« 三浦一族ツアー「佐原城&怒田城へ」 | トップページ | 鎌倉殿の13人・のあたび新ツアーのお知らせ »

2022年3月24日 (木)

新しい御城印発行のお知らせ

新しい御城印が完成しました。すべて3月26日(土)から販売開始です。通販もすべて取り扱います。

神奈川県南足柄市  「岩原城」「沼田城」
千葉県匝瑳市    「飯高城」「天神砦」「飯高砦」
埼玉県比企郡小川町 「四ツ山城」

各お城の説明と販売場所情報は以下です✨
四ツ山城はツアーあります。もしよろしければ。
山城ガールむつみの「四ツ山城」出陣のススメ!〜鎌倉街道上道と神秘の板碑工房も〜 | おいでなせえ小川町 (ogakuru.jp)


Img_8959

南足柄市観光協会(南足柄市役所内)

 〒250-0192

 南足柄市関本440

 ℡0465-73-8031

 取り扱い御城印:岩原城、沼田城

 販売時間:午前8時30分~午後5時  定休日:土曜日 日曜日 祝日

 

伊豆箱根鉄道大雄山線大雄山駅

〒250-0105

 南足柄市関本592

 ℡0465-74-2058

 取り扱い御城印:岩原城

 販売時間:始発から終電まで  定休日:なし

 

【岩原城のご説明】神奈川県南足柄市

岩原城は足柄平野の西部に位置する岩原に向かって延びた舌状台地の突端に築かれました。岩原城南側の尾根を挟んで沼田城があります。

岩原城の東端に鎮座する岩原八幡神社は源頼義創建と伝わり、頼朝も富士の巻狩の際に立ち寄り、社殿を改修したといいます。八幡神社の麓には甲州道が通っていて、岩原城の築かれた地が古くから交通の要衝であったことがわかります。開発前は北側が深い沢、南側は急崖となっていて、さらに周辺は広範囲に渡り湿地だったと思われ、まさに天然の要害でした。

岩原城は複数の郭で構成され、周囲を空堀が取り囲んでいたといいます。開発で削られたり、畑地になっているものの、空堀の痕跡の一部が確認できます。さらに、周辺には「的場」「清泉」など、城に関連する地名が残り、大森氏頼(寄栖庵)の墓と伝わる石塔も残ります。

岩原城の築城等についての詳細は不明ですが、大森氏の城と伝わっています。大森氏は駿河国を出自とし、応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱をきっかけに相模国に勢力を広げました。相模国に入った大森氏は小田原城を本拠としますが、足柄峠の麓に位置し、足柄平野への入口にあたる岩原城を小田原城と同じように重要視したと考えられます。

大森氏は家臣加藤氏を岩原城の城代としていたと伝わりますが、その後、大森氏頼が岩原城を居城にしたといいます。享徳の乱(1454年)以降、氏頼は扇谷上杉氏の重臣として活躍し、扇谷上杉氏、三浦氏と姻戚関係を結ぶなどし、勢力を拡大しました。

しかし、明応3年(1494年)に氏頼が死去すると、小田原城を伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ、大森氏は衰退しました。その後の岩原城については不明ですが、小田原北条氏による改修も指摘されています。

 

 

【御城印のご説明】

岩原城は『新編相模国風土記稿』に城絵図が描かれています。その絵図には、東を通る甲州道、そしてそれに沿うように町場が描かれていて、岩原城や八幡神社が街道に接している当時の様子がよく分かります。その『新編相模国風土記稿』に描かれた絵図を御城印のモチーフにしました。 

そして、大森氏の家紋「二つ巴」と、岩原城が築かれた台地の地形が分かる地図をデザインしました。

大森氏頼は西相模の雄として戦国時代にその存在を刻みました。その勇姿をイメージし、武者の姿を描きました。

 


Img_8958

南足柄市観光協会(南足柄市役所内)

 〒250-0192

 南足柄市関本440

 ℡0465-73-8031

 取り扱い御城印:岩原城、沼田城

 販売時間:午前8時30分~午後5時  定休日:土曜日 日曜日 祝日

 

伊豆箱根鉄道大雄山線相模沼田駅

〒250-0115

南足柄市沼田68

℡0465-34-4089

取り扱い御城印:沼田城

販売時間:午前7時~午後10時 定休日:なし



【沼田城のご説明】神奈川県南足柄市

沼田城は明神岳からの尾根が足柄平野に向かって延びた突端の小丘に築かれました。沼田城北側の尾根を挟んで岩原城があります。沼田城周辺には甲州道が通り、古くからの交通の要衝であったことがわかります。

沼田城の築城等についての詳細は不明ですが、松田、河村、沼田、大友周辺に勢力を広げていた波多野氏の庶流である沼田氏の城だったとも伝わります。沼田氏は応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱で、禅秀に味方し、衰退したといわれています。その際、禅秀の乱を鎮圧しに相模国に入ったのが大森氏と考えられています。

