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2017年10月の3件の投稿

2017年10月23日 (月)

「山城ガールむつみの寺子屋!」の巻 其の七

第七回目の寺子屋!
土砂降りの中、なんとか開催。いつもより、少ない人数でしたがこの大雨の中、来てくださった方には感謝ですね。京浜急行も大幅に遅れるほどの大雨でした。

今回の寺子屋は祝1周年!
おかげさまです。それにしても、あっという間ですね~。


夏休みは青春18切符で山形から秋田に行ってたので、行ったお城の写真を見ながら土産話をしてみたり。
秋田でお土産を買うつもりが、電車の混雑ぶりがすごくて買えなかったので、なぜか三河のお土産を。家康やら信長がプリントされてるクッキーです。小学生が買うようなベタな土産だけど、致し方なし…。

また今回も初めての方がいたので、お城ってなぁに?って話から。
小学校の先生をしてる方が来てくれました。浦賀城とか全く知らなかったって言ってました。またぜひ参加してもらって、子供たちに地域の歴史を伝えてくれれば嬉しいですね。




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他には夏の旅行で色々とつながって面白いなと思った話を。

 

秋田の佐竹氏の久保田城に行ったときのこと。佐竹氏というと、今年の夏の初め頃、集中豪雨で川が氾濫して、住民が避難やなんやと大変だった時にゴルフしてて問題になった秋田知事を思い出します。あの知事は佐竹北家の血筋で、代々、角館藩主の家系。知事は佐竹北家の21代にあたるとのこと。結局、給料3か月とボーナスカットだなんて、かなり反省してる感じでしたね。

佐竹氏は源氏の名門。源頼義の子供で、八幡太郎義家らを兄弟にもつ新羅三郎義光が祖。常陸太田市に馬坂城という城があって、そこが佐竹氏発祥の地と言われてます。時代が下って、関が原では西軍について、その後は秋田に移って、久保田城を築くんですけど。実はこの佐竹が三浦氏とつながるんです。

 

南会津に伊達政宗のライバルと言われる蘆名氏という戦国武将がいました。摺上げが原の戦いで伊達政宗に負けるんだけど。で、この蘆名氏の最後の当主である蘆名義広が佐竹義宣の弟なんです。常陸の佐竹と南会津の蘆名は、対伊達氏のために連携を図って近しい関係だったので、佐竹から蘆名家に養子に行って当主になったんですね。
そもそも、この蘆名氏は実は元は横須賀の芦名氏。大楠小学校あたりの芦名に城館を構えて、「芦名」を名乗ったわけです。三浦義明の弟が祖で芦名為清を名乗ったのが最初です。

 

なので、直接じゃないけど見事につながってます。要は横須賀の三浦一族である蘆名氏の最後の当主が佐竹氏だということですね。なんだか、秋田県知事にも親近感~。

そうそう、蘆名氏と言えば、
会津若松城。別名鶴ヶ城。八重の桜で悲劇の舞台になりましたけど。あの城を最初につくったのが三浦一族である蘆名氏。そのころは会津黒川城って呼ばれてました。今の若松城と縄張りはあんまり変わってなくて、いまの城の下に蘆名時代の遺構が眠ってると思われます。あぁ、なんてロマン。


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それと、上野の国立博物館で開催される運慶展の紹介と見どころを。
運慶展のちらしには横須賀芦名の浄楽寺と伊豆の願成就院の仏さまが並んで写ってます。ありがたい仏様…と思ってると実は!そこには熾烈な権力争いが!!

 

三浦一族のライバルというと執権北条氏。浄楽寺の仏像は和田義盛、願成就院のは北条氏が願主なんですね。願成就院の像からは文治2年の札、浄楽寺の毘沙門天胎内から、文治5年の札。

  

仲良く同じような仏像を同じ時期に造った…わけじゃなくて、競い合うように造ったということ。いかに和田氏と北条氏が権力と財力を持ってたか。そして、運慶展ちらしのなかに鎌倉時代の壮絶な権力争いが垣間見れて面白いです。そんな見方をすると、展覧会もまた違った楽しみ方ができるかもしれんせんね。美術、芸術と歴史が結びついて面白いかなーと。

 

それにしても、運慶作が確定、もしくは限りなく運慶作っていうのは全国で31体。そのうちの5体が芦名の浄楽寺に。阿弥陀三尊、不動明王、毘沙門天。これってすごいこと!三浦一族の権力すごい!ということで、ぜひ行ってみてください。

 

