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2020年2月17日 (月)

武蔵国寺尾城

鶴見れきぶん祭2020が開催されました。
今回のメインになるお城は「寺尾城」!
史料の乏しく謎の多い城址です。分かってないからこそ、楽しい!
そんなワクワクする城です。
少ない情報を手に、実際に現地を歩いて自分なりに想像して考えるのが面白い城です。

午前は私が担当する寺尾城ウォーキングツアー、午後は鶴見サルビアホールにて、シンポジウムが開催されました。
寺尾城ツアーは40人で大盛り上がり!!

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まずは建功寺に集合!!
戦国期にこの地を治めた諏訪氏の菩提寺である建功寺を起点に、2時間ちょっとの冒険の旅のスタート!
初めてお会いする方もたくさん参加いただきましたが、終始わきあいあいと楽しい雰囲気で歩きました。


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40人の大所帯でスタート。

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当日はyouTVの取材カメラにも来ていただきました。

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まず、寺尾城を考える上で鍵になるのは「海」。水運です。

今の寺尾の場所は内陸のイメージがありますが、沿岸部が埋め立てられるまでは今よりずっと海が近くにありました。
かつては江戸湾と水路で繋がっていたと思われます。
水陸の要衝地である江戸、品川湊、神奈川湊に挟まれ、さらに南下すると本牧湊、六浦湊、三浦半島へと繋がります。

寺尾城の南西には入江が入り込み、江戸湾と寺尾を結ぶことができます。その入江の名残りが入江川です。


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下の地図で、赤く囲んである所が寺尾城の城山エリアです。
舌状台地の突端南側に位置し、最高所に寺尾城の石碑が建っています。
寺尾城に行ったときは、石碑だけ写真を撮って帰ってしまったらもったいない!
丁寧に歩くと、城の姿が浮かんできます。


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地図のピンクの線が入江川の流れです。江戸湾から入りこんでいた入江です。
湾から内陸へと入り、右手に折れた場所に寺尾城があります。城山の手前には二つの山が!
建功寺と松蔭寺です。まるで、海からのゲートのように感じます。

さらに進むと城山の南側にも山があります。これが白旗神社です。
この立地だけで、ここに城を築いた意図が分かります。

周囲の位置関係が分かった上で、早速ウォーキング開始です。
何度も下見した上で、一番、寺尾城を感じられるコースを作りました。
「寺尾城って何もないじゃん」なんて言わせません!笑

この記事を見て、行ってみようという方はぜひ同じコースで回ってください。
わざと遠回りしたり、上ったり下りたりすることによって、地形が感じられるようになってます。



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徳雄山瑞雲院建功寺。曹洞宗のお寺で、諏訪氏の菩提寺です。
瑞雲という院号は、北条早雲の「宗瑞」と「早雲」からつけられ、忠誠を誓ったと伝わります。
そこからさらに整備され、諏訪氏5代目の諏訪三河守右馬之助の武勇を偲ぶため、功績をもって建立した寺ということから「建功寺」とされました。山号の「徳雄」は、当初は武勇を讃える「徳勇」だったということです。


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山門から中に入ると、高低差があり、山だということが感じられます。
建功寺が建てられる前のこの地に何があったのかは分かっていません。さらに創建当時は別の場所にあったとも言います。
ますます、建功寺がここに建てられる前に、ここに何があったのかが気になります。

現在、本堂は改修工事中で入ることができません。

中世の寺尾城にタイムスリップする前に、まずは江戸時代の長屋門を見に行きましょう。

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ここには江戸時代の名主、澤野家の屋敷がありました。
いまは母屋などは残っておらず、公園になっています。


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1855年に建てられた長屋門。通称「馬場の赤門」
名字帯刀を許され、長屋門を赤く塗ることを許された家柄です。

門の前には旧道が通り、奥へ進むと「湾前」と呼ばれていた場所があります。地元の人は「わんめ」と呼んでいたそうです。2-30年前くらいでも、かなりの湿地帯で田舟に乗って、耕作を行ったと言うほど。
地名から、このあたりの中世の姿が浮かんできます。

