新しくデザイン&同封の説明文を書かせていただいた御城印のお知らせです✨
千葉県東金市の東金城といすみ市の国府台城です。
販売情報やお城の説明は以下です♡
どっちもまたまた我ながらカッコよくて、お気に入り♡
1月29日(土)から販売開始です♪歴×トキで通販取り扱いあり。

【東金城のご説明】千葉県東金市
東金城は東金市街地を見下ろす標高約70mの丘陵地に築かれた東金酒井氏の本城です。城域は東西約700m、南北約500mに及び、半独立丘陵全体が城郭化され、南側は断崖となっており、天険の地形を活かした縄張りといえます。
『鎌倉大草紙』によると、享徳の乱によって起きた千葉氏の内紛をうけて、美濃から下向した東常縁(とうつねより)が部下の浜春利を東金城に入れたとされますが、東金城の築城年代など詳細は不明です。関東に下向後は土気城(千葉市緑区)を本拠とし、東金城にも一族を入れ、土気酒井氏、東金酒井氏としてそれぞれ勢力を広げていきました。
土気・東金両酒井氏は、里見氏と北条氏の争いが激化すると両勢力に挟まれました。そして、最終的には両氏とも北条氏に属し、天正18年(1590年)の小田原の役を迎えました。
東金城は、『関八州諸城覚書(毛利文書)』などの文献から、小田原の役まで、東金酒井氏の本城として機能していたことが分かっています。発掘調査でも16世紀中葉から後半の遺物が出土しており、文献との年代の一致が確認されています。
慶長18年(1613)には、徳川家康の命により、鷹狩りを行うための東金御殿が築かれました。
【デザインのご説明】
東金城の御城印は東金酒井氏の家紋「右巴(右巻の巴)」をデザインしました。合わせて、東金御殿の絵図(「東金古城之図」)をモチーフにしました。東金御殿は東金城の跡地に建てられた鷹狩りのための御殿であるため、東金上空を舞う鷹の姿も描きました。
東金御殿の絵図(「東金古城之図」)は、天然の要害であった東金城の峻険さと規模が感じられる絵図になっています。さらには、城下を通る街道や宿も描かれていて、東金の地が要衝に当たることが見て取れます。
徳川家康によって築かれた東金御殿でしたが、寛永7年(1630年)の徳川秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われませんでした。そして、寛文11年(1671年)になると、御殿は取り壊されました。
販売場所
みのりの郷東金
〒283-0005
千葉県東金市田間1300-3
0475-53-3615
年中無休(1/1~1/3をのぞく・臨時休業あり)
9:00~18:00(11~2月は 9:00~17:00)

【国府台城のご説明】千葉県いすみ市
国府台城は夷隅川に面した台地に築かれた天然の要害です。現在、五柱神社が鎮座する平場が国府台城の主郭と考えられています。比高15mほどの台地の付け根を掘り切って独立させており、横堀も確認できます。かつては、「新郭」「城之内」という城郭地名も周辺に残っていたといいます。
万喜城土岐氏家臣の三階氏が城主との伝承も残りますが、築城主、築城年代など詳細は不明です。しかし、国府台城は土岐氏の本城万喜城から南西約1.5kmに位置していることから、万喜城の南方を抑えるための支城と考えられます。
夷隅川は国府台城の眼下でクランクしていて、その角部は流れが緩やかで船着き場にも利用できたと思われます。あわせて、国府台城の築かれた台地が夷隅川本流の渡河地を抑えられる唯一の場所であったとも考えられています。このように、国府台城は大多喜方面からの水運を抑えるとともに、さらには伊北と伊南を結ぶ街道に隣接し陸上交通を監視する役目も担っていたと考えられ、万喜土岐氏にとって重要な城郭だったことが推察できます。
また、国府台城から西へ三キロの距離に小田喜正木氏の支城とされる大野城があり、大野城と国府台城がそれぞれの勢力の境目の城として機能していたと推測されます。
天正初期以降は万喜土岐氏と小田喜正木氏との関係が悪化し、夷隅川を挟んで両者が向かい合ったと思われます。そのような状況下で、万喜土岐氏の最前線の城が国府台城だった可能性も指摘されていて、詳細は不明ながらもこの地域の歴史を物語る鍵になる城ともいえます。
【デザインのご説明】
万喜城の支城だったと考えられる国府台城の御城印には、土岐氏の家紋「水色桔梗」をデザインしました。そして、夷隅川に削られた断崖に築かれた要害堅固な国府台城をイメージしました。
「国府台」という地名の由来については諸説ありますが、そのひとつに鸛(こうのとり)が飛来する地だったという説があります。御城印には、鸛が夷隅川に飛来した美しい景観を描きました。
販売場所
〒298-0003
千葉県いすみ市深堀1885-9
「海の直売所 アルファ」
電話番号:080-2387-4192
営業時間 午前9時から午後5時 年中無休