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最後は恒例のむつみの本紹介コーナー。

 

時代、ジャンルを問わず、歴史ものっぽい本を勝手に紹介するコーナー。

 

今回は伊東潤さんの「義烈千秋 天狗党西へ」。水戸天狗党の小説です。私は幕末そんなに得意じゃないんですけど、天狗党側からの目線で幕末の流れを追ったら、いろいろと勉強になりました。この伊東潤さんは何を読んでも傑作です。

 

この本は藤田東湖の息子、藤田小四郎とかが中心人物。最初は尊皇攘夷、イコール倒幕のつもりはなくて、あくまで夷狄を打ち払うということで結成された天狗党。当初は、横浜港の開港を阻止するというのを目的に1864年に筑波山にて決起。

 

水戸藩も桜田門外の変とか坂下門外の変とかいろいろあって分裂してて。天狗党も当初の目的を果たそうにも藩からも幕府からも追われて、どうにもならなくなって。後の将軍になる一橋慶喜を頼ろうと京を目指すんだけど、最後は慶喜に切り捨てられて敦賀で処刑される。途中で主人公の小四郎は自分の気高い志が派閥争いにしかなってないことに気づいて愕然と。だけど、この国を正気に戻そう!と、捨て石になろうと覚悟を決めて進んでいく。結局、激戦を繰り返しながら水戸から進んだ道中は無駄足になる。だけど、その葛藤と志がすごく美しく切なく描かれてて、歴史を知るにも小説としてもとてもいい作品でした。

 

途中、いろんな藩の領地を通って行軍するとき、小さい藩は見て見ないふりするんですね。堂々と通るなら黙ってられないけど、脇道を通るなら、こっそりどうぞ…みたいな。例えば、栃木の黒羽城。18千石。前に行ったときに随分大きな城郭だなと思ったら、関ヶ原合戦の時に上杉景勝が来たときの押さえとして、こんな大城郭にしたらしいんですけど。そこを天狗党が通っていく。当たり前なんだけど、歴史が繋がってると言うことを痛感して、感動しました。
他にも高崎藩と熾烈な戦いを繰り広げるんだけど、その中に里見という名前が出てくる。里見というと、千葉のイメージあるんだけど、元は新田氏。だから、高崎あたりにも里見公園とか里見城址があるんです。いろいろと中世と幕末が重なって面白かった。
秋の夜長にいかがでしょうか?


 

次回の寺子屋は1124日(金)19時から。
よろしくお願いしまーす。



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2017年10月16日 (月)

「いざ!三崎城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

タウンニュースの連載も16回目になりました。
ではでは、今回は「三崎城」です。いってみよー!!
まずはタウンニュースノのコラムを!



↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓

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三崎城は今の三浦市役所があるあたりです。旧三崎中学校のところ。車で行くと、あまり気づきませんが、結構な高さがあります。歩いて市役所に向かうと、よくわかります。山になってます。標高は30mくらい。
三崎城の始まりはよくわからないけど、今に残る三崎城の姿は北条氏が三浦一族を滅ぼした後に拡大改修したものです。三崎の地は里見氏との国境に当たるため、房総への軍事行動の拠点になったんですね~。海路だと、房総半島は目と鼻の先ですね。

実際、里見氏は何回か攻めてきてて、1556年には兵船80隻で、目の前の城ケ島を占拠して三崎城へ上陸しようとしました。なんとか、三崎城と城ケ島の間の海上で戦って上陸は阻止!里見氏は上げ潮に乗ってヒットエンドラン戦法で、しょっちゅう攻めてきました。怖い怖い。これには北条氏もかなり手こずりました~。
時には迂回して、新井城に攻めてきたこともあります。その対策として北条氏は、攻撃の拠点にしようと浦賀城を築きました。三崎城はどっちかというと、守りの城って感じですもんね。


Photo
エリア的には、こんな感じ。外堀が広い道路になってたり、当時の名残りが今でも十分に地形からも分かります。



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住宅の隙間から城山を見る。突き当たりの高台が城山。うん、結構な山になってますね。

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城山から下を覗くとこんな感じ。うんうん、高く感じます。
海南神社の脇から、城内へと向かいます。海南神社は三浦総鎮守です。
城山に上がって海南神社を見下ろすと、斜面が切り岸になって、がくんと落ちてるのが分かります。
海を見ると城ケ島が、どーんと横たわってます。城ケ島は防波堤にも、港の目隠しにもなったんですね。こうやって眺めると、よくわかりますね。

三浦氏の新井城が落ちた時、三浦の残党が城ケ島に籠って、三崎に入った北条氏をしばしば襲ってきたとの事。これには北条氏も手を焼いて、お寺が仲裁に入ったらしい。その後は、三浦の旧臣は北条氏について三崎十人衆として北条水軍に組み込まれました。三崎は玉縄城領に属し、三浦氏の旧臣は三浦衆として編成されたようです。



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そのまま三崎小学校の方に進むと、光念寺と本瑞寺が並んでます。ここは城の南西にあたり、光念寺と本瑞寺の間には、こんな感じの土塁があります。結構高いです。5mくらいかな?

