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2017年9月 9日 (土)

「いざ!新井城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

タウンニュースの連載も15回目!そんなにやったっけ?と、自分でもビックリです。
と、いうことで今回は「新井城」です!!新井城は歴史もドラマも満載!では行ってみようー!!



クリックどうぞ!タウンニュースのコラム記事です。

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新井城は永正10年(1513年)から3年間に及ぶ北条早雲と三浦道寸の壮絶な決戦の場として、歴史の舞台に登場します。今見ることができるのはこの戦いの頃の城の姿です。
それ以前も三浦一族のなんらかの施設があったと思われます。1247年の宝治合戦で三浦宗家が滅びてから、生き残った佐原氏は三浦半島の南を所領としてますしね。何かしら使ってるはず。

ということでまずは場所から。新井城の場所はというと。ココです!
油壷と呼ばれて、マリンパークや温泉、海水浴場などのレジャー施設で賑わう観光スポットですね。下の写真のマリンパークのある小さな半島というか岬というか。


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上の写真のピンクの矢印。ここは「内引橋」と呼ばれる場所です。
城へ向かう道はここしかなく、ここに引橋が掛けられてたと思われます。掘り切って橋を架けておいて、有事の際は橋を引いて敵が攻めてこれないようにする仕掛け。矢印の先っぽがあるあたりが「横堀海岸」という名の海岸になってるのは、その名残りですね。


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ここを下りていくと横堀海岸です。ガクンと落ちてる感じ。掘り切られてるのがよく分かります!!


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その堀切の逆側がこんな感じ。


旧三崎高校、今は消防署のあるとこに「引橋」という交差点がありますが、あそこが「外引橋」です。車でビュンと通るとイマイチ分かりませんが、歩いて下を見下ろすと渓谷になってる感じがあります。新井城から約3km離れてたとこにあって、唯一の陸路での城へ続く道です。

ちなみにこの外引橋のあたりに「陣場」という字名が残ってるそうで、ここが北条勢の陣場だったと伝わります。北条早雲が相模の国を手中に収めようと相模に進出、そして三浦一族はその最後の障害、敵になるわけです。さっきから「北条早雲」と言ってますが、実はまだこの頃は早雲は「北条」を名乗ってなくて出自の「伊勢氏」を名乗ってました。

前は、早雲は一介の浪人で、それが下克上で…的なこと言われてましたが、最近では名門の血筋だと言うことが分かってます。桓武平氏の出である伊勢氏は足利氏の家臣で、3代将軍の義満のときに政所執事という役職に就き、以来その職を世襲してました。政所執事とは民事訴訟や徴税、金銭の出納などを管理する重要ポストだったんですね~。で、早雲はその分家の備中伊勢氏なんですね。
「北条」を名乗ったのは2代目の氏綱からです。



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油壷湾。今はヨットや船がとまってリゾート地のような雰囲気。壮絶な戦いが繰り広げられたとは思えませんね。海面も鏡のように見えるほど、凪いでいて美しい。

「油壺」の名前の由来もこの戦いに関係があるとかないとか。
この新井城の戦いで油壺湾にたくさんの戦死者が沈み、その血が海を赤く染め、海面が油を流したように見えたというとこから「油壺」という名前がついたという話があります。

でも、前に油壺湾の海底をさらって、調査したことがあるらしいんだけど。そのときは新井城の戦いのときの遺物は何も出てこなかったんだって。


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油壷は私も小さいときに良く行きました。マリンパークや新井浜の岩場で遊びました。その「油壷」という名前にまさかこんな由来があったとは!
他には、水面が鏡のように光って反射して見えることから、油を連想し、油壷と言ったという説もあります。

籠城して囲まれてるときって、蟻が出る隙間も無いほどなのかな?と思ってたんだけど、意外とそうでもないらしくて。
道寸は永正12年に母親が亡くなった際、供養のために自筆で記した法華経を奉納してます。籠城中に自ら筆を取って、しかるべき寺社に経を持ち出して奉納したんですね~。


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今は新井城のほとんどが東京大学の施設になってしまってますが、土塁や空堀などが綺麗にところどころ残ってます。施設の建ってる場所には「御殿跡」という名が残ってて、地名から名残りを感じることができますね。


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いつも立ち入りOKな通路から撮った空堀写真。

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いつもは立ち入り禁止の東京大学の施設側から撮った空堀写真。さっきの写真と同じ空堀の、あっちとこっち。
今は空堀や土塁を外から眺めることしかできませんが、年に一回、毎年5月の最後の日曜に開催される「三浦道寸まつり」で、東京大学の施設の中に入って、城内を見学することができます。空堀を内側から見たり、土塁など土の名残りを見ることができます。
供養祭や三浦一族のお家芸だった笠懸も催されます。


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施設が建っている城内の平場。ここが見れるのも年に一回の道寸まつりのときだけ。
新井城址は江戸時代頃までは「二の丸の草を家畜が食べたら死ぬ」とか、亡霊が出るという噂があったらしく荒れ放題だったとのこと。
明治30年くらいに三崎にあった臨界実験所が手狭&海が汚れてきたという理由から油壺に移転されることになりました。怖くて人が寄りつかない油壺は格好の場所だったんだとか。


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三浦一族のお家芸だった笠懸。奉納の儀式というよりは実践的なゲームのようなもの。
道寸まつりでも優勝者を決めたりと盛り上がりました。迫力満点でかっこいい!
和田義盛、三浦義澄をはじめ、三浦一族は頼朝の前とかで弓馬術の腕前を披露したりしてたんですね。


この新井城を舞台に繰り広げられたVS北条早雲との戦いで、三浦一族滅亡!となる訳です。まぁ、滅亡と言っても血筋はいろいろと受け継がれていきますが。
と、いうことで、ざっと歴史をおさらいすると…。