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昭和32年の赤門の写真です。


次は建功寺の南側の山、松蔭寺へ向かいます。
建功寺と松蔭寺の二つの山に挟まれた谷には、いまでは「せせらぎ緑道」が流れています。
散歩にはもってこいの気持ちのいい小川が流れる散策路です。
これこそが、水運の名残りです。


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せせらぎ緑道と平行して旧道が通っています。
そして、その旧道に「ハネキ」という屋号を持つ旧家があります。
立て看板には、「船で荷を運んで、荷を下ろした、荷をはねた所だからハネキ」と書かれています。
他にも、水門を設けた所とか、橋をハネて敵を防いだ所などという伝承が残ります。
いずれにせよ、川を使った水運があったということになります。


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ハネキの看板を過ぎたら、一本目の路地を左に曲がります。
かなりの坂になっています。松蔭寺の建つ場所もかなりの山だということを体感できます。
坂を登り切ると、いい景色!!

ランドマークタワー、マリンタワーが目の前に見えます。

高い建物が建つ数十年前までは、房総半島が見えたと言います。
江戸湾を通じて、房総半島とも繋がる要衝地だと言うことが分かります。
沿岸部が埋め立てられる前は、かなりの近さで海が見えたことでしょう。



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仙鶴山松蔭寺。臨済宗建長寺派。
ここは金沢文庫にある建長寺正統庵領武蔵国鶴見寺尾郷絵図で有名。

建武元年1334年の絵図。荘園の境界などを画いたものと思われる絵図です。その絵図に「寺」と書かれてる寺が、この松蔭寺の前身に当たると言われてます。


境内には北条氏の家紋、三鱗の紋。
そして、本堂の横には里見義高の慈眼堂と言われるお堂があります。
元は近くの駒形神社にあったそうですが、神仏分離により、松蔭寺に移されたといいます。

里見義高は里見義頼の子として誕生。徳川秀忠から「忠」の字をもらって、忠重と名乗ったこともある人物。
慶長18年に職務怠慢を理由に改易され、浪人生活を送る。親戚などを頼って転々とし、その後仏門に入り、鶴見にて隠棲したといわれています。そのときに、病気に苦しむ民衆を救うために発願し、地元では慈眼堂にて今でも祀られてるそうです。

ただ、この件に関しては戦国期の里見義尭と混同する記載や本があるため、ちょっとよく分からないので今後引き続き調べてみます。



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松蔭寺から、城山の背後に建つ「ネギ坊主」が見えます。昭和12年に造られた配水塔です。
今は使われてませんが、「ネギ坊主」の愛称で、地元では親しまれています。どこから見ても目立つランドマークです。そのあたりに「馬場」という地名が残り、配水塔が建つ前から平場が広がっていたと推測できます。

城山の尾根の背後にあたるので、ネギ坊主を目印に歩くとすぐに城山の位置を見つけることができます。



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松蔭寺の麓は谷地形になっていて、寺と連携する施設が建っていたと考えられます。



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次は白旗神社の山に向かいますが、バス通りに出て、東高校をチラッと眺めます。
ここが城山の東側の突端部分に当たります。この高低差からここも城山の一部であったことが分かります。



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白旗神社が建つ山は、山全体が公園になっています。
平場がたくさんあります。ひな壇状の平場が並びます。一つ一つが広いです。


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どう見ても城と連携してるように見えます。
城の南側の防御、そして駐屯地のように思います。



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白旗神社から城山を臨む。
正面の山の白い家が見えるあたりが、城山の最高所に当たります。
位置的には正面でバッチリ。



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白旗神社。
珍しくも、祭神が足利尊氏です。
鎌倉幕府滅亡後、北条高行の遺児である北条時行を奉じて旧幕府勢力が起こした中先代の乱。そのときに諏訪氏は旧幕府勢力の中心人物として、足利政権に対して反旗を翻しました。

そして、諏訪氏は敗北。自害します。そのとき、三浦氏も旧幕府勢力の中心にいました。

 

そんな背景がもしかしたら祭神に足利尊氏を祀っていることと関係があるのかもしれません。まさに忖度?!

