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2021年5月28日 (金)

今月の発行御城印のお知らせ

今月は5月29日(土)に新しい御城印が6コ発行されます✨
全部、説明文とデザインをやらせていただきました。

南房総市から4つ!!
石堂城、丸城、平松城、里見番所!

三浦一族から1つ!
津久井館!

多古から1つ!
土やぐら城!

今回もバラエティに富んだお城がラインナップ!
全部、歴×トキにて通販でも取り扱いいたします。

津久井館

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津久井館は三浦一族津久井氏の居館跡と伝わります。津久井は南側が海に面し、北側の山稜に向かって谷戸が形成されています。衣笠城で討ち死にを遂げた伝説の棟梁三浦大介義明の弟義行が津久井の地をもらい、「津久井」を名乗ったのが始まりとされています。

源頼朝が打倒平家のために挙兵すると、津久井氏も他の三浦一族とともに頼朝方として戦いました。その後、鎌倉に入った頼朝が上洛する際に供奉した武士の中に津久井氏の名が見え、その活躍をうかがい知ることができます。

義行、高行、義通、高重と4代にわたり、この地を領しましたが、承久3年(1221年)に起きた承久の乱では朝廷側につき、高重をはじめとする津久井一族は討たれました。これにより、この津久井の地から津久井氏は姿を消しましたが、群馬県や山梨県にその残党が逃げ落ち土着したという伝承が現地に伝わっています。

津久井氏の館があったとされる場所は、「峯屋敷」と呼ばれていて、東光寺西南の高台がそれにあたります。江戸時代に書かれた『新編相模国風土記稿』には、峯屋敷の周りには堀跡が残っていたとも記されていますが、宅地化された今となっては当時の姿を知る由もありません。

しかしながら、谷戸の最奥部にある真言宗七宝山医王院東光寺が津久井氏の歴史を今に伝えてくれます。東光寺は津久井氏の菩提寺です。寺伝によれば、奈良時代に行基が創建したといい、その後、荒廃した東光寺を津久井義行が中興し祈願所にしました。境内には、津久井一族の五輪塔が残り、津久井氏がこの地にいた当時を偲ぶことができます。

後鳥羽上皇は内裏を警備させるために、武士の中から精鋭を選び、「西面の武士」を置きました。その中に選ばれたのが、津久井高重です。御城印には西面の武士にも選ばれた津久井高重の武勇を表現すべく、馬上で弓を射る武者を描きました。

そして、三浦一族の家紋「三つ引両」を配置するとともに、津久井の北側にそびえる武山や美しい海岸線をモチーフにしました。津久井氏が祈願所とした東光寺薬師如来の光をイメージし、薬師如来の光の色である瑠璃色の雲をデザインしました。

販売場所
東光寺
神奈川県横須賀市津久井5-8-3

046-848-4512

午前9:30~16:30

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東光寺の田村ご住職と✨



石堂城
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石堂城は天台宗寺院である石堂寺の背後の山に築かれました。石堂寺は寺伝によれば、神亀3年(726年)創建といい、行基の開山と伝わります。その後、火災で焼失したため、大永2年(1522年)に丸氏の援助で現在の地に再建されたといいます。その際に、丸山平野から奥に入った谷の山嶺上という城郭要素を併せ持った地に、寺と一体を成すように石堂城が築かれたと思われます。

石堂寺の本堂を取り囲む尾根上には、堀切や土橋などの城郭遺構が残り、平場や櫓台のような痕跡も見て取れます。丸氏の居城である丸城が指呼の距離にあることからも、丸氏やその主筋である里見氏の城として機能していたと考えられます。

戦国末期には足利頼氏が石堂寺で養育されました。小弓公方足利義明の孫にあたる頼氏は、足利の命脈を繋ぎ、喜連川藩祖となった人物です。足利氏が没落した後、豊臣秀吉が名門足利氏の功績を偲び喜連川(栃木県さくら市)の地を与えたことから、「喜連川」を名乗りました。足利の血を引き継ぐ頼氏が入った寺であることからも、石堂寺、そして石堂城の重要性が浮かび上がります。

石堂寺の多宝塔(国指定重要文化財)は天文14年(1545年)に丸常綱を大旦那として、丸一族を中心に建立されました。丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心であり、その寺を取り込んだ石堂城を築いた際も丸氏が深く関わっていたと推察されます。御城印には丸氏の家紋をデザインし、戦国期に丸氏が属した里見氏の家紋もあわせてデザインしました。

