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2021年6月 5日 (土)

いざ、津久井高重 奮戦の地へ!!

今回は津久井一族の足跡をたどり、三河国に行ってきました。
潜入歴史調査です✨

津久井氏の本拠地は横須賀市津久井。三浦半島の東南に位置する海沿いの場所です。
衣笠城で討ち死にを遂げた伝説の英雄三浦義明の弟の義行が津久井の地に入り、津久井氏の祖となりました。

津久井氏の詳細は一番最後に御城印とともに添付しておきます。
後でお読みください。
今回は津久井氏の奮戦レポです!

承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨、院宣を発します。そしてまず、京都守護の伊賀光季を討ちました。これによって、承久の乱が幕を開けます!
対する鎌倉幕府は、京都攻撃の軍を発しました。大将軍は北条泰時、時房です。

このときに北条政子が有名な演説をします。
「頼朝さまのご恩は海よりも深く山よりも高く…うんぬんかんぬん。みなのもの、亡き殿の恩を感じているのなら、朝廷を討つために立ち上がれ(こんな感じの内容)」によって、御家人たちは京都を討つために決起したのです。
これによって、「朝廷VS北条義時」という図式が、「朝廷VS鎌倉幕府」になったのです。

三浦一族としては、実は朝廷方の先鋒になっていたのが三浦胤義。これは三浦一族棟梁の義村の弟に当たります。
胤義は兄の義村に一緒に朝廷方として義時を討つように持ちかけました。しかし、義村はその内容を義時に告げ、弟と袂を分かつことになるのです。

その場面を描いたのがこちら。左奥にいるのが北条義時、大河ドラマでは小栗旬さん。
義時に報告してる青の着物が三浦義村、大河ドラマでは山本耕史さん。


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そんな感じで、幕府と朝廷方の戦いがはじまり、幕府軍は東海道、東山道、北陸道の3道から都へ進軍しました。
東海道を行く軍列は5月30日に橋本宿に到着しました。橋本宿は現在の静岡県湖西市にありました。江戸時代になると橋本宿は廃止され、その近くに新居宿と名を変えた宿場が整備されました。


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浜名橋。橋本宿の近くにあったとされる橋。
なんと、平安時代の段階で長さ167m、幅4m、高さ5mの橋が架かってたということ!すごい!
風光明媚な景勝地として旅人から人気のスポットだったんでしょうね✨

この浜名橋付近にあった橋本宿こそが今回のテーマ、津久井高重に関わる歴史舞台なのです♡
京に向かう東海道軍の中に三浦一族津久井高重の姿がありました。
津久井氏は朝廷方として戦っている尾張国守護小野盛綱(伊賀光季を討った人)
とゆかりがありました。
そのため、いったんは幕府軍について出陣してしまったものの、朝廷方として戦うため、橋本宿に着いたところで脱出します。夜陰に紛れて、一族郎党19騎とともに急ぎ京に向かったのです。


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浜名橋付近。松が植えられ、いい雰囲気です。
東海道の要衝地のため、この付近には歴史がたくさん埋もれてます。近くには梶原景時の子の景季(源太)の伝承も残ります。その話はまたの機会に。

では、ここで隊から脱走した津久井高重の足取りを追いましょう!!!



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脱走して京に向かった津久井高重の一行は、遠江の内田四郎なるものに発見されてしまいます。そして、北条泰時、時房の命を受けた内田四郎は高重らを追いかけました。
高重らは急ぎ逃げたものの、ついに追討軍に追いつかれます。その追いつかれた場所が、赤坂宿です。



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赤坂宿は江戸時代を通して賑わった宿場で、今も雰囲気の残る町並みになっています。


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大橋屋。
旅籠を観光拠点として改修していて、見学ができます。


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素敵です。無料で中に上がれます。


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二階にも上がれます✨


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赤坂宿近くには音羽川が流れていますが、川沿いで休息を取っているときに追いつかれたといいます。
水を飲んだり、馬に水を飲ませたりしてたんでしょうか。
この関川橋(落合橋)の付近で戦いになったといいます。


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こういう雰囲気です。イメージ湧きますね。
ここで内田四郎の軍勢60騎あまりに攻撃された高重らは、近くの寺に立て籠りました。



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長福寺山門。この寺に高重らは逃げ込みました。
高重らは、赤坂宿の街道沿いにある長冨寺(今の長福寺)に立て籠ったといいます。
寺伝によると、この高重らの戦いとの関連性は不明ながらも「承久の頃、放火のために僧房堂舎焼失」と書かれているとのこと。


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背後は高台になっています。逃げ込むにはもってこいの要害地形!


