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2018年5月 5日 (土)

「寺子屋スペシャル第二弾!多々良城を探せ!」の巻 

寺子屋スペシャル第2弾!!「多々良城を探せ!」を横須賀市浦賀のクールクランカフェにて開催しました。
前日から、春の大嵐!!
どんな天気でもやります!と、参加者の皆さんに無謀なメールをしました。そしたらなんと、欠席者なく、全員来てくれました~!嵐の中、ありがとうございます。みんなの想いが通じ、寺子屋が始まると青空が!昼過ぎには、カンカン照り~!!晴れ女も我ながらビックリするほどの晴天になりました。

今回の主役の多々良氏は三浦一族です。本拠地にしてたのが横須賀市鴨居の辺りというのは分かってますが、多々良氏館がどこにあったかが分かっていません。それを文献、伝承の手がかりや、地形などを見ながら推理していこうというのが今回の企画!

答えは出ないというか、正解はないので、それぞれが考えて楽しんでもらえばいいと思います。では、寺子屋スペシャルスタートです!!


まず、最初に「多々良」という言葉。
「タタラ」は、日本古来の製鉄法をさしたりしますが、元来、踏み鞴(ふいご)を指します。鞴は風を送る道具で、それを踏んでやるのが踏み鞴。 

最初は踏み鞴のことをタタラと言いましたが、だんだん製鉄自体、さらには鉄を製鉄する炉のこともタタラと言うようになりました。なので、蹈鞴、踏鞴、鑪、鈩…これら、ぜんぶタタラと読みます。

 

 

余談だけど、日本書紀には神武天皇の后で、媛蹈鞴五十鈴姫命という方がいます。この姫は出雲出身の姫。出雲と言えば、鉄の産地。こういうのも面白いですね。

 

「たたら」という言葉は渡来語です。朝鮮半島から製鉄の技術が入ってきて、言葉も入ってきたようです。

 

もとの由来は、ダッタン語の「タタトル」燃えさかる火、猛火って意味だとか、サンスクリット語で「タータラ」、熱という意味だったりとか言われてます。 

いずれにせよ、外来語で火とか熱とかを意味する言葉って感じですかね。

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寺子屋ではそんな話から、山城のお話を。平安末期から鎌倉時代にかけての館や城の話など。イメージ湧かないと探せませんからね。南北朝時代に城が爆発的に増える前の、館や城のイメージ、豪族の開発領主としての姿などもお話ししました。

横須賀市鴨居の多々良という地は、果たして製鉄と関係があるのか?
と、いうことで製鉄と関係ありそうな文書を簡単に内容紹介します。

真継家という公家の家に残る小田原北条氏からの手紙です。
この真継家は全国の鋳物師を管理支配する家だったようです。
内容は、伊豆韮山の斉藤三郎次郎っていう商人がそっちに商売に行くから、三浦郡鴨居の小松なにがしと、三浦郡津久井の須藤なにがしよろしく言っといて。っていうもの

北条氏が全国の鋳物師を管理支配する真継家に頼んでるんだから、鴨居の小松さんも、津久井の須藤さんも鋳物師と推測されます。斎藤三郎なんちゃらさんは、きっと、鋳物製品の商人で、その人が三浦に商売に行くから現地の鋳物師によろしく伝えてねっていう手紙と思われますね。ということは、鴨居に鋳物師がいたということになります。鋳物を作ってたんでしょうか。やはり、鴨居多々良は、鍛冶とか製鉄とかやってた場所なんでしょうか?

さらに1589年、小田原が秀吉に攻められる前年に、北条氏は20挺の大筒を相模国内の14人の鋳物師に大至急作れと命じたんですが、その中に、やっぱり三浦鴨居の小松なにがしという名前が出てきます。三浦半島を代表する鋳物師だったようです。多々良、鴨居に製鉄の施設があって、職人がいたんでしょうか。

 

  

ちなみに、同じ小田原攻めの時に逗子の沼間村(沼浜村)に出したお触書みたいなので、「町人、商人、細工人に至るまで、弓槍あるいは鉄砲などを用意し、命令によって戦うように」という文書。現に近くの神武寺が戦火で焼けてるから、あのあたりは合戦があったようです。

戦国時代に商人、職人に至るまで弓槍鉄砲を持って戦えっていっても、普通の商人や職人は鉄砲なんて持ってないので、やっぱり、逗子にも戦国時代にそういう鋳物職人がいたのかななんて思いました。

