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2017年11月16日 (木)

「いざ!浦賀城へ!」の巻(タウンニュース連載記事)

今回で17回目のタウンニュース連載コラム「出陣のススメ」は浦賀城です!
クリックどうぞ!!


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「浦賀」というと、
黒船!ペリー!勝海舟!!…などと、幕末のキーワードが浮かびがち。
でもでもでも!浦賀には中世の山城があるのですよ。
中世以前の歴史を追っていかないと、幕末の浦賀の姿も見えてこないんじゃないでしょうか!?
ということで、浦賀城いってみよー!

まず、浦賀城の城山は東浦賀の東叶神社の裏山にあたります。浦賀の町は浦賀湾を挟んで、西と東に分かれてます。西浦賀と東浦賀。西浦賀には西叶神社がありますよ。
西と東の行き来はポンポン船がおススメです。小さいころから、慣れ親しんだポンポン船。当時は50円だったような。今は200円です。

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素敵な風景ですね。これに乗って浦賀城に向かうと、ググッと遠足気分に!
正面の山が浦賀城です。まさに岬の突端です。標高は55mほど。

浦賀城が正確にいつできたのかは分かりません。
でも、古来重要な場所というのは変わらないので、浦賀は昔から要衝の地だったと思われます。浦賀城の裏側の鴨居は三浦一族の多々良氏の館や城があったと言われているので、浦賀城も関連施設があったり、なんかしら連携してたかもしれませんね。
三浦一族である横須賀氏の拠点だったとも言われてます。


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浦賀城の目の前には浦賀水道が走ってます。房総半島は目と鼻の先!当時は「向かい地」と呼び合うほどの距離感でした。今は車も電車もあるし、陸路を頭に浮かべちゃうけど昔は断然海路水路の方が便利で早かったんですね~。


北条早雲は1516年に油壺の新井城で三浦道寸&義意父子を追い込み、三浦一族を滅ぼしました。それにより、相模国を平定した北条氏は、房総半島へ目を向けました。
江戸湾(東京湾)の海上交通を掌握するためには房総半島に拠点を置く必要があったんですね~。

房総半島の敵というと、里見氏ですが里見氏はたびたび三浦半島に攻めてきます。
城ヶ島を占拠されたり、大船あたりに攻め込まれたりと大変!
イイ感じの潮の流れに乗って、あっというまに攻めてきたんですね~。そんな情勢の中、三崎城の支城として浦賀城は築かれました。前面を城ヶ島で守られて、奥に湾がある三崎城が防御型だとすると、岬の突端に築かれた浦賀城は攻撃型!襲いかかる里見氏に攻撃するための城だったとのこと。


海の写真
※海の写真を貼り付けるはずが、写真がない!すみません。想像で読み進めてください。

晴れた日には、目の前に広がる大海原の青がまぶしいくらいキレイです。
こんな美しい海で実はすごい争いが繰り広げられてたのです。浦賀城は最前線の基地だったのです。

北条水軍の拠点になってたんですね。ちなみに北条水軍には三浦水軍の残党が取り込まれました。結構良い待遇で迎えられたようです。
浦賀城には三浦水軍だけじゃなく、高給で雇った水軍なども入り、一大水軍拠点になりました。舟方は諸役を免除されて、里見氏に備えたようです。

江戸湾と浦賀水道の制海権争いは、なかなかに白熱。抜き差しならない状況になってました。合戦記録に残ってないような小競り合いなんかは、この浦賀城の目の前でしょっちゅうあったのかもしれませんね。


浦賀の地は江戸湾の入り口!まさに要の場所なんですね。
江戸時代に浦賀が小田原の次いで栄えていたのも、交通の便という要素があったからですね。家康も浦賀を国際貿易港として開港したり。

浦賀城の城山である明神山と、対岸の愛宕山に囲まれた天然の良港だったんですね。なんと、800~1000艘もの船が碇泊可能だったとのこと!

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ある日の浦賀城でのイベントの風景。
主郭の奥に遺構が残ってます。
階段上がって疲れちゃって、主郭しか行かないで、海だけ見て帰ってきたという話をよく聞きます。奥に堀切がありますのでね!



