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2018年7月の2件の投稿

2018年7月13日 (金)

オトナの遠足「いざ!品川台場へ!」の巻

山城も草ボーボーのオフシーズンになってきました。
今回は、衝動的に恵比寿にあるヱビスビール工場の見学ツアーを予約してしまったので、オトナの遠足を企画して友人たちと出かけました。

9:00JR田町駅集合→レインボーブリッジを歩いて渡る→品川第三台場→潮風公園にて続100名城スタンプの押印→ゆりかもめで汐留駅→築地でランチ→佃島→メトロ月島駅から恵比寿にワープ→ヱビスビール工場見学&試飲♥→打ち上げ

という素敵なオトナのコースとなってます。
途中、史跡に立ち寄りながら街中を行軍しました。

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最初に見つけたのは、南極探検隊の石碑。
日本初の南極探検は明治43年、白瀬隊長以下27名によるものだったそうです。

芝浦港から出発して帰港したので、ここに石碑が建てられました。

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見渡すとペンギンさん!
本物かと思うくらい、よくできてました。

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これが南極探検隊の船!
…では、ない。

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これは砕氷艦しらせのスクリュープロペラです。
本物ですって。


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レインボーブリッジを見上げる。
遊歩道入口から入る。
遊歩道からの素晴らしい景色を写真に取り忘れるという大失態。

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レインボーブリッジのノースコースから、サウスコースに渡る途中の橋のお腹。


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橋の下からフジテレビが見える。

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やっとお目当ての第三台場が見えて大はしゃぎ!
レインボーブリッジから見る景色は格別!!

ペリーが来航した翌年の1853年に着工して、1年3ヶ月の間に6基が完成したとのこと。今は第三、第六台場しか残ってません。


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こちらは第六台場。立ち入りできません。

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レインボーブリッジを渡り終えて、第三台場に上陸。
広いですね。三度目ですが楽しいところ。景色もいいし、風も気持ちいいし、公園になってるのでのんびりできます。


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中央にある陣屋の跡。


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弾薬庫の跡。


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かまど跡。レプリカらしい。


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近づいてみるとこんな感じ。
この穴にお釜を置くのかしら?なんて思ったけど、ご飯の煮炊きようではなくて、発火する用の火種を燃やす竈とのこと。
ですよね~。


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大砲オブジェではしゃぐ大人たち。




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波止場から入った入口。
この辺に木戸が設けられてたらしい。


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第三台場から臨む第六台場。


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続100名城スタンプを押しに潮風公園に向かう途中で、水陸両用バスkABAを発見!
ちょうど海にザブンと行くところだった。結構楽しそう~。
それにしても、第三台場から、スタンプまで遠い!!!!
歩いて30分もかかりました。


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台場駅から、ゆりかもめに乗って、汐留に移動。築地に向かう途中にかわいい踏切を発見。


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築地へ続く電車の名残りらしい。


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ここが線路だった。
ここから美味しいお魚さんが各地に運ばれていったのかな。


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そして贅沢丼をどん!!
大トロとウニです♥
こんなに美味しいものは初めてです。4500円なり!奮発~。


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そして、別腹の鯛焼きならぬマグロ焼き。
皮がぱりぱりで美味しい~。



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場内行くと、吉野家第一号店。
へぇ、そうなんだ。


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そして、築地本願寺。
酒井抱一のお墓を発見!



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築地から、佃島渡船場跡に向かう途中に浅野内匠頭邸跡を発見。
浅野内匠頭が切腹したのは、田村右京太夫邸なので、ここではありませんね。田村右京太夫の上屋敷は、新橋にありました。新橋4丁目交差点の所に「浅野内匠頭終焉の地」という石碑があります。
ちなみにその近くには、新正堂という老舗の和菓子屋さんがあります。そこの名物は「切腹最中」です。ネーミングにびっくり。仕事でお詫びに行くサラリーマンに人気なんだとか。




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浅野内匠頭邸にある「芥川龍之介生誕の地」の案内板。
ここには耕牧舎という牧場があり、そこの経営者の息子として芥川龍之介は生まれたんですね。



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シーボルトの銅像。
ここが蘭学と関わりの強い場所とのことで、江戸における蘭学の発展に貢献したシーボルトの像が造られたとのこと。

