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2021年6月の6件の投稿

2021年6月30日 (水)

歴史を使った町おこしin富津市


金谷城、限定公開のお知らせ✨
富津市金谷城と佐貫城の御城印が発行されました。富津市では造海城と飯野陣屋がすでに発行されてますので、これで4城目の御城印です。
デザインと同封の説明文、やらせていただきました。

金谷城は現在TJKリゾートさんの敷地になっていて入れませんが、今回の御城印発行を受けて、歴史や城の掘り起こし&観光活用という趣旨にご賛同いただき、限定公開が実現しました🙌
やったー!

と、いうことでまずは7月に2回だけ限定公開されます。日にちや時間など、詳細は富津市観光協会さんのホームページをご覧ください^_^

秋以降の公開は未定です。
ご都合つく方、四脚門が検出したあたりまで見せていただけますのでぜひ足をお運びください☺️

金谷港フェリー降りたら目の前の山ですよ⛰

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2021年6月25日 (金)

6月の御城印完成のお知らせ

また今月も新しい御城印が販売になりますのでお知らせです。
金谷城、佐貫城、多古藩陣屋は6月26日(土)から販売開始です。

成東城のみ6月28日(月)販売開始。


デザインと説明文やらせていただきました。
4城とも歴×トキにて通販取り扱いとなります✨

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金谷城

公益財団法人 鋸山美術館

住所 千葉県富津市金谷2146-1

TEL 0439-69-8111

営業時間10:00-から17:00(最終入館16:30)

金谷城は鋸山から北に伸びる丘陵に築かれました。眼前には浦賀水道が広がり、さらには上総国と安房国の境に当たる要衝の地です。東京湾を挟んで、三浦半島を指呼の距離に臨むことができ、金谷城は諸勢力の水軍拠点の海城として使用されていたと推察されます。
築城主や築城年代は不明ですが、天文年間(1532年~1555年)初頭の段階では、里見実堯の居城であったと考えられています。
史料上の初見は、天文22年(1553年)の文書で、それによると里見氏の庇護を受けていた妙本寺(鋸南町)の住持日我が戦乱から逃れるために、金谷城に経典などを運び込んで避難するも戦火で焼失したといいます。里見氏の庇護する妙本寺の住持が金谷城に避難していることから、金谷城が当時、里見方の城だったことがわかります。

その後、金谷城は内房正木氏の管理下に置かれたと考えられます。正木氏は小田原北条氏に属していた時期もあり、その際は金谷城も北条方の城となりました。詳細は不明ですが、正木氏が再度里見氏に属すようになると、金谷城は里見方の城として機能したと思われます。
佐貫城、造海城、勝山城が里見氏の拠点として整備されていくと、金谷城は造海城の支城として連携し存続していったと推測できます。

現在、城址にはリゾート施設が建ち、当時の城の姿は失われているものの、その立地から戦国期には里見氏、小田原北条氏の紛争の舞台であったことが見て取れます。

《御城印デザインのご説明》
金谷城の御城印は、この地域のシンボルである鋸山をモチーフにしました。
金谷城は開発の際に発掘調査が行われ、たくさんの遺構と遺物が検出されています。調査によると、中心になる時期は16世紀前半から中頃と考えられていて、礎石や掘立柱建物が数棟見つかっています。切石を積んだ石積や、岩盤を削って造られた石塁などが見つかっています。虎口は岩盤を削り精巧に造られ、検出された柱穴から四脚門を伴った虎口だともいわれています。それらにより、城主や代官が常駐していた城の可能性も指摘されています。
御城印には検出された石積みや虎口をデザインしました。

 


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佐貫城(上総国)

有限会社 宮醤油店

TEL0439-66-0003

千葉県富津市佐貫247

営業時間 9:00-17:00

年中無休(大晦日正月3が日を除く)

