新デザインの御城印のお披露目✨
新しいデザインの御城印です✨
今回は千葉県袖ケ浦市「蔵波城」、佐倉市「小篠塚城」、香取市「小見川陣屋」です。
どれもカッコイイですよ。自分で言う♡
お城の紹介と、販売情報など載せておきまーす。
ちなみに歴×トキで通販取り扱うのは、小篠塚城と小見川陣屋です。蔵波城は通販取り扱いしません。
それぞれ、販売日にもばらつきがありますのでご注意ください!
販売開始は8月1日(日曜)です
・一般社団法人袖ケ浦市観光協会
所在地 千葉県袖ケ浦市坂戸市場1-1(市役所5階)
TEL 0438-62-3436
営業時間 8:30~17:15
休業日 土日、祝日、年末年始
・FARM COURT袖ケ浦
所在地 千葉県袖ケ浦市袖ケ浦駅前1-39-12
TEL 0438-97-7855
営業時間 9:00~20:30
休業日 年末年始
・袖ケ浦公園 レストハウス菖蒲
所在地 千葉県袖ケ浦市飯富2360
TEL 0438-63-2118
営業時間 10:00~16:00
休業日 水曜、年末年始、悪天候
・Yショップつるや
所在地 千葉県袖ケ浦市蔵波26-1
TEL 0438-62-8516
営業時間 10:00~18:00
休業日 日曜、祝日、年末年始
《蔵波城のご説明》千葉県袖ケ浦市
蔵波城は築城年代や築城主などの詳細は不明ですが、近接する久保田城とともに、椎津城の支城だったともいわれていて、後に里見氏の城として、対北条氏の前線基地の役割を持っていたと考えられます。
蔵波城は椎津から木更津に通じる海岸沿いの街道を押え、さらに北側には長南、真里谷に通じるルートが存在する重要な地でした。そのため、蔵波周辺は上総武田氏、千葉氏、小田原北条氏、里見氏の抗争の舞台となりました。
東京湾に面した丘陵に築かれ、周囲には「殿畑(とのはた)」「宿畑(しくはた)」といった地名が残っています。開発により城跡のほとんどが崩され、現在は蔵波八幡神社が建つ丘陵部分(現在の蔵波小鳥の森)を残すのみですが、かつてはここから北に向かって、城域が展開していました。
蔵波城の西側は海が迫り、南側には防御の役目を担っていたと思われる蔵波川が流れていることからも、蔵波城が築かれた丘陵が要害の地であったことが見て取れます。
蔵波周辺には14世紀からの中世集団墓地が発見された神田遺跡をはじめ、五輪塔等の中世石塔物が多く残り、湊町として早くから栄えていたことがわかります。そのため、対岸の海賊衆から略奪にあうこともあり、武蔵国坂本村(現横浜市)の寺に「もと上総国望陀郡蔵波村八幡社の鐘」があったという伝えもあります。蔵波城は、早くから里見氏の経済拠点である蔵波湊の守護としても重要な場所でした。
蔵波城から北東約2kmの距離にある久保田城は、天正14年(1586年)頃には北条氏が支配し、整備を繰り返していたことが資料にあり、非常に近い位置で里見氏と北条氏が対峙していたことがわかります。
船戦の戦況を報告する書状も残っていて、蔵波城の前面の海で里見方と北条方が船戦を繰り広げ、北条方が勝利したことがわかっています。まさに蔵波城は戦国時代の江戸湾攻防の歴史を物語る城といえます。
《御城印デザインのご説明》
蔵波城と目と鼻の先の距離に築かれた久保田城、この両城の位置がわかる地図を御城印にデザインしました。そして、里見氏の家紋「二つ引両」を配置しました。
東京湾に面している袖ケ浦は、いつの時代においても海上交通の要衝にあたりました。さらに鎌倉街道も近くを通るため、周辺には古くからの伝承が数多く残ります。
江戸時代には浮世絵にも描かれ、美しい景色を誇った袖ケ浦周辺の沿岸部は、中世には戦いの舞台になりました。御城印には袖ケ浦からの風光明媚な景色をモチーフにするとともに、海を行き交う船を描きました。
販売場所
・京成佐倉駅前観光案内所
千葉県佐倉市栄町8番地7(佐倉市観光協会内)
043-486-6000
8:30~17:00
年中無休(年末年始は除く)
・JR佐倉駅前観光情報センター
千葉県佐倉市六崎169-17
043-485-9700
9:00~17:00
休業日:12月29日~1月3日
・ふるさと広場売店「佐蘭花」
千葉県佐倉市臼井田2714
午前9時~午後5時
年中無休(年末年始は除く)
《小篠塚城のご説明》千葉県佐倉市
小篠塚城は、印旛沼への最大流入河川である鹿島川に面した半島状の台地先端に築かれました。一部、発掘調査が行われていて、古墳時代の住居跡も検出されています。