このあたりには、「○○発祥の地」という案内板がたくさん。
「蘭学事始の地」…ここ明石町にあった中津藩奥平家の屋敷で、前野良沢たちが解体新書が完成させたから。

「慶應義塾大学発祥の地」…福沢諭吉が中津藩奥平家の屋敷で、慶應義塾の前身となる蘭学塾を開いたから。

「電信創業の地」…当地にあった運上所(今の東京税関)から横浜裁判所へ、日本初の公共電信が敷かれたから。

「指紋研究発祥の地」…イギリスの宣教師ヘンリー・フォールズが日本の拇印の習慣に注目して、指紋の研究を始めたから。

他にもいろいろ。明治学院大学、立教大学の発祥地でもあるようです。外国人居留地があったので、文明開花の中心地になったんでしょうね。


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今回のオトナの遠足の目的の一つでもあった塩瀬のお饅頭~!
日本三大饅頭とのこと。

・塩瀬総本家「志ほせまんじゅう」東京

・柏屋「薄皮まんじゅう」福島

・大手饅頭伊部屋「大手まんじゅう」岡山

だそうです。



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そして、橋を渡り佃島へ。
今は跡形もありませんが、ここにも砲台が設けられていました。当時の地図と照らし合わせるとなかなか面白いです。
佃島の砲台は品川台場の完成から10年後の1864年のこと。造られたのは、1863年の薩英戦争や下関砲撃事件がきっかけになったようです。



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佃島散策。
小さな路地がたくさん。この奥に地蔵尊があるようです。


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これが入口。
肝心のお地蔵さんを撮り忘れました…。
佃島はただ橋を渡ってきただけなのに、それだけなのに何だかトリップ気分を味わえました。小旅行したような感じ。住吉神社もあり、人足寄場跡なんかもあり、いい雰囲気でした。

佃島は摂津国の漁師さんたちが幕府の許可を得て、築いた漁村でした。
本能寺の変が起きたとき、家康が逃げる途中で困ったときに船を出して助けてくれたのが佃村(現大阪府西成区佃)の漁師だったといいます。その恩に感謝して、家康は江戸近海で特権的に漁ができるように取りはからったそう。そのときに埋め立てたのが今の佃島。住吉神社を分霊して、佃村の漁師たちは佃島に移り住んだそうです。



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そして、今回の最終目的地である恵比寿のヱビスビール工場へ。
試飲付の見学ツアーを予約してあったので、この楽しみを目標に炎天下の下、27kmほど、頑張って歩きました。
工場見学では終始、ヱビスビールの歴史のお話し。ホップがどうこうという話は一切なし。キリンとかサントリーに行くと、製造過程の話がほとんど。それだけに、ヱビスビールがいかに歴史があるかというのを感じました。

「ヱビスビールあります」
誰もが目にしたことのあるこのフレーズ。
キャッチコピーとして、秀逸。シンプルで小気味いい。
ヱビスビールが高級品として扱われ、主に贈答用のイメージが強く、庶民の日常のビールとして普及していなかった頃、それを逆手に他のビールと違う「ヱビスビールあります」と謳ったこのキャをッチコピー。
ヱビスビールを扱ってるお店は、料理にもこだわりを持ってるお店が多い傾向にあったので、店先に貼ったようです。このお店は料理もビールも美味しいよ、という意味を込めて。
そして、日常飲むビールとして「ヱビスビールあります(あなたのそばに)」と。
何十年経っても色あせないフレーズですね。

上の写真は恵比寿神社。
撮影者は、徳川慶喜公。
一日中、歩いて、美味しい物を食べて、飲んでと楽しいオトナの遠足でした。

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2018年7月 6日 (金)

「山城ガールむつみの寺子屋!」の巻 其の十一

5月25日(金)19時から、横須賀市浦賀駅から徒歩2分のクールクランカフェにて、山城ガールむつみの寺子屋11回目を開催しました。

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間違えて写真を消してしまい、寺子屋画像はこれ一枚しかない…。
写真はパラグアイの前原城です。

Photo
拡大するとこちら。
パラグアイにある三層四階の天守閣。城主”は広島県福山市出身の前原弘道さん。

前原さんは1958年、20歳の時に家族七人でパラグアイへ移住したそう。
今はパラグアイの養鶏王と呼ばれて、パラグアイ国内に流通する卵の七割を出荷する会社の社長とのこと。パラグアイの日本人会連合会の名誉会長もされてるそうです。