佐貫城は染川とその支流の北上川に囲まれた丘陵に築かれました。16世紀前半には、上総武田氏の拠点の一つだったと考えられています。永正4年(1507年)の佐貫鶴峰八幡神社再興棟札には、大旦那として武田氏の名が書かれていることからも、武田氏と佐貫の関係が指摘されています。
その後、武田氏の内紛に介入した里見氏と小田原北条氏の争いがおき、佐貫城も両勢力の戦いの舞台になりました。天文14年(1545年)頃には里見氏の城となり、当主である義堯が居城としていましたが、北条氏が佐貫城を囲み、里見方は北条氏が囲みを解くまでの1ヶ月近くを籠城戦で凌いだといいます。しかし、天文年間の終わり頃にはついに佐貫城が落とされ、義堯は久留里城に移ったとされています。
永禄6年(1563年)には北条氏が擁立した古河公方足利義氏が佐貫城に入っていることからも、北条氏がいかに佐貫城を重要視していたかがわかります。この後、里見氏と北条氏が江戸湾を挟んで佐貫城を巡り熾烈な戦いを繰り広げます。その過程で佐貫城は再び里見氏の城となり、里見氏の本拠が岡本城(南房総市)に移ると佐貫城は里見方の一拠点として存続していきました。

天正18年(1590年)の小田原合戦以降、関東に徳川家康が入封すると、徳川譜代の内藤家長が入城しました。その後は松平氏の時代や天領になった時期を経て、阿部氏が入ります。

宝永7年(1710年)に入封した阿部氏は、藩校の誠道館の設立や、砲台を築いて海防強化に努めました。そして、多くの幕府関係の儀式に参加し、譜代大名として明治まで存続しました。

《御城印デザインのご説明》
上総武田氏、里見氏、小田原北条氏、足利義氏、そして、近世初頭には徳川譜代の内藤氏が入るなど、多彩な歴史に彩られた佐貫城。それらの歴史がいかに佐貫城が重要だったかを物語っています。御城印には武田氏「四つ菱」、足利氏と里見氏の「二つ引両」、北条氏の家紋「三つ鱗」をそれぞれ配置しました。

佐貫城は天正18年(1590年)に内藤氏が入って以来、松平氏、阿部氏と城主が変わり、現在残る遺構は近世に改修されたものですが、中世の佐貫城が基本的には踏襲されたと考えられます。本丸から二の丸へ続く丘陵が近世では佐貫城の中心だったと思われますが、中世においてもこのエリアが城の中心だったと思われます。中世から近世へと上書きされながら存続した佐貫城の御城印は江戸時代に描かれた絵図をモチーフにするとともに、佐貫藩を再立藩し、江戸時代を通して存続させた阿部氏の家紋「丸に違い鷹の羽」をデザインしました。



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成東城

大髙醤油株式会社

TEL 0475-82-5581

千葉県山武市富田540

営業時間 8:00―17:00(土日休み)

成東城は九十九里平野を臨む標高45mほどの台地に築かれました。現在は城の中心部が成東城跡公園として整備されています。
作田川が近くを流れ、現在はその支流が成東城の裾野を囲むように流れています。成東城は台地全体を利用して築かれていて、現地を歩くとその規模を感じることができます。さらに、台地東南にあたる九十九里海岸方面には遮る丘陵が全くなく、成東城が水上交通の要であったことが見て取れます。

成東城は鎌倉時代以降、この地を治めていた印東氏が築城したとも伝わりますが、今に残る遺構は16世紀以降のものと考えられています。
1450年代に印東氏がこの地を支配しなくなった後は本佐倉城を拠点にした馬加千葉氏の勢力下になり、その子、胤定(鳴戸八郎)が城主として成東地域を治めたといいます。