 

この逗子の沼間というのも、やっぱり鎌倉時代から鍛冶職人がいた土地。三浦氏の時代も、逗子の沼間に、刀や鎧をつくる鍛冶職人がいたようです。三浦義明の太刀をつくったのは沼間の鍛冶職人と言われてます。さらに当時、ここには頼朝のお父さん、義朝の館があったんですが、義朝の息子の義平の刀もここの職人が造ったと言われています。

 

 

まとめると、鍛冶とか鋳物とか特殊な職人がいる場所って、そんなに変わらないんじゃないかと。逗子沼間、横須賀鴨居もそういう職人たちが平安末期もしくはもっと前からいたのかも。これが鴨居の多々良と製鉄を連想させる材料。これくらいしかないけど、面白いですね。

 

ということで、横須賀のタタラという地名の由来は、やっぱり製鉄、鍛冶とかに関係がありそうだという私の推測です。

 

 

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そりゃそうでしょ、と思う所なんですが、私が気になったのは、千葉にあるタタラという地名。中世は、多々良荘なんて荘園もあって。今も富浦に多々良という地名が残ってます。横須賀の多々良から目と鼻の先。海を挟んで目の前です。多々良氏、三浦一族と関係してる思われます。長狭城で討ち死にした杉本義宗は、和田義盛のお父さんに当たりますが、この人は、今の金谷とか鋸山とかのあたりを領地にしてて、その中に多々良荘がある。なので、三浦一族の多々良氏と、房総の多々良は関係があるはずだと思ったわけです。

そうなると、どっちの多々良が名字の由来になったのかなーと思って。

 

例えば、朝比奈。横須賀横浜道路のインターの名前にも、切り通しの名前にもなってますが、和田義盛の息子の朝比奈義秀は千葉の館山の方の朝夷奈郡を領地としたから朝比奈を名乗りました。なので、朝比奈もとは千葉の地名なんです。さらに言うと、朝夷奈郡和田という地名で、和田っていう三浦一族縁の名前も向こうに残ってます。千葉には他に三浦氏がらみの地名がいくつも残ってます。

 

 

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さてさて、美味しいランチを食べたら、ミステリーツアーに出発です。
バッチも新色です。10個集めたら、スペシャルバッチをプレゼントしますので、頑張って集めてください。

多々良氏は現時点で全国で3000人くらいいるとのこと。へぇ。多いのか少ないのか、よく分からないけど…。

この多々良氏は、三浦一族の中で、鎌倉幕府の中でどんな存在だったんでしょうか。多々良氏の祖、多々良義春の「義」という字に注目。三浦氏は「義」という字を後三年の役で源義家から恩賞として授かりました。三浦義継から、宗家の通字となりました。
多々良義春は宗家ではありませんが、「義」の字をもらってるので、三浦氏の中でもが重んじられていたのでしょうか。

 

ちなみに、宗家の三浦義村を境に「義」の字がが付かなくなります。義村のあとは泰村に変わる。「泰」この字は、要はこれは執権北条泰時からもらった字。これによって、政治権力が源氏から執権北条に変わったことを暗示してますね。面白いですね。

あんまり多々良氏の記録は残ってないんだけど、平家物語によると、一の谷の合戦の佐原義連の鵯越の逆落としの場面に、多々良義春と多々良光義の名前が登場したり、年の頼朝の初上洛のときに、多々良明宗がお供として登場したりします。多々良氏は頼朝の信頼も厚かったようです。この明宗は優秀だったようで、和田義盛の子ども(胤長)と笠懸の射手を務めたりと、三浦氏という武芸の家に恥じない活躍を多々良氏もしてた。

 

 

他には多々良重春は小坪合戦で討ち死したとのこと。石橋山の合戦に間に合わず、衣笠城に引き返す途中で起きた小坪合戦で、重春と重春の郎党、石井三郎が討ち死を遂げました。重春のお墓は鎌倉材木座の来迎寺にあります。

 

 

ではでは、そろそろ謎を解く手掛かりを。
まず、多々良、鴨居のあたりは走水が近いので街道に近い重要な地というのもポイント。走水はヤマトタケルが房総半島に渡ったとされる場所。古東海道は走水から上総に続いてましたので、海上交通のルートに近かった多々良、鴨居の地は当時重要だったと思われますね。


