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2020年3月の5件の投稿

2020年3月29日 (日)

武蔵蒔田城と平子氏&石川氏エリアを探検!!の巻

いざ、平子氏ゆかりのエリアへ!を開催しました。
楽しいコースでしたので、追加募集です。

4月12日(日)
チラシをご覧ください。

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コースの記事も載せておきます。
読んでから歩いても、歩いてから読んでも楽しめる内容になってるはずです。

今回のテーマは「海」!
江戸時代初期に行われた吉田新田の開発まで、蒔田には入江が入り込んでいました。

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桜木町とフランス山を両端の河口として、上のプリント②の弘明寺の手前まで入江となっていました。
海を意識すると、弘明寺があそこにある理由が分かりますね。入江の突き当たりに当たり、水路でやってきた修験者は、弘明寺の山を目印にしてやってきたことでしょう。

③にはかつて真言宗寺院の増徳院がありました。
明治になったから⑭に移されていますが、かつては海の守りのために蒔田湾の入口に置かれていたと考えられます。
この寺は戦国期にも後北条氏に厚く保護されてました。


⑦は蒔田城にあたり、やはり蒔田湾を意識すると、なぜここに城が置かれたかが分かりますね。入江を見下ろす位置に築かれました。そして、対岸の④の水天宮のあたりと水路の渡しで結ばれていたそうです。

⑥には太田道灌が陣屋を構えたと言います。三浦道寸の娘と道灌の息子資康は婚姻関係にあったので、道灌と三浦氏は同じ扇谷上杉氏の家臣として、縁深い関係でした。道灌が三浦半島と江戸城の間に当たるこの地に陣屋を構えたのも頷けます。
そして、この陣屋から尾根道を越えると保土ヶ谷駅方面へ抜けられ、東海道に繋がります。

⑤は北条政子が立ち寄ったと言われる井戸で、その真偽のほどは分かりませんが、そんな伝説があるということは近くに鎌倉みちが通っていたと推測でき、このエリアと陸路、そして水路のルートが浮かび上がります。

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⑫から蒔田湾方面を望む。弘明寺の山と蒔田城がこんもりと見えます。
右手には蒔田湾の河口、桜木町やランドマーク方面が見えます。



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江戸湾沿岸には、南に三浦半島、六浦湊、本牧湊、神奈川湊、品川湊、江戸城と最重要の水運ルートが繋がります。
そのような要衝の地に平子氏が領地を持っていたのです。


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磯子駅近くの国道16号からの眺め。
断崖が聳え、かつては海だったことが偲ばれます。昭和20年代までは、道は砂混じりで、貝殻も転がっていたそうです。

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磯子森浅間神社より東京湾を望む。
今は埋め立てられて海岸線が遠くなってしまっていますが、それまではすぐ近くに海が来ていて、対岸の房総半島も間近に見えていました。戦国期には里見氏への備えとして、屏風浦駅の近くに間宮氏の屋敷が構えられていました。

頼朝がこのあたりの海岸線を見て、屏風のように美しいと言ったから屏風ヶ浦という地名になったと言われますが、このあたりは鎌倉からもアクセスのいい場所でした。そんな磯子や蒔田、本牧を領地としていた平子氏は頼朝の上洛には随伴するなど度々、吾妻鏡にも登場します。



平子氏の系図は諸々ありますが、早い段階で三浦一族の本家から分家して、久良岐郡禅馬郷を領地としたとされます。
そして、さらに分家して一族は石川氏を名乗りました。
平子氏は南側の江戸湾沿岸部、石川氏は南側の蒔田湾側にそれぞれ領地を持ったと考えられます。駅の名前にもなっている石川氏、JR石川町駅は三浦氏ゆかりの名前ということになります。

平子氏は眞照寺を、石川氏は宝生寺をそれぞれ菩提寺としました。

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眞照寺の毘沙門天。
眞照寺は平子氏の菩提寺で、平子有長がつくらせたと伝わる毘沙門天が残っています。
ずんぐりむっくりした像は、曽我兄弟が仇討ちの際に、頼朝の陣屋に襲いかかった曽我祐成と切り合い、大けがをした平子有長の肖像と伝わります。
眞照寺には平子氏の屋敷が隣接していたようで、さらに腰越山と呼ばれる山に詰城があったと伝わります。
磯子旧道沿いには下屋敷も置かれていたといいます。