 

その辺も寺尾城の謎を解くための鍵になりそう!
面白いです。


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城山を囲む三つの山を歩き終わったので、ここからやっと城山に向かいます。
正面に城山が見えてきました。
「城が浮かび上がってきました?」の問いかけに、

「城が見えてきた!」と嬉しいリアクション。

そうなんです。じっくり歩いていくと、だんだんイメージが湧いてくるんです。
 

 

このあたりは「鍛冶屋敷」と呼ばれているエリア。
白旗神社の山の麓にログハウスがありますが、その北に小池があって、鍛冶の時にその水を使っていたと伝わります。

その職人が住んでたのが鍛冶屋敷と呼ばれるこのエリアです。鉄屑が出てるそうです。

刀、馬具なんかをつくってたといい、屋号が鍛冶屋敷という旧家が今も残ります。

 

 


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城山の麓に建つオレンジ色の屋根のマンション。
実はその敷地内に土塁として保存されている区画があります。
上の写真がその土塁の写真です。
戦国期の土塁だと思われますが、立ち入り禁止のため、今回のツアーでは入ることができませんでした。
城山の下の屋敷の土塁かなぁという感じ。


 

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やっと到着しました殿山公園です。
発掘調査が行われ、公園として整備されています。
土塁と空堀、そして瀬戸焼の壺、古銭が出土しています。1900枚強。
出土は唐の開元通宝、北宋、南宋、明の宣徳通宝となり、15世紀以降ということ。

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この城山は舌状台地の突端にあり、三方を低湿地に囲まれる立地です。
堀の角度は50-70度、地表面から底までが3m、上幅が5m、底幅が1m。
竪堀のように下に向かって掘られており、両側に土塁が盛られています。
堀の左右に曲輪が配置されてたんでしょうか?ちょっと珍しい縄張です。

堀は宝永の火山灰が上の方にあったので、1707年にはかなり埋まってたことが分かるとのこと。この調査によって、この場所に城があったと考古学的に裏付けられたわけです。

 

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ほんのり土塁が見て取れます。


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ほんのり空堀が見て取れます。


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…わかりにくい!笑


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柵が邪魔です~…

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堀を追いかけていくと、徐々に山頂へと道が延びます。
そして、住宅街の頂上にヒッソリと寺尾城址の石碑が建っています。
このあたりが本曲輪と伝わりますが、完全に崩されてしまい、いまは石碑だけです。
ただ、南側を見ると目の前に先ほどの白旗神社が見えます。
ますます白旗神社の山が城山と連携していただろうとの推測が強まります。



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石碑から一段下りると馬場稲荷。諏訪氏の当主がここにお参りをして、馬上手になることを祈ったと伝わります。
江戸時代は観光の名所になりました。


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寺尾城址の石碑が建つあたりが、本曲輪、ようは城の一番大事な場所と私が確信した景色がコレ。
富士山と大山が見えます。重なって見えるのです。
必ず、城には聖地のような信仰の対象があるはずです。

この景色が見えるのは、このあたりではココだけ。まさに信仰の対象を目の前に拝むことができる一番大切な場所。それが今でも本曲輪と伝わる場所と一致しています。

やっぱりココなんだなと、感動を覚える景色でした。


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さて、2時間半くらいかけてじっくりと城山周辺を回りました。
最後は殿山バス停付近の坂の途中にある寺尾城の看板前で解散となります。
上の写真はその看板の場所から、道を渡ったところから撮ったのものです。
このあたりは、大山街道が通り、さらに城山のある舌状台地の基部に当たる所。一番、尾根が狭くなっている場所です。
この辺に尾根を分断する堀切が入ってたようです。はっきりとは分かりませんが、家々が建つ高低差になんとなく、そういう雰囲気を見て取ることができます。



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今回のツアーでは時間がなくて寄れませんでしたが、これまた謎解きの鍵になりそうなお寺を紹介します。

殿山公園の東、歩いて3分にある愛宕山宝蔵院延命寺。
鎌倉時代以前の創建かと思われるこの地域で一番古そうな寺。
なんとここから承元4年(1210)の板碑が出土しています!!すごい!