奈良時代からの古刹石堂寺を取り込み築かれた石堂城の険峻な山容をイメージして、御城印に描きました。




丸城
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丸城は天台宗安楽寺背後の丘陵に築かれました。南北に延びる山塊一帯が城跡とされています。山頂からは周辺の平野部を見渡すことができ、北東方面に位置する古刹石堂寺へと続く街道を臨むことができます。

築城年や築城主などの詳細は不明ながらも、平安時代からの豪族、丸氏の居城とされています。平安時代から室町時代にかけて丸氏の拠点がどこであったかは不明ですが、室町時代のどこかの段階で、安房東部の領主としてこの地に城を築いたものと思われます。少なくとも、15世紀にはこの丸城を居城として、一帯を本拠地としていたと考えられます。その後、丸氏は丸城を中心として、丸山川流域に一族が分布していきました。

戦国時代になると、丸氏は里見氏に属しますが、丸城がいつまで使われていたかは定かではありません。城山社のある山頂部が主郭だったと思われ、この主郭が物見台の役目を担い、街道や平野部を監視していたと考えられます。

丸城が築かれた一帯は、源頼義が前九年の役の功により、朝廷から恩賞として与えられた源氏ゆかりの地です。平治元年(1159年)に、源義朝が子の頼朝の昇進を願い、伊勢神宮にこの地を寄進したため、「丸御厨」という伊勢神宮の荘園が成立しました。これにより頼朝は蔵人に補任され、頼朝にとってもゆかりの深い場所なのです。

この丸の地を拠点とした丸氏は、保元の乱(1156)では義朝軍として戦い、鎌倉政権成立後には『吾妻鏡』にもその名が見えるほどの一族です。

治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた頼朝が丸五郎信俊を案内役として丸御厨を巡検し、丸氏の居館に宿泊し、安楽寺を参詣したといいます。

御城印には丸氏の家紋と、戦国期に丸氏が属したと思われる里見氏の家紋をデザインし、安楽寺の山門をモチーフにしました。この山門は享徳元年(1452年)に建てられていたといわれ、享徳の乱(1454年)直前にあたるこの時期の丸氏の居城を想像できる現在に残る貴重な遺構です。この時期の丸城城主は、丸常重であることも安楽寺に残る鋳造護摩釜よりわかっています。山門にあわせて丸城城山の山容を描き、街道を見張る櫓をデザインしました。


平松城

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平松城は山名川と平久里川に挟まれた丘陵上に築かれました。麓には「池之内」という地名が残り、山名川に向かって南方に口を開けた谷となっています。平松城は安房の豪族安西氏の居城として知られています。

治承4年(1180年)、源頼朝が打倒平家の兵を挙げるも石橋山合戦にて敗北。逃げた頼朝一行は海路にて安房に入りました。その安房入りの際、真っ先に頼朝の元を訪れ、再起を図るために尽力した安西景益が平松城を築いたとの伝承も残りますが、現在残る城の遺構は戦国期のものと思われます。現地には主郭と見られる平場や、腰曲輪、そして櫓台のような人工的に削平された遺構が残っています。安西氏は戦国期には里見氏や北条氏の家臣として取り立てられたとされています。

堀や土塁などの明確な遺構は残っていませんが、安房国の古くからの豪族安西氏の拠点としてその名を残す貴重な史跡といえます。

 

平松城は、太平洋航路の交通の要である鏡ケ浦(現館山湾)に注ぐ河川沿いに築かれました。安西氏はこの海上交通の要衝を押える水軍の一団だったと考えられます。御城印は船で太平洋を行き来する安西氏をイメージし、表現しました。

安西氏は対岸の三浦半島の豪族三浦一族とも関係が深かったとされていることから、三浦一族の家紋「三つ引両」をデザインしました。

三浦一族は房総半島にも勢力を広げ、たくさんの領地を持っていました。和田義盛の子である朝夷(あさひな)義秀の生母は安西氏の娘であり、三浦氏の棟梁義澄の娘は安西景益に嫁いでいます。三浦氏の系図には三浦為継の子に安西四郎なる人物もみえ、安西氏の入婿となったと思われています。それらのことから、安西氏は三浦氏と同族もしくは、三浦氏の家人とも考えられています。




里見番所

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里見番所は平久里川と長藤川の合流点北側にあたる標高約120m、比高約65mの丘陵に築かれました。別名「不寝見川(ねずみがわ)番所」とも呼ばれ、横堀、切岸、堀切などの城郭遺構が残っています。