小篠塚城の築城年代などの詳細は不明ですが、16世紀中頃から末頃と考えられる遺構が良好に残っています。現在は正慧寺(しょうけいじ)とその塔頭安養院が城内に建っています。
平安時代から鎌倉時代の初めには、小篠塚城の周辺は印東氏の領地でした。その後は、千葉氏の領地になり、15世紀前半には平河氏と宍倉氏が知行していたことがわかっています。
享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺。これにより、享徳の乱が起きました。
転戦中に本拠地鎌倉を占拠された成氏は鎌倉に入ることができず、古河城に入り、以後、古河公方と呼ばれるようになりました。享徳の乱の終結後も動乱が続き、文亀2年(1502年)から永正元年(1504年)までの間、成氏の跡を継いで2代古河公方となった政氏とその子である高基が小篠塚城に動座しました。動座した理由は定かではありませんが、その頃、政氏と千葉孝胤(のりたね)は関係が悪化していたともいわれていて、小篠塚城は当時の状況を考える鍵になる重要な城といえます。
《御城印デザインのご説明》
御城印には小篠塚城に動座した古河公方足利政氏、高基のそれぞれの花押をデザインしました。あわせて、初代足利公方成氏の花押もデザインしましまた。成氏の居城であった古河城が文明3年(1471年)に攻められ占拠された際、成氏が頼ったのは千葉孝胤(のりたね)でした。成氏は小篠塚城には入っていないと考えられていますが、小篠塚城は千葉氏ゆかりの城のため、この地域と古河公方の関係の深さが偲ばれます。
足利氏の家紋「二つ引両」と、古河公方を支援した千葉氏の家紋「月星」を描きました。
さらに御城印には、小篠塚城に動座した古河公方足利政氏、高基父子を描いた絵(正慧寺ご提供)をモチーフにしました。
道の駅水の郷さわら
千葉県香取市イ3981-2
電話0478-50-1183
営業時間 8時から18時 年中無休
寺嶋陶苑(てらじまとうえん)
千葉県香取市小見川268
電話0478-82-2322
営業時間 8時30分から18時30分 水曜日定休
《小見川陣屋のご説明》千葉県香取市
小見川陣屋は現在の小見川中央小学校の地に築かれた小見川藩の陣屋です。南北175m、東西150mほどの規模で、その敷地は黒部川河畔まで広がっていました。
徳川家康が関東に入ると、家康の家臣松平家忠が小見川に入封しましたが、家忠は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死しました。その後、土井利勝、安藤重信らが入るも、安藤氏の移封を受けて廃藩となりました。
寛永16年(1639年)に内田正信が下総国、常陸国で加増され大名になり、小見川藩主となりました。正信の死後、元禄元年(1688年)に小見川陣屋が置かれました。当初、内田氏の居所は下野国鹿沼でしたが、享保9年(1724年)に小見川に移り、小見川藩が再立藩され、以後明治まで内田氏は一万石の大名として存続しました。
小見川は香取の海に直結する水運の要衝のため、すでに鎌倉時代には千葉一族である粟飯原氏が領地としていたとも伝わっています。戦国時代になると、粟飯原氏が小見川城(現小見川城山公園)を築きますが、対抗勢力であった里見方の正木氏が下総国に侵出し、小見川城を攻撃。その際、正木方が小見川城攻めの陣城である橋向城を築いたのが後の小見川陣屋の地にあたります。
《御城印デザインのご説明》
小見川藩1万石の譜代大名内田氏は、遠江国内田郷に起源を持ち、今川氏、徳川氏に仕えました。慶安4年(1651年)、徳川家光の病死に際し、当時の当主正信は殉死を遂げました。その後を継いだ正衆(まさもろ)以降も、用水堰の整備などに尽力し、小見川を発展に導きました。御城印には内田氏の家紋「内田久留子(くるす)」を配置しました。
古くから水運の要衝だった小見川は、江戸時代には利根川舟運の河港として栄えました。陣屋にも黒部川から水路を引き込み、船着き場が設けられていました。このような陣屋は全国的にも珍しく、小見川陣屋の特徴といえます。御城印は繁栄を偲ばせる当時の陣屋の絵図をモチーフにし、小見川中央小学校の校舎の上に飾られていた鯱(しゃちほこ)をデザインしました。これは、江戸時代のものと推定されていて、明治16年に建設された第一校舎棟上に飾られていたものです。その校舎の解体にあたり屋根から下ろされ保管されています。