源氏復興&鎌倉幕府設立で功を挙げた三浦一族は1247年北条氏との戦い、宝治合戦で敗北。法華堂にて三浦宗家は自害。一族の佐原氏が北条氏についてたため、旧所領の一部をもらってお家は存続。だけど、いままでの本拠地の大矢部・衣笠の地はもらえず三浦半島の南の突端に移ります。そして、「三浦」の姓を復活させ、新井城で最期を迎える三浦道寸・義意父子へと繋がります。
道寸は養子です。もとは上杉高救の二男なんですね。この頃は三浦氏は扇谷上杉氏に従ってました。道寸は家督を継ぐと、息子の義意を新井城に、自分は平塚の岡崎城に入りました。
この頃、小田原の大森氏を追い出した早雲は相模国平定を目論みます。そして、道寸のいる岡崎城を攻めました。道寸は逗子の住吉城に退きます。ここでは道寸の弟の道香が北条軍を食い止めようとするも落城し、自害。逗子の延命寺境内にて自害したと伝わり、お墓があります。
この一連の戦いで、太田道灌の息子、資康も討ち死にします。道寸の娘婿でした。

さらに戦線は南下。佐原、秋谷、林などで戦うも道寸たちは新井城へと退くことになりました。そして、新井城に籠城することになるのです。


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下の浜を臨む。見張り台のような感じ。平場にもなってた。竪堀も入ってるように見えたし。


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きれいな海。船着き場かなと思いました。下の岩場もなんだか加工されてる感じがしたし。
戦時は水軍として三浦氏に属し、平時は海運を生業としてた三浦組っていうのがいたんだけど、三浦一族が負けた後も城ヶ島に渡って早雲に対する抵抗を続けてたらしい。
その両者の間に建長寺や円覚寺が入って和睦。三浦組は早雲に従うことになったとのこと。後に再編集されて、三崎十人衆として厚遇されたようです。

新井城の戦い当時の資料には「三崎要害」という言葉が出てきます。これが新井城のことのようです。新井城という名は後になって、今の三浦市役所のあたりに三崎城を取り立てるようになってから、そこと区別するために使われるようになったみたいです。いつから、新井城と呼ばれるようになったのかはわかりません。ただ、北条氏の時代には「油壺」という名前は使われてたようです。小田原合戦の直前に油壺に水軍を配置するように指示を出した書状が残ってるとのこと。


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城内に三浦道寸・義意のお墓があります。三浦氏の後裔の正木氏たちが建てたものと伝わります。
「三浦一族滅亡!」といっても、三浦の血筋は今までのブログにも書いたように、いろいろなところに受け継がれてます。蘆名、和田、多々良などなど。




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北条九代記に
「此の城の有り様、…(要約すると)周囲に垣をめぐらせ、東側だけ陸続き。三方は海。峯高い山坂があって、鳥じゃないと登るには厳しい。巌も厳しく、獣だって疲れるよ。100万の兵でも力攻めは難しいなぁ。千駄櫓って言う食糧庫もあるみたいだしね。でも、いくら道寸といえど度々の戦いで兵も減っちゃったし、後詰の援軍を待つしか策がないみたい。でもだからといって、すぐには攻められないから早雲は向かいに陣城をつくって3年も囲んでから決戦の日を迎えたんだよ」
という感じでしょうか。

後詰の上杉の援軍を頼みにしてたけど、早雲は先に手を打って援軍が来れないようにしてました。早雲は玉縄要害を改修して、玉縄城を築城。三浦半島への上杉勢の援軍を阻止したのです。


頼みの援軍も来ず、万策尽きた道寸と義意以下三浦一族は討って出るも大軍相手に力及ばず、自害。永正13年(1516年)7月11日、三浦一族のは最期の時を迎えました。

道寸は「討つものも討たるるものもかわらけよ くだけてあとは元の土くれ」という辞世の句を残しました。個人的には、とても好きな句です。無常観たっぷりで胸に迫ります。
道寸は和歌や書にも優れ、古今伝授をも受けていたと言います。古今伝授ってのは、古今和歌集の解釈を中心に歌学などの諸説・秘伝を師から弟子に伝る作法のこと。これは当代一流の文化人だった証です。


後日談ですが、江戸時代に成立した軍記物とかは新井城が落城して道寸たちが自害した日を「永正15年寅年」と書いてる。本当は永正13年なのに。
なんでかというと、豊臣秀吉の小田原攻めで北条が開城して、氏政と氏照が自害したのが天正18年寅年7月11日。三浦氏滅亡と同じ日の7月11日。軍記物は因果ものに仕立て上げたかったので「寅の年7月11日の寅の刻」として、年を2年ごまかしてコジつけたわけですね~。

三浦氏というのは江戸時代に入ってもこうやって話題に出たり、三浦氏の系図を欲しがる家が多かったりと、とても影響力の強い氏族だったんですね。
そんな三浦一族の最期の地、新井城。歴史を感じに行ってみてはどうでしょうか?
※海岸で物を食べてると、トンビに狙われます。わたしは100%の確立でサンドイッチやオニギリをさらわれてます(>。<)
お気を付けくださいまし。

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コメント

こんばんは、鷲谷です。

今度は新井城の戦いについての記事を書かせていただきました。

以前、油壺マリンパークに行ったことがあるのですが、そのときは新井城の遺構についての知識がそれほどなく、色々スルーしてしまっていました。

今度三崎に行ったら新井城の遺構を見るのに時間をかけてしまいそうなので、一日はマリンパーク、一日は新井城、みたいに泊まりがけで計画してみます 笑

投稿: 鷲谷 壮介 | 2020年9月 2日 (水) 00時47分

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