網戸城・鏑木城の御城印発行
新しく千葉県旭市の御城印2城が販売開始になります。
網戸城と鏑木城です✨
網戸城は、木曽義昌が居城としたお城です。
木曽義昌は、信濃国木曽谷を拠点とする木曽氏の当主です。
武田信玄の娘を妻とし、武田氏に属しました。
その後、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、家康が関東に入ると義昌は網戸に移封となり網戸城を築きました。
木曽氏は木曽義仲を祖としていて、義昌は義仲の後裔と伝わります。
旭市の「旭」は「朝日将軍」と呼ばれた木曽義仲に由来します✨
御城印の情報と、詳しいお城の説明は下に書いておきますね♪
販売開始 2021年2月26日(土曜)
値段 300円(税込み)
販売場所
季楽里あさひ
〒289-2511
千葉県旭市イの5238番地
電話:0479-62-0888
9:00~17:00 年中無休
ネット販売
歴×トキHPにて https://www.rekitoki.com/
網戸城は九十九里平野の微高地に築かれました。この地は、北方に椿の海、南方は太平洋という水上交通の発達した地域です。
現在の東漸寺周辺一帯が網戸城の城域とされていて、主郭は東漸寺の西方、字「城之内」付近と考えられています。主郭と思われる箇所の南方には、「上宿」の集落が形成され、そこから城内へ続く道はクランクしていることからも、防衛線として機能していたことが推察できます。網戸城の規模や構造などは明らかになっていないものの、東漸寺には空堀や土塁などが残っています。
網戸城の築城主や築城年代などは不明ですが、応永年間(1394年-1418年)頃の築城とも、小田原北条氏の家臣大橋山城守康忠によって築かれたとも伝わります。
天正18年(1590年)の小田原の役の後、徳川家康の関東移封に伴い、木曽義昌が下総国阿知戸一万石に入りました。義昌は、近隣の福昌寺を仮陣屋とし、翌年に網戸城を改修整備し、居城としたとされています。義昌の死後、嫡男の義利が跡を継ぎましたが、慶長5年(1600年)に義利が叔父を殺害。それにより、家康から追放され、廃藩、廃城となり、その封地は幕府の直轄地となりました。
【御城印デザインのご説明】
木曽義昌は、信濃国木曽谷の領主木曽氏の第19代当主でした。弘治元年(1555年)に武田信玄に降って、その娘を妻としました。その後、織田氏、豊臣氏に属しますが、小田原の役の際に、自身の病気を理由に嫡男義利を出陣させたことから疑惑を持たれ、阿知戸に転封されたといわれています。
阿知戸において、善政を行い、城下の繁栄に心を砕いた義昌は、文禄4年(1595年)に没し、遺言により、その遺体は椿の海に水葬されました。
義昌は、木曽義仲(源義仲)の後裔と伝わっています。義仲は清和源氏源為義の孫にあたり、源頼朝の挙兵に呼応し、打倒平家の兵を挙げました。義仲は上洛の際、倶利伽羅峠の戦いで平家方に大勝し破竹の勢いで進軍したことから、朝日の昇る勢いになぞらえて、「朝日将軍」と称せられました。
江戸時代に、国学者の野々口隆正が木曽義昌の旧跡を訪れた際、義仲とその後裔である義昌を懐古して、「信濃より いづる旭をしたひ来て 東のくにに 跡とどめけむ」詠んだといい、この和歌が旭市の由来となっているといいます。
御城印には、市名の元になった「朝日」をモチーフにするとともに、木曽義仲の銅像をモチーフにしました。さらに、義昌の肖像画、兜(伝木曽義昌兜・東漸寺蔵)をデザインしました。
「鏑木城」
鏑木城は下総台地の北東端に位置し、南側にはかつて存在した「椿の海」が広がっていました。椿の海は寛文10年(1670年)に干拓が開始され、「干潟八万石」と呼ばれる水田地帯になりました。椿の海に面していた南側には「ネコヤ」と呼ばれる場所があり、さらに「岸湖」という字名が残っています。そのことからも、鏑木城が椿の海を利用した水上交通の要衝に築かれたことがよく分かります。
鏑木城は周辺の台地を城域に取り込むような形で築城されており、広義の城域は東西1000m、南北800mに及ぶことが発掘調査によって判明しました。空堀、土塁、櫓台が良好に残り、周辺には「北門」「馬場」などの字名も残っています。「内宿」の字名が残る北側集落は、当時の城下集落の形態をとどめています。さらに、主郭からネコヤ地区に下りる大手と思われる道筋が残っており、その道に沿って5段の腰曲輪が築かれています。このルートに対する備えのほどが見て取れます。
鏑木城の詳細は不明ですが、鏑木氏の居城とされ、鏑木氏は戦国時代に主筋の千葉氏を通して小田原北条氏に属しました。天正18年(1590年)の小田原の役の後、鏑木城は徳川家康によって接収され、その後、廃城になりました。
【御城印デザインのご説明】
椿の海に面し、急崖に囲まれた鏑木城の御城印は、周辺の地形が分かる地図を描きました。鏑木城は、中世においては東総地方の代表的な城郭だったと思われます。諸大名による諸家文書には、「かぶらぎ城 三百騎」と書かれていて、鏑木城が小田原の役まで機能していたことが分かっています。
鏑木氏の祖は『千葉大系図』によると、千葉胤定といわれています。胤定は千葉常胤の孫、胤時の子で、寛喜年間(1229年―1232年)に鏑木の地に入り、鏑木胤定を名乗ったと伝わります。鏑木氏は千葉城主代々の四天家老にその名があり、常に重要な役割を果たしていたことが分かります。御城印は、鏑木氏の祖と伝わる鏑木胤定の肖像画をモチーフにし、あわせて、千葉一族の家紋「九曜」、鏑木氏の家紋「月星」を配置しました。