と、いうことはここのその時代に鎌倉幕府ゆかりの誰かがいたということ。これが寺尾の消えてしまった歴史を考える上でとても重要になりそう!


宝蔵院の裏山には愛宕社があったそう。

愛宕社があった愛宕山も城と連携する出城だったと、地元では言い伝えられています。

この寺の過去帳には永享7年(1435)に亡くなった住職の記録があって、それがこの寺最古の記録です。

でも、板碑があることからもっと遡って、鎌倉時代からの古刹かと推測してよさそう。

諏訪氏がそこに繋がるのか、はたまた全く関係ない一族なのか。

 


最後にまとめると、寺尾は面白いということ。

神奈川や埼玉、川越の他の寺尾という地名。これを調べると、諏訪氏が絡んできます。寺尾という地名同士の繋がりはいかに?

白旗神社の祭神が尊氏という理由はいかに?
鎌倉時代の板碑は誰に関連するのか?
諏訪坂にある諏訪氏の館跡と呼ばれる場所には誰がいた?城とどう連携してた?
さらにその近くにある秋田城介、安達義景の屋敷跡との関係は?
貝の介台と呼ばれる伝達役を想像させる地名との連携は?

などなど、色んな時代に渡り上書きされてきた土地ならではのモヤモヤ感がタマりません。
 
寺尾城は史料は少ないですが、承元4年の板碑からも推測できるように、鎌倉時代から鎌倉幕府の御家人が領地とし、少なくとも永享年間には諏訪氏が寺尾に入り関東動乱を生き抜き、そして小田原北条氏の家臣となり、菩提寺を建て、当地を治めました。
江戸時代に入ると、幕府の直轄地となり、代官が置かれました。

寺尾という地は水運が鍵となり、いつの時代においても重要な地となったと思われます。 

 

寺尾城は1570年前後に使われなくなったと言われてて、戦いで落ちたのか、必要なくなったのかなどよく分かっていません。
1569年の武田信玄の小田原攻めで、攻められたとも、必要なくなり廃城になったとも言われてます。
1575年に廃城になったとの説もあります。

そんなふうに歴史が上書きされる中で、色んな時代の痕跡が寺尾には残っています。
土塁だ、堀だという単に城の遺構だけではなく、
寺尾という地、全体で捉えて全体で見ることによって寺尾城という城が浮き上がってくるのではないでしょうか。

寺尾全体にかなり広範囲に配置して、拠点として作り込んでる印象を持ちました。
頼朝が上洛い同行した武士の中に寺尾氏の名も見えますし、畠山重忠の乱の時に参戦した鶴見氏の主人は安達氏…。諏訪坂の近くに安達氏の屋敷があるので、この辺も繋がりそうです。
承久の乱の時の幕府側の負傷者の中に、寺尾氏、鶴見の沿岸部に屋敷があった潮田氏の名前も見えます。
鎌倉幕府4代将軍頼経が安達の鶴見屋敷に宿泊し、鶴見神社に立ち寄っています。
あげるとキリがないくらい、鶴見、寺尾は重要な場所として歴史に登場します。鶴見合戦という大きな戦いもすぐ近くの鶴見川で起きています。

調べれば調べるほど面白い寺尾城。ぜひ、行ってみて自分なりに思いを馳せてみてください。


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萩原さちこさんと、いなもとかおり(ちょめ)さん。


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下見で、さちこさんとドローン撮影。楽しかった!!


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打ち上げでお城ジオラマ復元堂/城ラマの二宮博志さん、写真家の畠中和久さん、小田原城館長の諏訪間順さん、いなもとかおり(ちょめ)さんと。



参加者の方、登壇者の方、スタッフの方、関係者の皆様、お疲れ様でした。
引き続き、寺尾について調べていきたいと思います。
寺尾という場所は歴史的にとっても面白い!!!





 

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