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いくつかの手がかりマップ。あやしいエリアマップです。

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まずは西徳寺。
寺伝によると1560年に開かれたお寺。4つにお寺が合併して、西徳寺になったようです。そのせいか、それ以前にこの山が何だったのか全く分からず。
山頂には幕末に海防のために移住してきた会津藩士のお墓があり、裏山には弥生時代から古墳時代にかけての上ノ台遺跡があります。140棟の竪穴式住居が出ています。
さらに上ノ台遺跡裏側の能満寺の本尊は1399年の虚空蔵菩薩ということなので、鎌倉時代末期それ以前にも、このあたりには寺院などがあり、人も多く生活していたエリアだと思われます。

私の中でもかなりの有力候補地です。会津藩士の墓のある平場に上に、明らかに削平された平場があり、腰曲輪のような人工的な平場スペースもあるんです!!怪しい~。


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ここが会津藩士の墓の上の本曲輪っぽいところ。



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推定本曲輪から見下ろすと、とっても見にくいけど腰曲輪!結構広いんです。


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西徳寺には和田氏ゆかりの史跡があります。和田地蔵や和田義盛の剃刀塚など。
義盛の弟が現在の新潟県胎内市の奥山荘という荘園の地頭でした。その奥山荘の三浦和田家の家臣に多々良氏の名前が残っています。
多々良氏は和田氏とともに奥山荘に移ったようです。このことからも、和田氏と多々良氏は一族の中でも繋がりが強かったことが分かりますので、多々良エリアに和田氏の史跡があるのも納得です。


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西徳寺の前には和田川。和田義盛がこの川に、先ほどの地蔵を流して戦いの吉凶を占ったと伝わっています。お寺の話では、お地蔵さまはそこまで古いものじゃないということですが…。

和田氏には名字の地とされる由来地が数か所あります。横浜の相鉄線の和田町の駅のあたりや、横浜市金沢区の六浦2丁目にも和田という場所があります。でもきっと由来となったのは、三浦市の和田だと思います。館跡などもありますし。
横浜市金沢区と言って思い出すのは、朝比奈切通し。和田義盛と朝比奈義秀は親子。さらに朝比奈切り通しを抜けると、鎌倉の杉本寺。あそこは和田義盛のお父さんの杉本義宗がいたとされる杉本城です。
と、なると…。
六浦の港からの鎌倉へのルートを和田一門が押さえてた!と、言えるのではないでしょうか。六浦の大道小学校のあたり和田の里というらしいですし。

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話は逸れましたが、これまた、あやしいスポットです。
西徳寺前にある真言宗醍醐派不動院。
なぜ怪しいかというと、「浦賀誌録」によると、「鳥が崎から浦賀へかけて大室という漁家の2.3軒ほどのところに不動堂があり、本尊は多々良の守護仏と伝え、背後の城山は多々良氏の柵(城)であった」とのこと!!
大室というのは西徳寺から、もっと浦賀城寄りです。そのあたりに不動堂があったとのことですが、見つからない。その不動堂の背後が多々良の柵とのことですが、その辺は小山がいくつかあるので、不動堂の場所が特定できないのでどっちが背後なのかわからない(泣


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で、とりあえず、私は近くのお不動様を探してみました。
すると、この不動院があったというわけです。
おばあちゃんが一人で住んでる不動院。話を聞いてみましたが、京都の醍醐寺にゆかりがあるお寺ということしかわかりませんでした。
中を見せていただくと、立派な玉眼の不動明王!!なんとも古そうにみえますが残念ながらよく分からない。また調べてみようと思います。

そんなこともあり、この西徳寺エリアも多々良氏館と城の候補の一つです。

このエリアには、頼朝の命で多々良義春が勧請した鴨居八幡神社などもあり、多々良氏の公式の施設があったんじゃないかなーなどとも思います。



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次に進み、通り道にある若松屋です。
護岸の石垣が当時の姿を彷彿とさせてくれます。会津藩の陣屋を世話してた豪農の高橋家は会津藩との縁から屋号を若松屋としました。その後、今の横須賀中央のあたりを買って埋め立て、若松町と名付けたんですね。



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腰越地区。このあたりには会津藩の陣屋や藩校がありました。
この案内板には、亀崎の山の麓に位置するからと書いてありますが、これまた怪しい~。城の腰じゃないの?この腰越はまたあとででてきますので覚えといてくださーい。