永禄12年(1569年)頃には正木氏による下総侵攻があり、成東城もその混乱に巻き込まれたと思われ、そういった状況下で改修されながら機能したと思われます。

台地全体を利用して築かれた成東城は、本佐倉城や土気城などといった両総の主要城郭に匹敵する規模であることからも、この地にこれほどの城を築ける勢力がいたことを物語る城といえます。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めると、成東千葉氏当主の将胤は北条方として戦い、討ち死にしました。小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封すると成東には家康配下の石川康通や青山忠成などが配属されましたが、元和6年(1620年)に廃城となりました。

 

《御城印デザインのご説明》

宅地化が進み、一部は破壊されているものの、成東城には遺構が良好に残っています。土塁、空堀、虎口、切岸などの防御が施され、堅固な城であったことがわかります。主郭は三方に土塁を巡らし、取り囲む空堀も折れを伴い、防御制を高めていることが見て取れます。

戦国期の姿を色濃く残す成東城の御城印には、台地全体を城郭化し広大な城域を誇る成東城の地形がわかる地図と縄張図をモチーフにしました。

鎌倉時代からこの地を領有していた千葉氏の家紋「月星」と「九曜」、そして、享徳の乱を契機とし、主家を滅ぼし千葉氏当主となった馬加千葉氏の家紋「月星(星が真上)」をデザインしました。

 



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多古藩陣屋

道の駅多古あじさい館
千葉県香取郡多古町多古1069-1
0479-79-3456
午前9時~午後7時(但し9月~3月は午後6時まで)

休業日:年末年始(1月1日~1月2日)  

多古藩陣屋は、現在の多古第一小学校周辺の小高い場所に築かれました。

多古は、古くから名族千葉一族ゆかりの地で、享徳の乱に端を発した一族の内紛で千葉氏宗家が多古で滅ぶなど、中世を通して下総国内で重要な地でした。

天正18年(1590年)に小田原北条氏が豊臣秀吉に攻められ、戦国大名として滅亡すると、徳川家康が関東に入封しました。そして、多古には家康家臣の信濃高遠城主保科正光が入りましたが、関ケ原の戦い(1600年)後に正光は加増され高遠藩に移ったため、多古藩は一時廃藩となりました。

寛永12年(1635年)に8千石の旗本松平(久松)勝義が、上総国武射郡と下総国香取郡に所領をもらい、多古に陣屋を構えます。これが多古藩陣屋のはじまりです。そして、延宝8年(1680年)に家督を継いだ勝義の九男勝以(かつゆき)は加増を受け、1万2千石の大名となり、多古藩が再び立藩されました。以後、久松松平氏が多古藩領主として存続し明治に至ります。

当時、陣屋の敷地は板塀や石垣で囲われていましたが、現在は多古第一小学校の校庭となり、陣屋前面の石垣の一部がわずかに残るだけです。しかしながら、全国的に石垣が築かれた陣屋は珍しく、このことからも多古藩1万2千石の威光が想像でき、この陣屋が多古藩の政治の中心地であった往時が偲ばれます。

 

《御城印デザインのご説明》

多古藩陣屋の御城印には昭和8年に描かれた多古町の鳥瞰図をモチーフにし、町の風景を描きました。あわせて、江戸時代に発行された『下総名勝図絵』に描かれた多古藩陣屋の表門遠景もデザインしました。

久松松平家の家紋「星梅鉢」、さらに「六つ葵」を配置しました。久松松平家は徳川家から葵の紋の使用を許されていました。

 

 

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2021年6月19日 (土)

柏市の講演のお知らせ

7月22日(海の日)講演会やらせていただきます。
場所は柏駅の近く「アミュゼ柏」です。

お城の楽しみ方、歴史と城を使った地域活性…みたいな話をしようかなと思います。
千葉氏、三浦氏、柏周辺のお城、そんな感じで楽しい題材を散りばめてお話しさせていただきます✨

【7/22、柏市】歴史講演会「山城ガールむつみさんが語る城めぐりの魅力」開催 - お城ニュース - 全国で開催されるお城や歴史関連のイベント情報まとめ (kojodan.jp)

 

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 HP (matsugasakijo.net)