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うんうん、遠目に見ても高い。
この本瑞寺は、いわゆる頼朝の三崎の三御所の一つ、「桜の御所」にあたります。ここで宴を開いたと吾妻鏡にも書かれてます。室町時代前期のものとされる梵鐘も本堂の中にあります。



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三崎小学校。ここももちろんお城の一部。曲輪があったところです。


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三崎小学校を通り過ぎて、大きな通りに出るところにこんな、こんも~りとした土の塊。これが土塁の一部です。
この大通りの向こう側が主郭にあたるので、空堀になってたと思われます。そこが今は道路になってるんですね。


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この土の塊は三崎市役所入り口の所。これもきっと土塁の名残りでしょうね。


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まずは主郭の北側の際を見ようと、旧三崎中学校の裏手へ。
ほらほら、怪しいじゃ~ん。なんですか!?がくんと落ちてますよ!


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ほら!ここだけ、不自然な感じで。お家が2列分だけ、落ちてます。空堀の底の名残りっぽく見えます!あぁ、楽しい。歩いてて、こういうの見つける感じが本当に楽しい。
三崎城は海側の防衛は堅いけど、北の陸続き側は弱いので3重の空堀を巡らせてたらしい。このガクンと落ちた空堀の名残りのようなものは、自然地形に人工の手を加えた空堀の名残りですね。

そして、旧三崎中学校のプールを通りすぎ、まっすぐ細い道へと向かいます。そうすると、右へ向かう坂道。これを上っていくと、お城の東端の曲輪に到着。




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こんな感じ。右が小さな曲輪。その下の湾の見張りのような位置。
堀切のようにも見える。主郭に向かう通路は土橋になってます。


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今はお堂が建ってる。下を覗くと断崖。標高30mとは思えないほど、高く見えます。下の入江が丸見え!

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下に見える入江はこんな感じ。この入江は「北条湾」という名前がついてます。
その先に、うっすらと見える城ヶ島。当時から今まで三崎港が良港だった理由が分かりますね。このあたりは軍船を留めていた場所です。城ケ島が上手に軍港を隠してくれました。
この入江はさらに奥まっていて、北条水軍の船を留めるには最適だったでしょう。
この港からは、中国からの輸入品の永楽銭が大量に見つかってるらしいです。北条氏にとって、貿易としても重要な港だったと言うことがわかりますね!すごいぞ、三崎城!!


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今は埋め立てて道路になり、さらには奥が住宅地になってますが、当時はもっと奥まで湾が入り込んでました。今でも道路や住宅の下には海が入り込んでます。


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埋め立てられた住宅地。当時はこの辺まで湾が入り込んでたんではないでしょうか?土地がとても低く感じます。

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ではでは、再び城内へ。さっそく横堀出現!結構なシロモノ!!
あぁ!写真では全く伝わらない!!




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そして土塁!!ぐるりと曲輪全体に!
本当は今回のタウンニュース、この土塁の写真にしたかったんだけどイマイチ分かりづらくて断念…。草木も邪魔だし、上手く撮れん!ガッデム!!


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土塁、結構な高さです。まだこのあたりが役場として整備されてない頃の写真を見ましたが、土塁の高さ8mくらいあったように見えました。今は5mってところかな。



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駐車場をぐるりと土塁!なんかイイ~。こういうの好き。


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旧三崎中学校のグランド。
ここには角馬出があったようですが、きれいさっぱりありません。ここが一番広い曲輪ですね。

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石碑。この裏側に土塁があって、角馬出に名残りか?なんて書かれてるんですが、たぶん曲輪の土塁の名残っぽいです。位置的に。
青少年会館、体育館などのまわりすべてに今でもうっすらと土塁の名残りがぐるりと。数十cm程度のとこもあるけど。分かる程度には残ってます。

