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2020年3月17日 (火)

いざ、洲崎合戦へ!を開催

2月は2日間連続で、鎌倉イベント開催しました。
今回のテーマは、鎌倉の内側の防衛線にあたる大仏、化粧坂、巨袋谷、佐助に繋がる尾根道の探索です。
外から攻め手が押し寄せた時、どういうふうに守るのか、そしてどういうルートで攻め入ってくるのか?
そんなことを考えながら探検しよう!と思って、今回はコースを作りました。

前回は藤沢遊行寺方面から洲崎古戦場までの鎌倉みちを探したのでその続きにもあたるコースでした。

新田義貞軍の進軍、さらには関東動乱期の上杉禅秀の乱などの戦いの経緯をお話ししながら、7時間くらいの楽しいウォーキング。

 

湘南モノレール西鎌倉駅をスタートして、まずは三浦党和田氏の所領である南深沢へ。
ここは和田義盛の弟の和田宗実が所領にもらったエリアです。
宗実はほかにも越後国奥山荘の地頭職にも任命され、戦国期を生き抜き、今に繋がっています。
越後では和田氏が分家し改名し、「中条氏、黒川氏、関沢氏」を名乗りました。そこに伝わる文書によって、南深沢の所領をもらった歴史がわかるのです。



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今の住所では「手広」と呼ばれる当たりは、かなりの丘陵地帯。
南側には相模湾からの川の流れが入り込み、「津」という地名が残ります。

三浦氏の屋敷「津村の屋敷」もこのあたりにあり、要衝地だったと推測できます。

和田姓が多く残るので、私は勝手に「和田の郷」と呼んでいます。
三つ引両の家紋や、和田の表札があると嬉しい!!


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切通し。
江戸時代以降でしょうか。
この上には明確な尾根道が残っています。

 


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やぐら。
中には和田さんの現代のお墓があります。
このやぐらの上の尾根が中世の道だったと推測します。



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そして、尾根越えの道の途中には鉄塔。怪しげな平場が広がります。

山の中に分け入ると、いろんな痕跡が残ってて楽しい!
新たな気づきもあり、ますます歴史が立体的に浮かび上がってくる感じがします

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手広には「鎖大師」と呼ばれる青蓮寺があり、真言宗の古刹として知られています。
この丘陵地帯を越えるにが大変なため、切通しが造られました。
江戸時代以降の切通しと思われる「谷戸坂の切通し」です。
中世段階では、この切通しと平行に伸びる尾根道が通行に使われていたと思います。


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和田の郷の一番突き当りには、このような景色!!
一番奥には怪しげな平場があるではないですか!
どうしてもそこに行きたいので、回り込んで行ってみます。


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すると、こんな感じ。
この写真の奥が、一枚上の撮影場所です。
屋敷があったとしか思えません。
和田氏の屋敷、そしてそのあとはここから鎌倉山に伸びる尾根を押さえていた人物の屋敷があったのでしょうか。

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鎌倉山を抜けて、鎌倉党の笛田梶原エリアへ。
鎌倉山ロータリーに建つこの石碑は関東大震災で倒れた鶴岡八幡宮の三の鳥居です。

 

 

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まずは笛田エリア。梶原景時の嫡男、景季ゆかりのエリアです。
ここにも怪しい場所がたくさん。三島大社に登ると…。

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ひな壇上の地形が確認できます。
ここは笛田公園のある山の一部です。
笛田公園自体が、ここから伸びる尾根の防衛戦だったと私は思っていますので、ますます怪しく感じます。

 

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笛田山仏行寺。
ここは梶原景季の片腕が埋められていると伝わる源太塚があるお寺。
景季の奥さんの信夫が、景季の死の知らせを受けて笛田公園で自害したとも伝わり、この寺は笛田公園の目の前に位置します。


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見事な庭園で、そこらに五輪塔や宝篋印塔などが残っています。



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境内には、たくさんのやぐら!
鎌倉時代から、御家人屋敷もしくは寺があったと思われ、梶原景季の伝承が真実味を帯びてきます。
目の前の笛田公園には、分け入ると…
なんと!!平場が山の中に残っていて、砦か何かあったと思われます。
鎌倉の内側の尾根道の対しての何かしらの防衛施設だと思います。


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休場山等覚寺。
梶原御霊神社も近くにあり、このあたりが梶原景時ゆかりの梶原エリアです。
もとは小学校の近くにあったとされますが、裏山一帯の山肌にたくさんのやぐらが残り、この一帯が鎌倉時代の有力者の領地だったと考えられます。
そして、寺の裏側に回ると、たくさんの五輪塔が。

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この近くで合戦があった証拠です。
新田軍の鎌倉攻め、関東動乱期のいろんな戦い、そして北条早雲(伊勢宗瑞)の相模攻めの際にこのあたりは合戦が起きていますので、それらの戦死者を供養するものだと思われます。

同じ梶原エリアの大慶寺の阿弥陀様は北条軍の戦火に焼かれました。


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同じく梶原エリアの駒形神社。
この裏山には、化粧坂に続くと思う尾根が伸びていて、幅が5mほどあります。
ここが洲崎で合戦が起きた理由であり、当時の道だと思います。
駒形神社の社が建つ平場に、この尾根道に対する防衛施設があったのではないでしょうか。


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大慶寺に残る宝塔。
左が鎌倉時代末期。右はそれより少し新しい感じ。

洲崎古戦場の脇には尾根の張り出しが少し残ってる箇所があります。
そして、その肌にはやぐら。上には平場。
ここが柏尾川を渡河してくる敵に対するゲートのような見張りがあった場所だと感じます。
ここを突破されると、先ほどの駒形山の尾根に繋がり、化粧坂まで一直線ですから。
かなり大事な防衛地点に当たり、そのため赤橋守時の決死の防衛戦の舞台になったと考えられます。


ここから徒歩10分ほどの柏尾川沿いの小山に天満宮があります。
天神山と呼ばれる山です。大きな平場がひな壇上に広がっているので、想像するのが楽しい山です。

今回は、このあと「せいしく橋」へ抜けて、北鎌倉に向かいました。
北鎌倉のあたりは、鎌倉の北の境。
四角四鏡祭の際は、儀式がこのあたりで行われ、一遍もここから鎌倉のなかへは進ませてもらえませんでした。
北畠顕家の進軍誘導ルートとされる山へも繋がるこのエリアはまた今度ツアーで探検してみたいと思います。

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まず今回はこのへんで。
天気にも恵まれ、楽しいイベントになりました。
ありがとうございました。

 

 

 

 

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