大森氏は駿河国を出自とし、上杉禅秀の乱をきっかけに相模国に勢力を広げました。相模国に入った大森氏は小田原城を本拠としますが、足柄平野への入口に当たる足柄峠の麓に沼田城をはじめとするいくつかの城を築城ないしは改修整備して、小田原の防衛としたと推測されます。北側に築かれた岩原城は大森氏頼(寄栖庵)が晩年の居城としたと伝わり、この地域を重要視していたことが分かります。

享徳の乱(1454年)以降、氏頼は扇谷上杉氏の重臣として活躍し、扇谷上杉氏、三浦氏と姻戚関係を結ぶなどし、勢力を拡大しました。

しかし、明応3年(1494年)に氏頼が死去すると、小田原城を伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ、大森氏は衰退しました。その後の沼田城については不明ですが、小田原北条氏による改修も指摘されています。

 

【御城印のご説明】

沼田城の御城印は『新編相模国風土記稿』に描かれている絵図をモチーフにしました。絵図には、怒田(沼田)村や酒匂川が描かれています。

そして、大森氏の家紋「二つ巴」と、沼田城が築かれた台地の地形が分かる地図をデザインしました。

大森氏頼は西相模の雄として戦国時代にその存在を刻みました。その勇姿をイメージし、槍を持った武者の姿を描きました。沼田城西側の坂には「槍持坂」という名が残っています。

 

 
Img_8558

そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休



【飯高城のご説明】千葉県匝瑳市

飯高城は借当川北岸の標高約36mの丘陵に築かれました。現在の飯高寺(はんこうじ)周辺が城域とされていて、南方には飯高城の支城とされる飯高砦、新砦、さらに東方には天神砦が築かれています。これらのことから、広義の飯高城はかなり大規模であると考えられ、台地全体を城郭化することで連携して飯高城の防衛に当たっていたと推察されます。

鎌倉時代中期から南北朝期において、当地は千葉一族である飯高氏の本貫地でした。そのため、飯高氏が築城したとの伝承もありますが詳細は不明です。

戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。平山氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、飯高城は小田原の役をもって廃城となったと考えられます。

平山刑部少輔は日蓮宗に篤く帰依しており、天正19年(1591年)に城地のすべてを寄進し、日蓮宗の檀林として飯高寺が開かれたといわれています。(飯高寺は天正8年、平山刑部少輔を開基としています。)

周辺には「城下(ねごや)」「鳴子山」「腰巻」など、城郭に関連する地名が残っています。さらに飯高寺の境内には、空堀、土塁、腰曲輪などの城郭遺構も残っていて、戦国期の飯高城の構造や規模がわかります。

 

【御城印のご説明】

飯高寺は戦国時代の終わりから明治7年(1874年)まで、日蓮宗の学問所である檀林として栄えました。日本三大檀林と呼ばれ、多くの学僧を輩出しました。この檀林が立正大学の前身です。飯高寺の境内全体が県指定史跡に指定されています。

飯高寺の地にかつて存在した飯高城の御城印には、江戸時代に建てられた山門をモチーフにしました。あわせて、飯高氏の出自である千葉氏の家紋「月星」、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。さらに、徳川家の家紋「三つ葉葵」をデザインしました。飯高寺は徳川家康から寺領30石の寄進を受け、さらに家康の側室「お万の方」と繋がりが深い寺でした。お万の方は、正木氏の出で、日蓮宗に深く帰依しており、飯高寺に今に残る妙見菩薩もお万の方の奉納によるものです。そのことから、御城印には、妙見菩薩をイメージし描きました。さらに、お万の方は講堂を寄進するなど、飯高檀林の繁栄に尽力しました。

 



Img_8556

そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休

 

【天神砦のご説明】千葉県匝瑳市

天神砦は飯高城の東方300mほどの台地に築かれた城郭で、飯高城防衛を担う城郭群の一つだったと考えられます。天神砦は新砦、飯高砦などと連携していたと思われることから、周辺の城郭群を含めた広義の飯高城はかなり大規模であると考えられ、台地全体が広範囲に渡り城郭化されていたと推察されます。

現在の天神砦には、土塁、堀切、竪堀遺構などが良く残り、戦国期の城郭の構造を小さい城郭ながらコンパクトに学び取れる貴重な城郭遺構といえます。

鎌倉時代中期から南北朝期において、当地は千葉一族である飯高氏の本貫地で、戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。平山氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、飯高城は小田原の役をもって廃城となり、周辺の城郭群もその役目を終えたと考えられます。

 