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市役所の脇を通って行くと、こんな小道。うねうねと曲がりくねってます。これ、大手道かな。人さまの家の間をこっそりと進む。…別に不法侵入じゃないし、ちゃんとした道なんだけどあまりに道の細さに忍び足になってしまう。



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振り返るとこんな感じ。これが大手道っぽいですね。
こんな感じで、三崎城は馬出や枡形虎口とかの最先端の技術が使われてるんですね。北条氏の築城技術がたくさん散りばめられてる当時の粋を凝らしたお城だったんですね~。ちなみに、この大改修工事がほぼ完成したのは1577年ではないかという事。城主の北条氏規が「三崎之普請就出来申候」と記した資料があるらしいです。



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今度は南側の海の方へ。これがさっき上から眺めた北条湾です。いまでも船が係留してあって、なんか雰囲気ある!とてもいい!
三崎は頼朝の山荘があったように、風光明媚な場所でした。北条早雲や氏康たちも三崎を訪れて、景色などを楽しんだと言います。早雲もここに療養に来ていたらしい。



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湾の横のバス停、その名も「北条」!!こういうのを見つけるとテンション上がりますね!


三崎城は1590年の秀吉の小田原攻めにて降伏開城。
城主の北条氏規は韮山城主と兼務で韮山城で戦ったり外交に奔走してたし、城内の主だった人は小田原城に行ってた模様です。

北条が滅びた後は、徳川氏の所領となりました。そして、元武田水軍である徳川水軍の将、向井正綱の屋敷が建てられました。頼朝の三崎の三御所のひとつである見桃寺には、向井一族のお墓があります。桃の御所ですね。
三浦水軍も北条氏から徳川氏に受け継がれました。

江戸時代になると、三崎は天領となり幕府直轄の地となりました。奉行所や関所が置かれ、軍事だけでなく、商業、交通でとても重要な地になったんですね。浦賀とともに栄えたのです。
1811年には会津藩が海防の任につき、城山には陣屋が築かれました。城ケ島にはお台場が。頼朝の三御所の最後のひとつ、大椿寺には会津藩士の墓があります。椿の御所ですね。

三浦一族の時代から現代まで、ずっと重要な役目を果たした三崎。最近は観光客も増えて、にぎやかで楽しくなってきました。なんと、おしゃれカフェも何軒かできました。おいしいドーナツ屋さんも!!
観光がてら、ぜひ出かけてみてください。

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2017年10月 2日 (月)

日にち変更!!告知【募集】「いざ!歩こう!長井城へ!!」の巻

歴史ウォーキングのお知らせ

さてさて、気持ちのいい季節になってきました~!
ということで、行きましょう!歩きましょう!!いざ!GO!GO!
一緒に三浦一族の史跡を巡りながら、風光明媚な景色を楽しみませんか?

今回は長井城と和田城に行きます。と、言ってもお城の遺構などはないけど…。それでも、歩いていくと色々と感じるものがたくさんあります。行ったことのある場所でも、また違う姿が見えたり、新しい発見があります。地形や位置から、色々と感じるものがあります。

コースは三崎口の駅を出発して、和田義盛ら和田氏の里、和田氏と縁のある天養院を拝観して、海岸を歩き長井城へと向かいます。
距離は10kmちょっとでしょうか。
天養院では秘仏の薬師様を見せていただきます。

歴史が苦手な方でも、楽しめるコースになってますよ!三浦半島の中でも屈指の景勝地!風光明媚です!!
初めての方、お一人での参加の方大歓迎です。楽しく歩きましょう!


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日にち    平成29年10月22日(日)

台風のため、日にち変更です。

日にち    平成29年11月3日(祝)

集合場所  京浜急行「三崎口駅」改札

集合時間  10時!!

参加費    1000円(拝観料・資料代込み)

お弁当持参でお願いします。レジャーシートを持ってくることをおススメします。

歩きやすい服装・靴での参加をお願いします。
今回は山というより、海岸を少し長めに歩きます。
あとは自己判断でよろしくお願いします。

人数は10人から20人を予定してます。予約制とさせていただきますので、参加希望の方はメール、電話、FB、ブログへのコメント等、どの方法でもいいので連絡ください。

一部の方に集合を9時半と知らせてしまいましたが、お寺の御都合により、10時に変更させていただきます。すみません。
なお、お寺に急遽、法要が入ってしまった場合は拝観ができない可能性がありますのでご了承くださいませ。



楽しく気持ちよく歴史めぐりをしましょう!!ご連絡お待ちしてます。

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