名川です。
付近は水田、湿地だったようでこの川と一緒に防衛に一役かっていたんでしょうね。

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「はしど」という地名も残り、この北側には「からいけ」という名も残ります。城内への橋が架かっていたのかな?

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「はしどばし」全景。右側に行くと城山。
城山は明治に入ると石切り場になったようで、当時の姿は分かりません。今はマンションが建って、私有地なので中に入れません。
でも、何となく山肌に人工的な切岸のようなものを感じます。なんとなくね。


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城山に建ってるマンションの隙間から、一生懸命に名残りを探すも、全然わからん…。
芦名城は元は三浦義明の弟の為清が居を構え、「葦名」を名乗ったことが始まりだと言われてます。葦名氏は、阿波国久千田荘(いまの徳島県阿波町)の地頭になってたようです。


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城山の北?西?には切通のような道があります。
こんな感じ。

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クネクネと道は続く。



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麓には庚申塚。もとは城山の上にあったらしいです。ここに唯一、「芦名城址」と書かれてます。これ以外に案内板や説明板、石碑等はありませーん。

タウンニュースにも書いたけど、「あしな」と言えば摺上原で伊達政宗と戦った蘆名氏を思い浮かべる方も多いのでは?そうです!そうですとも!ここの「あしな」ですとも!!
ざっと経緯を説明すると…
まず、奥州合戦で武功を立てた佐原義連が会津を所領にもらいました。どうもこの頃には横須賀の芦名も佐原氏が管理してたみたいです。で、宝治合戦で三浦宗家が滅びる中、北条方について生き残った佐原氏は義連の孫の光盛の時に「あしな」を名乗ります。そして、直盛の代に会津に移り住み、黒川城を築城します。なんとなんと、これが後の会津若松城となるのです!すごーい!!
ちなみに、義連-盛連-光盛-泰盛-盛宗-盛員-直盛という感じです。


本当に横須賀と会津は縁があるもんで、横須賀中央の「若松町」、これは会津若松から名を取ったんです。多々良城の回で少し書きましたが、幕末に会津藩が海防でこっちに来たときに世話をした高橋勝七さんが「若松屋」を号しますが、その後、今の若松町あたりの埋め立て事業をします。で、「若松町」と命名したんですね~。なんだか、逆輸入って感じですね。



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話を戻して、芦名城の周辺へ。
細い道。いい感じです。いろいろと想像・妄想できます。
あ、そうそう。会津を領したという話ですが、だいぶ広い範囲だったようで。
義連の子供や孫たちはそれぞれの場所をもらって、蜷河氏、猪苗代氏、新宮氏などを名乗ったんですね。三浦一族は全国津々浦々に広がって、色んな所に登場してきますね。




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最後に、今の靴の流通センターの横にある庚申塚。ここが旧道だったのがわかりますね。
そして、このあたりは「長坂古戦場」と呼ばれてます。三浦道寸が新井城に退く途中にこのあたりで北条軍と一戦交えたと、「北条五代記」には書かれてます。

そういえば、芦名城の近くに「ノッコシ」という名が残ってます。ここからは奈良時代の窯跡群が見つかってます。「乗越遺跡」と名付けられました。古墳時代後期以降の横穴墓1基、奈良時代の窯跡8基があったとのこと。ここでは、瓦や須恵器を焼いていたようで、奈良時代に建立された海老名市の相模国分寺の屋根瓦と同じ文様の瓦が見つかったそうな!この頃に本格的な瓦の生産拠点がここにあったんですね~。それで、ここから相模川などを伝って約40km先の国分寺まで船で運ばれていたんですね!!このあたりの水運の様子が少し分かりますね!

と、いうことで、芦名城を取り巻くお話はこんな感じです。
たいした遺構が残ってないけど、なんやかんや楽しめます。ふらりと出かけてみてはいかがでしょうか?

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