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石川氏の菩提寺である宝生寺。
宝生寺には最古の「横浜」という地名が出てくる史料が残っています。(1442年)
さらにここには太田道灌の礼状も!
道灌が小机城を攻める際の祈祷を宝生寺に頼み、その祈祷をしてもらったことに対して出した礼状だといいます。

ご本尊の大日如来は鎌倉の太楽寺、覚園寺と渡り、のちに宝生寺に安置されたとのこと。鎌倉太楽寺は「たいらく」の字の通り、平子氏のゆかりの寺です。その縁で、大日如来が宝生寺に置かれることになったと思われます。


鎌倉時代に三浦氏が滅びた後も、戦国期に再び三浦氏が滅びた後も数百年にわたり、この地に根を張った平子一族ですが、戦国期になるとこの地域の史料から姿を消します。
平子氏がいなくなった理由は、後北条氏が相模武蔵の国に進出してきたことと思われます。



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ただ、宝生寺の周辺には「石川」さんのお家がたくさん!!
お墓にも三浦氏の家紋である三つ引両の石川さん!!
今でも子孫の方が住んでるんですね!!

石川氏は江戸時代に入ると名主となり、ペリーが来たときは食事などを用意する饗応係を任されました。
今でも元町に名主石川家の長屋門が残っています。



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後北条氏は武蔵に侵攻すると、元から世田谷城にいた名門吉良氏を蒔田城に移しました。
それにより、平子氏は蒔田の地から出て行くことになったと思われます。

平子氏は鎌倉時代に越後山田荘と周防仁保荘の地頭に任ぜられてますので、この親戚を頼って移住していったと考えられています。
ちなみに相模武士の中で地頭職の下し状が残ってるのは、同じく三浦一族和田氏の越後奥山荘の地頭職と、この平子氏のみです。越後に行った平子氏と和田氏が残した史料のおかげで、研究が進みたくさんの事実が分かってきたのです。

越後和田氏と越後平子氏は最後は上杉謙信、景勝の配下に加わり、米沢に移り、明治の世を迎え現在に至ります。
周防平子氏は大内氏、毛利氏の家臣となり、やはり今に続きます。
三浦一族の壮大な歴史ストーリーですね。




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蒔田城の尾根続きの高台。出城と伝わり、武田信玄が小田原に攻めかかった際には、ここに鉄砲隊を配備したとか。


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浅間神社にかわいい板碑。


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とってもいいコースでした。
4月12日に来れる方は連絡ください。


heart.blue.heart.blg@gmail.com

090-8517-4753

 

 

 

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2020年3月17日 (火)

いざ、洲崎合戦へ!を開催

2月は2日間連続で、鎌倉イベント開催しました。
今回のテーマは、鎌倉の内側の防衛線にあたる大仏、化粧坂、巨袋谷、佐助に繋がる尾根道の探索です。
外から攻め手が押し寄せた時、どういうふうに守るのか、そしてどういうルートで攻め入ってくるのか?
そんなことを考えながら探検しよう!と思って、今回はコースを作りました。

前回は藤沢遊行寺方面から洲崎古戦場までの鎌倉みちを探したのでその続きにもあたるコースでした。

新田義貞軍の進軍、さらには関東動乱期の上杉禅秀の乱などの戦いの経緯をお話ししながら、7時間くらいの楽しいウォーキング。

 

湘南モノレール西鎌倉駅をスタートして、まずは三浦党和田氏の所領である南深沢へ。
ここは和田義盛の弟の和田宗実が所領にもらったエリアです。
宗実はほかにも越後国奥山荘の地頭職にも任命され、戦国期を生き抜き、今に繋がっています。
越後では和田氏が分家し改名し、「中条氏、黒川氏、関沢氏」を名乗りました。そこに伝わる文書によって、南深沢の所領をもらった歴史がわかるのです。



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今の住所では「手広」と呼ばれる当たりは、かなりの丘陵地帯。
南側には相模湾からの川の流れが入り込み、「津」という地名が残ります。

三浦氏の屋敷「津村の屋敷」もこのあたりにあり、要衝地だったと推測できます。

和田姓が多く残るので、私は勝手に「和田の郷」と呼んでいます。
三つ引両の家紋や、和田の表札があると嬉しい!!