歴史的な詳細は不明ですが、南北に走る平久里街道を直下に臨む立地に位置することからも、街道を見張る監視所の役目を担っていたと考えられます。南方には滝田城をはじめとするいくつかの城跡があり、それらの城の変遷や関係などは不明ながらも、この地域が緊迫した状況に置かれていたことが推察できます。

コンパクトな城郭ですが、主郭北東下には横堀が良好に残っています。急斜面を切岸状に削り、その直下に空堀を掘って土塁を巡らせていて、その造りから北側に対する防御の意識が見て取れます。里見氏のお家騒動「天文の内訌(1533年)」の際に、滝田城にいた里見義豊の勢力が一時的に築いた可能性も指摘されています。

御城印には里見氏の家紋「二つ引両」をデザインし、さらに里見番所の縄張図と復元鳥瞰図をモチーフにしました。


石堂城、丸城、平松城、里見番所の販売場所

・琵琶倶楽部

 千葉県南房総市富浦町青木123-1

TEL 0470-33-4611

営業時間:9:15~18:00
休館日:年中無休

 

・道の駅三芳村鄙の里

住所 千葉県南房総市川田82-2

TEL 0470-36-4116

営業時間:9:00~17:00

 

・道の駅 ロ-ズマリ-公園

千葉県南房総市白子1501

TEL 0470-46-2882

営業時間:09:00~17:00
休館日:無休(年間数日臨時休業有)

 

・道の駅ちくら潮風王国

住所 千葉県南房総市千倉町千田1051

TEL 0470-43-1811

営業時間:09:00~17:00
休館日:水曜(1月~3月・8月は無休)

 

・道の駅富楽里とみやま

住所 千葉県南房総市二部1900

TEL 0470-57-2601
9:00ー18:00

 

・道の駅おおつの里花倶楽部

住所 千葉県南房総市富浦町大津320

TEL 0470-33-4616

営業時間:12月~6月まで 9:00~17:00
7月~11月まで 9:00~16:30

 

道の駅和田浦WA・O!

住所 千葉県南房総市和田町仁我浦243

TEL 0470-47-3100

営業時間:9:00-17:30


土やぐら城

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土やぐら城は多古町の南東部、中村地区の借当川流域を臨む台地の先端に築かれました。この台地の中央を走る「中城坂」を挟んで、北西300メートルほどの位置には物見台城(物見台跡)があり、中村中央の台地へと続くこの坂を物見台城と連携し、監視していたと思われます。土やぐら城の構造は判然としませんが、物見台城と一体となって機能することで効力を発揮したのでしょう。櫓台、土塁が今も現地に残り、かつては堀がめぐっていたとも伝わります。
この二つの城が築かれた台地の西側は、中村中央の台地に向かって谷(相ノ谷)が深く切れ込んでいます。さらに南から東にかけては借当川とその支流の平野部に接しています。土やぐら城は、この周辺地域の水運掌握のための監視所的な役割を担わされていたと推察できます。

借当川の上流部は、かつての椿海に通じ多古周辺地域の水運の要衝であり、香取地方へと繋がる街道も存在したことから、借当川流域が水陸交通の要衝だったことがわかります。治承4年(1180年)の源頼朝旗揚げの際、房総半島から立て直しを図る頼朝側に対し、平家方として戦いを挑んだ藤原(千田)親政の居館も借当川上流にあったとされ、この流域は古代より開けた重要な地域だったのです。

多古町には、江戸時代に描かれた土やぐら城の絵図が残っています。絵図には、「土やぐら」という名称の語源となったと思われる櫓台のような高まり(圡屋くら)や土塁が描かれており、それらは現存する遺構の形態とほとんど変わっていません。土やぐら城は小規模な城郭ながらも、400年以上前の城の姿を今に伝える大変貴重な城郭遺構といえるでしょう。

御城印には、その絵図をデザインするとともに、多古町中村地区とは特に歴史的かかわりの深い千葉氏の家紋「月星」を配置しました。そして、土やぐら城は監視所として機能していたと考えられることから、櫓をイメージし、表現しました。

 

販売場所
道の駅多古あじさい館
千葉県香取郡多古町多古1069-1
0479-79-3456
午前9時~午後7時(但し9月~3月は午後6時まで)

休業日:年末年始(1月1日~1月2日)  



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