【御城印のご説明】

飯高城防衛のための城郭である天神砦の御城印には、飯高城の築かれた台地や地形がわかる地図をデザインしました。

あわせて、飯高氏の出自である千葉氏の家紋「月星」、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。さらに、天神砦の主郭には天神社が鎮座することから、梅の花をモチーフにしました。天神社の境内に立つ巨木もデザインしました。

 



Img_8557

そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休

 

【飯高砦のご説明】千葉県匝瑳市

飯高砦は現在の妙福寺裏山に築かれた城郭で、山頂には飯高神社が鎮座しています。飯高砦の詳細は不明ですが、現在の飯高寺(はんこうじ)周辺が城域とされている飯高城の南方800mに位置するため、新砦、天神砦などと連携して飯高城防衛を担う城郭群の一つだったと考えられます。これらのことから、周辺の城郭群を含めた広義の飯高城はかなり大規模であると考えられ、台地全体が広範囲に渡り城郭化されていたと推察されます。

麓の妙福寺は谷戸式居館の様相を呈することから、山麓に屋敷、山頂に防衛施設が築かれていた可能性も指摘されています。

鎌倉時代中期から南北朝期において、当地は千葉一族である飯高氏の本貫地で、戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。平山氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、飯高城は小田原の役をもって廃城となり、周辺の城郭群もその役目を終えたと考えられます。

 

【御城印のご説明】

飯高砦、天神砦、新砦などの城郭群などが広義の意味での飯高城を形成していたと思われることから、飯高城の築かれた台地や地形がわかる大正時代に描かれた飯高寺の絵図をモチーフにしました。飯高寺はかつての飯高城の台地に築かれています。

あわせて、飯高氏の出自である千葉氏の家紋「月星」、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。飯高砦の麓に建つ妙福寺は、延慶3年(1310年)に新藤太縦空(たじゅうくう)が妙見菩薩を祀ったとされていて、妙見信仰は千葉一族が深く帰依していることから、千葉一族との関係が垣間見えます。





Img_8349_20220324211601

〒355-0328

埼玉県比企郡小川町大塚47-3

おいでなせえ小川町駅前店

電話0493-59-6988

営業時間10:00-18:00

定休日なし



【四ツ山城のご説明】埼玉県比企郡小川町

四ツ山城は、現在四津山神社が鎮座する標高約200m、比高約100mの山陵に築かれました。城山である四津山は、山頂部が四つあることからその名が付いたといわれています。なお、城跡としての史跡名称は「四ツ山城」で、地名は「四ツ山」と表記します。別名「高見城」とも呼ばれています。

四ツ山城の眼下には鎌倉街道上道が通っていて、四ツ山城はこの街道を押さえる目的を担っていたと考えられます。さらに、鎌倉街道と並行するように市野川が流れていることから、この地が水陸交通の要衝だったことが分かります。

四ツ山城の築城等の詳細は不明ですが、『新編武蔵国風土記稿』の四ツ山城の項には「増田四郎重富居蹟」と記されています。『増田家系譜』によると、増田四郎重富は古河公方の家臣だったとされ、上増田(深谷市)から四津山に移り、城を築いたと伝わっています。

享徳の乱(1454年)以降、古河公方と山内上杉氏、扇谷上杉氏が対立を深めたことにより、比企地方は諸勢力に挟まれ、緊迫した状況に置かれたと推察されます。扇谷上杉氏の家宰太田道灌が高見に在陣したとも伝わり、道灌の死後に長享の乱(1487年)が起きると、四ツ山城眼下の高見原で扇谷、山内両上杉軍が激戦を繰り広げた高見原合戦が行われました。

その後、北武蔵を小田原北条氏が支配するようになると、四ツ山城も北条氏の支城として鉢形城と松山城へ繋がる街道を押さえる役目を果たし、小田原の役でその役目を終え、廃城となったと考えられます。

 

 

【御城印のご説明】

四ツ山城眼下の鎌倉街道上道には「奈良梨」という宿があります。この宿は、鎌倉時代末期にはすでに形成されていたことが分かっていて、戦国時代には宿駅として繁栄していました。さらに、高見と菅谷に伝馬が継立されていたことが天正10年(1582年)の『北条氏伝馬掟』から分かっています。御城印にはこの街道を行き交う軍勢をモチーフにしました。

四ツ山城は菅谷、杉山、鉢形と連携していたと考えられているため、狼煙を描き、さらに増田氏の表家紋と裏家紋、北条氏の三つ鱗をデザインしました。

 






|

« 三浦一族ツアー「佐原城&怒田城へ」 | トップページ | 鎌倉殿の13人・のあたび新ツアーのお知らせ »

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

千葉一族」カテゴリの記事

山城」カテゴリの記事

御城印」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 三浦一族ツアー「佐原城&怒田城へ」 | トップページ | 鎌倉殿の13人・のあたび新ツアーのお知らせ »