武蔵蒔田城と平子氏&石川氏エリアを探検!!の巻
いざ、平子氏ゆかりのエリアへ!を開催しました。
楽しいコースでしたので、追加募集です。
4月12日(日)
チラシをご覧ください。
コースの記事も載せておきます。
読んでから歩いても、歩いてから読んでも楽しめる内容になってるはずです。
今回のテーマは「海」!
江戸時代初期に行われた吉田新田の開発まで、蒔田には入江が入り込んでいました。
桜木町とフランス山を両端の河口として、上のプリント②の弘明寺の手前まで入江となっていました。
海を意識すると、弘明寺があそこにある理由が分かりますね。入江の突き当たりに当たり、水路でやってきた修験者は、弘明寺の山を目印にしてやってきたことでしょう。
③にはかつて真言宗寺院の増徳院がありました。
明治になったから⑭に移されていますが、かつては海の守りのために蒔田湾の入口に置かれていたと考えられます。
この寺は戦国期にも後北条氏に厚く保護されてました。
⑦は蒔田城にあたり、やはり蒔田湾を意識すると、なぜここに城が置かれたかが分かりますね。入江を見下ろす位置に築かれました。そして、対岸の④の水天宮のあたりと水路の渡しで結ばれていたそうです。
⑥には太田道灌が陣屋を構えたと言います。三浦道寸の娘と道灌の息子資康は婚姻関係にあったので、道灌と三浦氏は同じ扇谷上杉氏の家臣として、縁深い関係でした。道灌が三浦半島と江戸城の間に当たるこの地に陣屋を構えたのも頷けます。
そして、この陣屋から尾根道を越えると保土ヶ谷駅方面へ抜けられ、東海道に繋がります。
⑤は北条政子が立ち寄ったと言われる井戸で、その真偽のほどは分かりませんが、そんな伝説があるということは近くに鎌倉みちが通っていたと推測でき、このエリアと陸路、そして水路のルートが浮かび上がります。
⑫から蒔田湾方面を望む。弘明寺の山と蒔田城がこんもりと見えます。
右手には蒔田湾の河口、桜木町やランドマーク方面が見えます。
江戸湾沿岸には、南に三浦半島、六浦湊、本牧湊、神奈川湊、品川湊、江戸城と最重要の水運ルートが繋がります。
そのような要衝の地に平子氏が領地を持っていたのです。
磯子駅近くの国道16号からの眺め。
断崖が聳え、かつては海だったことが偲ばれます。昭和20年代までは、道は砂混じりで、貝殻も転がっていたそうです。
磯子森浅間神社より東京湾を望む。
今は埋め立てられて海岸線が遠くなってしまっていますが、それまではすぐ近くに海が来ていて、対岸の房総半島も間近に見えていました。戦国期には里見氏への備えとして、屏風浦駅の近くに間宮氏の屋敷が構えられていました。
頼朝がこのあたりの海岸線を見て、屏風のように美しいと言ったから屏風ヶ浦という地名になったと言われますが、このあたりは鎌倉からもアクセスのいい場所でした。そんな磯子や蒔田、本牧を領地としていた平子氏は頼朝の上洛には随伴するなど度々、吾妻鏡にも登場します。
平子氏の系図は諸々ありますが、早い段階で三浦一族の本家から分家して、久良岐郡禅馬郷を領地としたとされます。
そして、さらに分家して一族は石川氏を名乗りました。
平子氏は南側の江戸湾沿岸部、石川氏は南側の蒔田湾側にそれぞれ領地を持ったと考えられます。駅の名前にもなっている石川氏、JR石川町駅は三浦氏ゆかりの名前ということになります。
平子氏は眞照寺を、石川氏は宝生寺をそれぞれ菩提寺としました。
眞照寺の毘沙門天。
眞照寺は平子氏の菩提寺で、平子有長がつくらせたと伝わる毘沙門天が残っています。
ずんぐりむっくりした像は、曽我兄弟が仇討ちの際に、頼朝の陣屋に襲いかかった曽我祐成と切り合い、大けがをした平子有長の肖像と伝わります。
眞照寺には平子氏の屋敷が隣接していたようで、さらに腰越山と呼ばれる山に詰城があったと伝わります。
磯子旧道沿いには下屋敷も置かれていたといいます。
石川氏の菩提寺である宝生寺。
宝生寺には最古の「横浜」という地名が出てくる史料が残っています。(1442年)
さらにここには太田道灌の礼状も!
道灌が小机城を攻める際の祈祷を宝生寺に頼み、その祈祷をしてもらったことに対して出した礼状だといいます。
ご本尊の大日如来は鎌倉の太楽寺、覚園寺と渡り、のちに宝生寺に安置されたとのこと。鎌倉太楽寺は「たいらく」の字の通り、平子氏のゆかりの寺です。その縁で、大日如来が宝生寺に置かれることになったと思われます。
鎌倉時代に三浦氏が滅びた後も、戦国期に再び三浦氏が滅びた後も数百年にわたり、この地に根を張った平子一族ですが、戦国期になるとこの地域の史料から姿を消します。
平子氏がいなくなった理由は、後北条氏が相模武蔵の国に進出してきたことと思われます。
ただ、宝生寺の周辺には「石川」さんのお家がたくさん!!
お墓にも三浦氏の家紋である三つ引両の石川さん!!
今でも子孫の方が住んでるんですね!!
石川氏は江戸時代に入ると名主となり、ペリーが来たときは食事などを用意する饗応係を任されました。
今でも元町に名主石川家の長屋門が残っています。
後北条氏は武蔵に侵攻すると、元から世田谷城にいた名門吉良氏を蒔田城に移しました。
それにより、平子氏は蒔田の地から出て行くことになったと思われます。
平子氏は鎌倉時代に越後山田荘と周防仁保荘の地頭に任ぜられてますので、この親戚を頼って移住していったと考えられています。
ちなみに相模武士の中で地頭職の下し状が残ってるのは、同じく三浦一族和田氏の越後奥山荘の地頭職と、この平子氏のみです。越後に行った平子氏と和田氏が残した史料のおかげで、研究が進みたくさんの事実が分かってきたのです。
越後和田氏と越後平子氏は最後は上杉謙信、景勝の配下に加わり、米沢に移り、明治の世を迎え現在に至ります。
周防平子氏は大内氏、毛利氏の家臣となり、やはり今に続きます。
三浦一族の壮大な歴史ストーリーですね。
蒔田城の尾根続きの高台。出城と伝わり、武田信玄が小田原に攻めかかった際には、ここに鉄砲隊を配備したとか。
浅間神社にかわいい板碑。
とってもいいコースでした。
4月12日に来れる方は連絡ください。
heart.blue.heart.blg@gmail.com
090-8517-4753