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こんな堀切が残ってますよ!主郭の東奥をガサゴソと進むと現れます。


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こんなかんじでガサゴソと進みますよ。参加者の皆さん、苦笑い。蜘蛛の巣だらけ。
堀切や急傾斜の切り岸からも当時の緊迫感を感じますね。


浦賀城の東側の谷からは発掘調査で柱穴が多数見つかってるらしいです。船倉跡じゃないかとのこと。城のまわりには広範囲にわたって「~腰」という城を連想させる地名が残ってます。


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井戸もありますよ。この井戸があるところは自然地形かな?窪地、鞍部になってますね。なんだか不思議な空間。



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これまたイベント風景。
東叶神社から頂上に上がる階段は結構急です。息が切れます。途中に勝海舟断食の碑があります。そこからも頂上の主郭に向かって階段は続くんだけど、当時の登城路は石碑の奥に続く道だったと思います。ぐるりと回って虎口に入る感じ。

階段を上がり切った場所は主郭とされる広い平場。
そこからの景色は絶景!本当に房総半島が近く見えます。当時の里見氏の城、造海城も見えます!見えると言っても、場所が分かるという程度だけど。造海城は「つくろうみ城」と読みます。
元は真里谷氏の城だったんだけど、里見氏の支配下に入ってからは里見氏方の正木氏が入りました。正木氏は三浦氏と血縁も濃いですね。
この造海城は幕末に浦賀城と同じように海防の拠点となり、台場が設けられました。やはり、浦賀城と同様に造海城も時代を通して、重要な場所にあったんですね。


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これは久里浜のペリー公園の資料館にあった絵図。様子がよく分かりますね!

このブログを書いてて、浦賀城の海の景色など、写真が全然ないことに気付きました…。ガビーン。
ぜひ、浦賀城にいって見てみてください。すみません…。
腰曲輪とかの写真もあったはずだったんだけど。おかしいな~。


1590年の秀吉の小田原攻めでは、浦賀城の城兵は三崎城に籠もって戦ったとのこと。その後は、廃城になったとのことです。北条水軍はそのあとは徳川水軍に組み込まれたようですね。


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安部龍太郎さんの「開陽丸、北へ」を読みました。
鳥羽伏見の戦いの後、開陽丸は大坂城を脱出した徳川慶喜を乗せ江戸へ向かいます。その後、品川沖にて新政府軍との交渉をするも、決裂。
榎本武揚、沢太郎右衛門の乗った開陽丸と他の何艘かの船、徳川艦隊が北へ向かうこととなるのです。
咸臨丸は勝海舟が艦長として太平洋を横断し、その名を世に知らしめた蒸気船ですが、老朽化のため、数年前から蒸気機関をはずされ、帆走のみになってました。そのため、船足が遅いので、馬力のある回天丸が曳航することになりました。
しかし、江戸湾を出発して早々に咸臨丸は観音崎沖にて座礁。
咸臨丸を曳き、前を走る回天丸が観音崎沖を大回りで進もうとしたんだけど、計算ミス、判断ミスにより、後ろの咸臨丸が思いのほか内側を通ってしまい、岩に引っかかってしまったんですね。

それにより遅れが出て、徳川艦隊は嵐に遭うことになるのです。勝海舟が浦賀城内で願掛けで断食して、咸臨丸で揚々と太平洋へと漕ぎ出してからたったの数年後のこと。観音崎沖・浦賀沖にはそんなドラマもあったんですね。

いろんな時代を感じることができる浦賀城。ぜひ、行ってみてください。
そうだ!12月17日(日)にイベントで浦賀城に行きますよ!
近いうちにイベント情報をアップしまーす。

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コメント

開陽丸、北へ!いいですよね。脚色があるにせよ顔ぶれの性格の違いやら志し同じくしながらも新天地に賭ける様々な想いなど史実だけでは無いRevolutional且つ、錦の御旗に背を向けたジレンマやら大変面白い読み物ですね。
また咸臨丸の蒸気機関を老朽化で外したり浦賀沖の座礁の事など何かで抜けていたか、NHK大河などでも飛ばし観していたか忘れましたが、(民放の五稜郭ではシーンが無かった筈)随分と細かい所、有り難うございました。

投稿: 宇乃かつをくん!はーい! | 2017年11月25日 (土) 13時26分

宇乃かつをさま
こんにちは!先日は寺子屋ありがとうございました。開陽丸、北へを読んでから江差に行きたくてタマりません!いい小説でした。

投稿: 山城ガール | 2017年12月11日 (月) 13時42分

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投稿: プロのウブロ 時計 | 2019年4月21日 (日) 11時35分

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