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2021年6月13日 (日)

COTONOWA 新講座の募集のお知らせ

上大岡京急百貨店の講座ご案内です✨
6月12日から受け付けスタートになりました。
お申し込みは、COTONOWAのHPから!サイト内、「山城ガールむつみ」で検索くださいませ。

公式サイト - COTONOWA-京急百貨店がお届けする新しいコト体験‐コトノワ

7月「いざ、水運の要衝、六浦湊へ!」
六浦や八景周辺を散策して、いろいろと歴史探検します。

9月「いざ、村岡城へ!」
鎌倉街道の上の道を探して楽しく歩きます。

ぜひ、お申込みよろしくお願いします!!

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2021年6月 5日 (土)

いざ、津久井高重 奮戦の地へ!!

今回は津久井一族の足跡をたどり、三河国に行ってきました。
潜入歴史調査です✨

津久井氏の本拠地は横須賀市津久井。三浦半島の東南に位置する海沿いの場所です。
衣笠城で討ち死にを遂げた伝説の英雄三浦義明の弟の義行が津久井の地に入り、津久井氏の祖となりました。

津久井氏の詳細は一番最後に御城印とともに添付しておきます。
後でお読みください。
今回は津久井氏の奮戦レポです!

承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨、院宣を発します。そしてまず、京都守護の伊賀光季を討ちました。これによって、承久の乱が幕を開けます!
対する鎌倉幕府は、京都攻撃の軍を発しました。大将軍は北条泰時、時房です。

このときに北条政子が有名な演説をします。
「頼朝さまのご恩は海よりも深く山よりも高く…うんぬんかんぬん。みなのもの、亡き殿の恩を感じているのなら、朝廷を討つために立ち上がれ(こんな感じの内容)」によって、御家人たちは京都を討つために決起したのです。
これによって、「朝廷VS北条義時」という図式が、「朝廷VS鎌倉幕府」になったのです。

三浦一族としては、実は朝廷方の先鋒になっていたのが三浦胤義。これは三浦一族棟梁の義村の弟に当たります。
胤義は兄の義村に一緒に朝廷方として義時を討つように持ちかけました。しかし、義村はその内容を義時に告げ、弟と袂を分かつことになるのです。

その場面を描いたのがこちら。左奥にいるのが北条義時、大河ドラマでは小栗旬さん。
義時に報告してる青の着物が三浦義村、大河ドラマでは山本耕史さん。


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そんな感じで、幕府と朝廷方の戦いがはじまり、幕府軍は東海道、東山道、北陸道の3道から都へ進軍しました。
東海道を行く軍列は5月30日に橋本宿に到着しました。橋本宿は現在の静岡県湖西市にありました。江戸時代になると橋本宿は廃止され、その近くに新居宿と名を変えた宿場が整備されました。


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浜名橋。橋本宿の近くにあったとされる橋。
なんと、平安時代の段階で長さ167m、幅4m、高さ5mの橋が架かってたということ!すごい!
風光明媚な景勝地として旅人から人気のスポットだったんでしょうね✨

この浜名橋付近にあった橋本宿こそが今回のテーマ、津久井高重に関わる歴史舞台なのです♡
京に向かう東海道軍の中に三浦一族津久井高重の姿がありました。
津久井氏は朝廷方として戦っている尾張国守護小野盛綱(伊賀光季を討った人)
とゆかりがありました。
そのため、いったんは幕府軍について出陣してしまったものの、朝廷方として戦うため、橋本宿に着いたところで脱出します。夜陰に紛れて、一族郎党19騎とともに急ぎ京に向かったのです。


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浜名橋付近。松が植えられ、いい雰囲気です。
東海道の要衝地のため、この付近には歴史がたくさん埋もれてます。近くには梶原景時の子の景季(源太)の伝承も残ります。その話はまたの機会に。

では、ここで隊から脱走した津久井高重の足取りを追いましょう!!!