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切通し。
江戸時代以降でしょうか。
この上には明確な尾根道が残っています。

 


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やぐら。
中には和田さんの現代のお墓があります。
このやぐらの上の尾根が中世の道だったと推測します。



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そして、尾根越えの道の途中には鉄塔。怪しげな平場が広がります。

山の中に分け入ると、いろんな痕跡が残ってて楽しい!
新たな気づきもあり、ますます歴史が立体的に浮かび上がってくる感じがします

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手広には「鎖大師」と呼ばれる青蓮寺があり、真言宗の古刹として知られています。
この丘陵地帯を越えるにが大変なため、切通しが造られました。
江戸時代以降の切通しと思われる「谷戸坂の切通し」です。
中世段階では、この切通しと平行に伸びる尾根道が通行に使われていたと思います。


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和田の郷の一番突き当りには、このような景色!!
一番奥には怪しげな平場があるではないですか!
どうしてもそこに行きたいので、回り込んで行ってみます。


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すると、こんな感じ。
この写真の奥が、一枚上の撮影場所です。
屋敷があったとしか思えません。
和田氏の屋敷、そしてそのあとはここから鎌倉山に伸びる尾根を押さえていた人物の屋敷があったのでしょうか。

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鎌倉山を抜けて、鎌倉党の笛田梶原エリアへ。
鎌倉山ロータリーに建つこの石碑は関東大震災で倒れた鶴岡八幡宮の三の鳥居です。

 

 

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まずは笛田エリア。梶原景時の嫡男、景季ゆかりのエリアです。
ここにも怪しい場所がたくさん。三島大社に登ると…。

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ひな壇上の地形が確認できます。
ここは笛田公園のある山の一部です。
笛田公園自体が、ここから伸びる尾根の防衛戦だったと私は思っていますので、ますます怪しく感じます。

 

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笛田山仏行寺。
ここは梶原景季の片腕が埋められていると伝わる源太塚があるお寺。
景季の奥さんの信夫が、景季の死の知らせを受けて笛田公園で自害したとも伝わり、この寺は笛田公園の目の前に位置します。


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見事な庭園で、そこらに五輪塔や宝篋印塔などが残っています。



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境内には、たくさんのやぐら!
鎌倉時代から、御家人屋敷もしくは寺があったと思われ、梶原景季の伝承が真実味を帯びてきます。
目の前の笛田公園には、分け入ると…
なんと!!平場が山の中に残っていて、砦か何かあったと思われます。
鎌倉の内側の尾根道の対しての何かしらの防衛施設だと思います。


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休場山等覚寺。
梶原御霊神社も近くにあり、このあたりが梶原景時ゆかりの梶原エリアです。
もとは小学校の近くにあったとされますが、裏山一帯の山肌にたくさんのやぐらが残り、この一帯が鎌倉時代の有力者の領地だったと考えられます。
そして、寺の裏側に回ると、たくさんの五輪塔が。

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この近くで合戦があった証拠です。
新田軍の鎌倉攻め、関東動乱期のいろんな戦い、そして北条早雲(伊勢宗瑞)の相模攻めの際にこのあたりは合戦が起きていますので、それらの戦死者を供養するものだと思われます。

同じ梶原エリアの大慶寺の阿弥陀様は北条軍の戦火に焼かれました。


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同じく梶原エリアの駒形神社。
この裏山には、化粧坂に続くと思う尾根が伸びていて、幅が5mほどあります。
ここが洲崎で合戦が起きた理由であり、当時の道だと思います。
駒形神社の社が建つ平場に、この尾根道に対する防衛施設があったのではないでしょうか。