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今は観音堂が建てられています。


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この観音堂に祀られているのは平安時代の観音様。平安時代は大江氏が三河国司となっていて、この仏像は大江定基ゆかりのものと伝わります。

さて、立て籠った寺を囲まれた高重らはどうしたかというと、寺から打って出ます。
最初に戦いになった地点より、少しだけ上流側、現在の大黒橋あたりで合戦になったといいます。



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津久井高重19騎に対して、追っ手の内田四郎60騎あまり!
武勇に優れた高重の一団も多勢に無勢で防ぎきれず。
激しい戦いが繰り広げられ、ついに全員討ち取られてしまいました。
このあたりの川が血で赤く染まったと伝わっています。


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朝廷方として戦うために京に向かった津久井氏は、ここ赤坂宿で最期を迎えました。
その知らせを受けた本拠地の三浦津久井(横須賀市)では、追っ手が来ることを恐れて一族が脱出。それぞれ、縁者を頼って逃げたといいます。
群馬県前橋あたりには、津久井氏の末裔とされる方々が住んでいるといいます。
津久井氏は神奈川県相模原市の津久井にもゆかりがあるとされ、そこにいた津久井一族もその地を脱出。
そこから脱出したとされる津久井氏の子孫が山梨県にいるそうです。

歴史の陰には津久井氏のように、熱い想いを抱えたまま埋もれていった人たちがたくさんいます。
色んなところに足を運んで掘り起こしたいですね✨ロマン✨

で、ここからが面白かったこと。やはり現地に行かないとダメだなぁと、つくづく感じた出来事。
図書館で町史を読んでいたら、津久井高重の供養塔があるとの情報を入手。どうしてもお参りしたい!と思って、探すも見つからず。町史に書いてあった手がかりをもとに歩き回るも見つからず。大黒橋の近くだと思うんだけど…。

畑で作業していた方(多田さんという方でした)に聞いたら、色んな家に声かけてくれて一緒に探してくれました♡
なんて優しい✨
でも、見つからない!みなさん口々に「うーん、わからないなぁ」と。
仕方なく、多田さんに、「もうあきらめます。ありがとうございました!」とお礼を言って別れました。

でも、どうしてもあきらめられない!
ダメ元で、大橋屋さんに言って聞いてみると…。
なんと!!わかりました!
個人の庭にあるため、親切にもその方に電話してくれました。わーい!!


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と、いうことで、恋い焦がれた石塔と感動の対面✨
感動。涙がでましたよ。
五輪塔と宝筺印塔が混ざってます。
南北朝くらいのものでしょうか。
かつては19基あったとのこと。
高重ら19騎の分を建ててくれてたんですね。
三浦一族を代表して感謝いたします(笑)

個人のおうちのため、もしお参りしたい方がいましたら私にメールください。
赤坂宿の皆様、ありがとうございました!!


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こちらは、本拠地三浦津久井の菩提寺東光寺さんの津久井氏の供養塔。



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ご住職さんと。
このたびの津久井高重の命日に、東光寺さんでは追善供養を行いました。
新しく「義勇院殿武徳忠高大居士」という戒名をお授けしたそうです。
承久の乱から800年、とてもいい供養になったのではないかと思います。

津久井氏の本拠地津久井と津久井氏の詳細は下に添付してあります!
津久井氏の歴史に興味持っていただけたなら、御城印もオススメです♡

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津久井館は三浦一族津久井氏の居館跡と伝わります。津久井は南側が海に面し、北側の山稜に向かって谷戸が形成されています。衣笠城で討ち死にを遂げた伝説の棟梁三浦大介義明の弟義行が津久井の地をもらい、「津久井」を名乗ったのが始まりとされています。

源頼朝が打倒平家のために挙兵すると、津久井氏も他の三浦一族とともに頼朝方として戦いました。その後、鎌倉に入った頼朝が上洛する際に供奉した武士の中に津久井氏の名が見え、その活躍をうかがい知ることができます。

義行、高行、義通、高重と4代にわたり、この地を領しましたが、承久3年(1221年)に起きた承久の乱では朝廷側につき、高重をはじめとする津久井一族は討たれました。これにより、この津久井の地から津久井氏は姿を消しましたが、群馬県や山梨県にその残党が逃げ落ち土着したという伝承が現地に伝わっています。

津久井氏の館があったとされる場所は、「峯屋敷」と呼ばれていて、東光寺西南の高台がそれにあたります。江戸時代に書かれた『新編相模国風土記稿』には、峯屋敷の周りには堀跡が残っていたとも記されていますが、宅地化された今となっては当時の姿を知る由もありません。

しかしながら、谷戸の最奥部にある真言宗七宝山医王院東光寺が津久井氏の歴史を今に伝えてくれます。東光寺は津久井氏の菩提寺です。寺伝によれば、奈良時代に行基が創建したといい、その後、荒廃した東光寺を津久井義行が中興し祈願所にしました。境内には、津久井一族の五輪塔が残り、津久井氏がこの地にいた当時を偲ぶことができます。

後鳥羽上皇は内裏を警備させるために、武士の中から精鋭を選び、「西面の武士」を置きました。その中に選ばれたのが、津久井高重です。御城印には西面の武士にも選ばれた津久井高重の武勇を表現すべく、馬上で弓を射る武者を描きました。

そして、三浦一族の家紋「三つ引両」を配置するとともに、津久井の北側にそびえる武山や美しい海岸線をモチーフにしました。津久井氏が祈願所とした東光寺薬師如来の光をイメージし、薬師如来の光の色である瑠璃色の雲をデザインしました。

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