亡くなったお父さんが、望郷の念に駆られて、移住先のパラグアイに日本の城を建てるのが夢だったとのこと。その思いを引き継いでついに天守閣を完成させたのです。

千葉の館山城、愛媛の川之江城を参考にして設計したとのことで、1996年に着工。築城予定地に公園や道を造るところから始め、10年かけて完成。
熊本城、会津若松城などの復元を手掛けた職人を日本から呼んだり、何度も日本に来て打ち合わせしたり。瓦は750年の歴史と伝統をもつ、愛媛の菊間瓦を使用。伊予松山城や今治城とかに使われてる瓦だそうです。
日本から15000枚の瓦がコンテナで運ばれたとのこと。
天守閣はは日本人移民の資料館になっているようです。

パラグアイのお出かけの際はぜひ寄ってみてください(笑
総費用は1億円とのことです。

 

 

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続きまして、これはどこでしょうか?鳥居と国旗が見えますね~。

これは所変わって、ブラジルです。
ブラジルのアサイ市に2018年5月1日に完成した天守閣風の建物。
「旭城」と名づけられたこの建物は、4階建てで石垣も含めた高さは約25メートルという立派なもの。
ここアサイ市は日本人4大移住地の一つ。今でもたくさんの日系人が住むこの町に、市が移民100周年行事として計画し、日本円で約9000万円をかけ、完成しました。
非日系市長は大変な親日家で、日本人の功績を形として残すとともに、アサイ市のシンボルとして観光のためになればと話してました。
天守閣内には日本移民史料館などがあり、日本移民の歴史を発信する役割も担っているそうです。

アサイ市は1932年、ブラジル拓殖組合によって開拓され「旭移住地」と名づけられた。しかし、ブラジルが日本と国交を断絶した1942年以降、公の場での日本語使用が禁止になりました。地名としての日本語も許されず、「Asahi」を止め、微妙に変えてポ語に見えなくもない「アサイ(Assai)」に変更したのだそう。つまり今回の城の命名で、戦後73年にしてようやく本来の「アサヒ」に戻した形になるのです。

 

と、こんなちょっと面白い海外の天守閣のお話をしました。


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他にもいろいろと他愛のない話をしましたが、もう一つだけご紹介。
「ここがすごいぞ、三浦一族コーナー」の中から。

三浦一族は中世の早い段階から、そして江戸時代になっても伝承伝説で語り継がれていました。江戸時代には、色んな大名家が自分の家系を三浦氏に繋げるなど、英雄扱いされ、名族だと認識されていました。
いつもこんな話をしてますが、今回は九尾の妖狐のお話を。
南北朝時代の文献にすでに書かれて、伝説化されていたお話。

 

時は鳥羽院の世。
平安時代末期、1140年から1150年頃のお話です。
鳥羽院があるとき病に倒れました。陰陽師に占わせると、院の寵愛している玉藻の前という絶世の美女が、なんと九尾の狐の化身だったのです。
九尾の狐とは、古来、中国などで国を滅ぼすと言われている妖狐です。

これは大変!と、祈祷を行うと玉藻の前は正体を現し、九本の尾を揺らしながら天高く逃げていきました。

この妖狐を退治すべく命を受けたのが、我らが三浦大介義明と上総介広常でした。
逃げた先は下野国那須野。那須野へ駆けつけた義明は矢を放ち、見事、九尾の狐を退治しました。
那須野には今でも殺生石と呼ばれる石があり、ゴーゴーと有毒ガスを吐き出しています。それこそが、矢の刺さった九尾の狐が落ちたとされる場所であり、妖狐の怨念が今でも残っているのです。長きにわたり、近づく人を殺したと言われています。


今は観光地となってる那須野の殺生石。那須塩原温泉でも人気の観光地です。ここが塩原温泉の湯本。と、いうことは那須温泉をつくったのは三浦義明?!
なんとも面白い伝説ですね。

ちなみにこの話には、たくさんのパターンが生まれていますが、三浦一族、義明という存在が武家社会の中で伝説となるほどに高い地位を確立してた、そしていかに英雄的存在だったかということが分かって興味深いですね。


次回もこんな感じに色んな話をしていきたいと思います。

7月25日(金)19時
浦賀 クールクランカフェにて

よろしくお願いしまーす。

 

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