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大慶寺に残る宝塔。
左が鎌倉時代末期。右はそれより少し新しい感じ。

洲崎古戦場の脇には尾根の張り出しが少し残ってる箇所があります。
そして、その肌にはやぐら。上には平場。
ここが柏尾川を渡河してくる敵に対するゲートのような見張りがあった場所だと感じます。
ここを突破されると、先ほどの駒形山の尾根に繋がり、化粧坂まで一直線ですから。
かなり大事な防衛地点に当たり、そのため赤橋守時の決死の防衛戦の舞台になったと考えられます。


ここから徒歩10分ほどの柏尾川沿いの小山に天満宮があります。
天神山と呼ばれる山です。大きな平場がひな壇上に広がっているので、想像するのが楽しい山です。

今回は、このあと「せいしく橋」へ抜けて、北鎌倉に向かいました。
北鎌倉のあたりは、鎌倉の北の境。
四角四鏡祭の際は、儀式がこのあたりで行われ、一遍もここから鎌倉のなかへは進ませてもらえませんでした。
北畠顕家の進軍誘導ルートとされる山へも繋がるこのエリアはまた今度ツアーで探検してみたいと思います。

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まず今回はこのへんで。
天気にも恵まれ、楽しいイベントになりました。
ありがとうございました。

 

 

 

 

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2020年3月13日 (金)

告知「COTONOWA・4月からの新講座」

春からの新講座の受付が開始目前となりましたので、お知らせいたします。
春からは2枠の講座が決まりました。
チラシ添付しますので、ご覧ください。

 

 

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申し込みは京急百貨店COTONOWAネット予約、もしくは京急百貨店サービクカウンターにて!

春からも元気に楽しく歩きましょう!!

2020年3月14日AM10時から受け付け開始です

 

https://www.cotonowa.jp/cotonowa/asp-webapp/web/WKozaKensaku.do#program-list-table

 

 

 

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2020年3月11日 (水)

告知「激動の幕末!上野のお山、上野戦争の痕跡を探す」京急百貨店カルチャースクールCOTONOWA

緊急告知です。
急遽、上野の歴史ツアーが決まりましたのでお知らせします。

上野は「おやま」と言われるだけあり、断崖上の要害の地となってます。
幕末には上野戦争の舞台となりました。

そんな「おやま」の痕跡を探しながら、ブラブラ歩きます。
申し込みはCOTONOWAさんのホームページの予約サイトからお願いします。
キーワード検索がシステムエラーになってるようなので、キーワードのところに「08-18」という講座番号を入れると、予約ができるそうです。よろしくお願いしまーす。
もしくは上大岡京急百貨店のサービスカウンターでも申し込めます。

詳細はCOTONOWAまで。

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https://www.cotonowa.jp/cotonowa/asp-webapp/web/WWebTopicsShosaiHyoji.do?webTopicsId=2550

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2020年3月 8日 (日)

告知「いざ、蒔田城&平子氏の本拠地へ」の巻

 

3月のイベントのお知らせです。
屋外のウォーキングイベントなので、免疫力をつけるべく、楽しく元気に歩きましょう!!

日にち
2020年3月22日(日曜)
2020年3月28日(土曜)

集合時間
10時

集合場所
JR磯子駅

参加費
2000円

解散場所
京急黄金町駅


今回は蒔田城と平子エリアに出陣します。
江戸時代に吉田新田が開拓されるまで、このあたりには入り江が入り込み、蒔田湾が形成されていました。
まさに水運の要衝地だったのです。

鎌倉時代から、戦国時代にかけてこの地には三浦一族の平子氏と石川氏がいました。
そして、小田原北条氏が勢力を伸ばしてくると、平子氏は越後へ移り、蒔田城には吉良氏が入りました。

歴史満載のエリアを楽しく歩きましょうー!!

詳しくはチラシをご覧ください。

参加連絡お待ちしてます。お気軽にメールください。


heart.blue.heart.blg@gmail.com

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