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脱走して京に向かった津久井高重の一行は、遠江の内田四郎なるものに発見されてしまいます。そして、北条泰時、時房の命を受けた内田四郎は高重らを追いかけました。
高重らは急ぎ逃げたものの、ついに追討軍に追いつかれます。その追いつかれた場所が、赤坂宿です。



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赤坂宿は江戸時代を通して賑わった宿場で、今も雰囲気の残る町並みになっています。


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大橋屋。
旅籠を観光拠点として改修していて、見学ができます。


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素敵です。無料で中に上がれます。


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二階にも上がれます✨


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赤坂宿近くには音羽川が流れていますが、川沿いで休息を取っているときに追いつかれたといいます。
水を飲んだり、馬に水を飲ませたりしてたんでしょうか。
この関川橋(落合橋)の付近で戦いになったといいます。


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こういう雰囲気です。イメージ湧きますね。
ここで内田四郎の軍勢60騎あまりに攻撃された高重らは、近くの寺に立て籠りました。



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長福寺山門。この寺に高重らは逃げ込みました。
高重らは、赤坂宿の街道沿いにある長冨寺(今の長福寺)に立て籠ったといいます。
寺伝によると、この高重らの戦いとの関連性は不明ながらも「承久の頃、放火のために僧房堂舎焼失」と書かれているとのこと。


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背後は高台になっています。逃げ込むにはもってこいの要害地形!


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今は観音堂が建てられています。


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この観音堂に祀られているのは平安時代の観音様。平安時代は大江氏が三河国司となっていて、この仏像は大江定基ゆかりのものと伝わります。

さて、立て籠った寺を囲まれた高重らはどうしたかというと、寺から打って出ます。
最初に戦いになった地点より、少しだけ上流側、現在の大黒橋あたりで合戦になったといいます。



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津久井高重19騎に対して、追っ手の内田四郎60騎あまり!
武勇に優れた高重の一団も多勢に無勢で防ぎきれず。
激しい戦いが繰り広げられ、ついに全員討ち取られてしまいました。
このあたりの川が血で赤く染まったと伝わっています。


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朝廷方として戦うために京に向かった津久井氏は、ここ赤坂宿で最期を迎えました。
その知らせを受けた本拠地の三浦津久井(横須賀市)では、追っ手が来ることを恐れて一族が脱出。それぞれ、縁者を頼って逃げたといいます。
群馬県前橋あたりには、津久井氏の末裔とされる方々が住んでいるといいます。
津久井氏は神奈川県相模原市の津久井にもゆかりがあるとされ、そこにいた津久井一族もその地を脱出。
そこから脱出したとされる津久井氏の子孫が山梨県にいるそうです。

歴史の陰には津久井氏のように、熱い想いを抱えたまま埋もれていった人たちがたくさんいます。
色んなところに足を運んで掘り起こしたいですね✨ロマン✨

で、ここからが面白かったこと。やはり現地に行かないとダメだなぁと、つくづく感じた出来事。
図書館で町史を読んでいたら、津久井高重の供養塔があるとの情報を入手。どうしてもお参りしたい!と思って、探すも見つからず。町史に書いてあった手がかりをもとに歩き回るも見つからず。大黒橋の近くだと思うんだけど…。

畑で作業していた方(多田さんという方でした)に聞いたら、色んな家に声かけてくれて一緒に探してくれました♡
なんて優しい✨
でも、見つからない!みなさん口々に「うーん、わからないなぁ」と。
仕方なく、多田さんに、「もうあきらめます。ありがとうございました!」とお礼を言って別れました。

でも、どうしてもあきらめられない!
ダメ元で、大橋屋さんに言って聞いてみると…。
なんと!!わかりました!
個人の庭にあるため、親切にもその方に電話してくれました。わーい!!