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腰越エリアにある会津藩士のお墓。鴨居と三崎に陣屋を建てたので、三崎と鴨居には会津藩のお墓がたくさんあります。
陣屋を建てるときに、このあたりから五輪や刀などが出てきたそうで、多々良氏の墓所ではないかとのことです。ちなみに、この辺の谷は「三昧堂(さめど)」と呼ばれ、念仏三昧や法華経三昧などから連想される名前のようで、墓所というのが確かにしっくりきます。


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ちょっと休憩してから、次は多々良という名の残る多々良浜から観音崎公園に向かいます。

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至る所に、切通し。陸軍が山全体を要塞化したので、名残りがたくさんあります。 横須賀出身でいながら、観音崎をじっくりしっかり見たの初めてかも。子どもの時は遊びに来たけど、ただの公園だとしか思ってなかったし。城塞、要塞という目では見てないので、下見の時に一人で回って、とっても面白かった。明治26年には15の砲台があったそう。関東大震災でほとんど崩壊しちゃたらしいけど。

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眼鏡橋から見下ろす切通し。陸軍が資材運搬用に切り通したってことなんだけど、尾根を切って遮断してるように見える。

一番細い尾根を切ってて、まさに堀切の役目をしてるように見えます。

 

 

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下から見るとこんな風に、堀切に木橋がかかってるように見える。ちょっと木が邪魔なんだけど。こんなところがあったとは知らなかった―!!

 

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砲台跡。この麓は三軒谷というエリア。「三浦古尋録」によると、三軒谷に多々良館跡ありと記述があります。そして、同村に石井塚というものがあり、小坪合戦で討ち死にした多々良氏の郎党、石井五郎の墓としています。
このあたりも候補地ですが、住宅街になっていてまったく面影がありません。


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砲台跡の地下にある観測室。

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砲台跡にある見張所にいく切通しの道。
だんだんと明治の軍施設めぐりみたいになってきた!

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観音崎公園の残る山道。大体が舗装されてるので珍しい。ところどころ、尾根を人工的に補足してるように見える箇所もある。




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またまた砲台跡。ラピュタみたい。

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まるで、タイムスリップしそうな切通しを抜て、観音崎公園から海辺へ向かう。


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観音崎には名前の由来になった観音寺がありました。奈良時代に行基の彫った十一面観音が御本尊でした。1880年に陸軍が山を要塞にするまではここにこんな立派なお寺がありました。お茶屋や料亭などもあったようです。


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行基が観音様を彫って納めたとされる洞窟。

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またワープしてしまいそうなトンネルを抜けて、多々良浜に戻る。

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そして、これ!下見をしてたら、私の中でかなり怪しく浮かび上がってきました!!ここは小さな岬、亀崎です。さっき、腰越がお城の腰なんじゃないの?と言った腰越がこの写真の左手に当たります。ね?怪しいでしょ?
このお城に見える山容!そして、腰越という地名。さらにさらに…

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この亀崎には観音寺があったんです。さっきの観音崎にあった観音寺は、軍にどけられて、ここの移設されました。1986年に火事で全焼、十一面観音も焼失…
いまは、こんなにこじんまりとしてしまってます。
ここに観音寺が移されたということは、もともと何かがあった?城跡かしら?なーんて考えてみたわけです。

多々良氏がいつまで、この本拠にいたのかはわかりませんが、他の土地で多々良氏は戦国時代もずっと続いていきます。前述の新潟県胎内市、奥山荘で三浦和田氏は戦国時代をも生き抜き、多々良氏もまたその家臣として、戦国時代を生き、血脈は続いていきました。

 

多々良氏の血脈は紀伊半島にも。
南北朝時代に南朝についた「紀伊の官軍多々良3家」と呼ばれた野上氏、ニエカワ氏、江川氏。この3家も多々良重範から続く多々良氏の家系です。


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今回のミステリーツアーもここが最終地点。
自分なりの多々良城は探せたでしょうか?
とりあえず、多数決を取ってみました。笑
和気あいあいと今回も楽しい旅になりました。
謎解き目線になると、またいつもと違う光景が浮かび上がってきますね。


また機会があったら、謎解きのツアーを考えたいと思います。
次回の寺子屋は5月25日(金)19時からです。

 

 

 

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