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と、いうことで、恋い焦がれた石塔と感動の対面✨
感動。涙がでましたよ。
五輪塔と宝筺印塔が混ざってます。
南北朝くらいのものでしょうか。
かつては19基あったとのこと。
高重ら19騎の分を建ててくれてたんですね。
三浦一族を代表して感謝いたします(笑)

個人のおうちのため、もしお参りしたい方がいましたら私にメールください。
赤坂宿の皆様、ありがとうございました!!


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こちらは、本拠地三浦津久井の菩提寺東光寺さんの津久井氏の供養塔。



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ご住職さんと。
このたびの津久井高重の命日に、東光寺さんでは追善供養を行いました。
新しく「義勇院殿武徳忠高大居士」という戒名をお授けしたそうです。
承久の乱から800年、とてもいい供養になったのではないかと思います。

津久井氏の本拠地津久井と津久井氏の詳細は下に添付してあります!
津久井氏の歴史に興味持っていただけたなら、御城印もオススメです♡

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津久井館は三浦一族津久井氏の居館跡と伝わります。津久井は南側が海に面し、北側の山稜に向かって谷戸が形成されています。衣笠城で討ち死にを遂げた伝説の棟梁三浦大介義明の弟義行が津久井の地をもらい、「津久井」を名乗ったのが始まりとされています。

源頼朝が打倒平家のために挙兵すると、津久井氏も他の三浦一族とともに頼朝方として戦いました。その後、鎌倉に入った頼朝が上洛する際に供奉した武士の中に津久井氏の名が見え、その活躍をうかがい知ることができます。

義行、高行、義通、高重と4代にわたり、この地を領しましたが、承久3年(1221年)に起きた承久の乱では朝廷側につき、高重をはじめとする津久井一族は討たれました。これにより、この津久井の地から津久井氏は姿を消しましたが、群馬県や山梨県にその残党が逃げ落ち土着したという伝承が現地に伝わっています。

津久井氏の館があったとされる場所は、「峯屋敷」と呼ばれていて、東光寺西南の高台がそれにあたります。江戸時代に書かれた『新編相模国風土記稿』には、峯屋敷の周りには堀跡が残っていたとも記されていますが、宅地化された今となっては当時の姿を知る由もありません。

しかしながら、谷戸の最奥部にある真言宗七宝山医王院東光寺が津久井氏の歴史を今に伝えてくれます。東光寺は津久井氏の菩提寺です。寺伝によれば、奈良時代に行基が創建したといい、その後、荒廃した東光寺を津久井義行が中興し祈願所にしました。境内には、津久井一族の五輪塔が残り、津久井氏がこの地にいた当時を偲ぶことができます。

後鳥羽上皇は内裏を警備させるために、武士の中から精鋭を選び、「西面の武士」を置きました。その中に選ばれたのが、津久井高重です。御城印には西面の武士にも選ばれた津久井高重の武勇を表現すべく、馬上で弓を射る武者を描きました。

そして、三浦一族の家紋「三つ引両」を配置するとともに、津久井の北側にそびえる武山や美しい海岸線をモチーフにしました。津久井氏が祈願所とした東光寺薬師如来の光をイメージし、薬師如来の光の色である瑠璃色の雲をデザインしました。

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2021年6月 1日 (火)

パネル展示 in衣笠コミュニティセンター

横須賀市の衣笠コミュニティセンター1階に、三浦一族のパネルを展示してもらいました!
まさに三浦一族の本拠地にふさわしいー!!✨
このパネルは去年のお城EXPOで展示したパネルです。ここで役に立ってよかった!

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衣笠観光協会さんは2年に一回、武者行列をしています。
この武者行列は、なんと三浦一族が源頼朝とともに戦うべく、石橋山に向かう行列なのです。
かっこいい行列なのですよ♡

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そのため、衣笠コミュニティセンターには手作りの甲冑の展示もあります。三浦一族が勢揃い!

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そこに私が作ったパネルを展示していただくのは嬉しいですね。
お近くの方はぜひ見に行って下さいませ✨

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