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2022年4月22日 (金)

和田城・松尾城・埴谷城の御城印販売開始のお知らせ

4月23日(土)から新しい御城印が販売されますのでお知らせです。
千葉県香取郡東庄町の和田城、千葉県山武市の松尾城と埴谷城の3城です。
またデザインと同封説明文を担当させていただきました。

詳細はこちら。


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【和田城のご説明】千葉県香取郡東庄町

和田城はかつての椿の海から入り込んだ入江左岸の丘陵に築かれました。周辺を湿地に囲まれた要害だったと思われ、「舟戸」の地名が残ることから、水運と密接に繋がっていたことが分かります。谷を挟んで南方には桜井城、入江を挟んで北東に大友城があることからこの地域の重要性が分かります。さらに、須賀山城、森山城、小見川城などの主要城郭へ続く北進する街道が付近を通っていて、まさに水陸の要衝地です。

和田城の築城等の詳細は不明ですが、千葉一族である上代(かじろ)氏の居城だったと伝わり、城内には千葉神社が鎮座しています。千葉神社の北方直下には三日月形の横堀が掘られ、さらに一段下に横堀が入り、そこから雛壇状の曲輪が続いています。その下は根小屋集落が形成されていたと考えられ、今でも当時の雰囲気を色濃く残しています。

和田城は主要な2つの曲輪で形成され、その曲輪を守るように横堀、土塁、腰曲輪が施されていて、戦国時代の城郭の姿を良好に残しています。 

 

【御城印デザインのご説明】
千葉一族である上代氏の居城と伝わる和田城の御城印には、千葉氏の家紋「月星」、「九曜」をデザインしました。そして、椿の海へと続く水上交通の要衝地だったと思われることから、近くを船が行き交う様子を描きました。

和田城には合戦が行われた伝承が残っています。真偽のほどは定かではありませんが、正木氏の下総侵攻の際にこの地域がかなり緊迫した状況下に置かれたことが推察され、戦死者を祀ったと伝わる「左右大神」などが残ることから、和田城周辺で何らかの戦闘があったことが推測できます。そのため、御城印には和田城で奮戦する上代氏とその家臣団をイメージしました。

なお、東庄町発行の和田城の御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。

和田城のご購入はコチラ

○東庄町役場
千葉県香取郡東庄町笹川い4713-131
0478-86-6075(東庄町観光協会事務局)

○東庄町観光会館
千葉県香取郡東庄町笹川い580-1
0478-86-6075(東庄町観光協会事務局)

 

○まるごとしすい

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)



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【松尾城のご説明】千葉県山武市

松尾城は明治2年に築かれた松尾藩の城です。明治元年に徳川家が駿河、遠江に移封になったことを受けて、遠江国掛川藩は上総国に国替えとなりました。当初は芝山観音経寺(山武郡芝山町)を仮藩庁としたため、柴山藩と称していましたが、その後、大堤村、猿尾村、八田村、田越村の村域に新たに城郭を築き、藩庁と城下町を建設することになりました。新たな城郭は、九十九里浜を望む木戸川東岸の台地に占地され、西洋の稜堡式多角形要塞の建築が始まりました。

そして、掛川城本丸の南にあった「松尾池」、その南の「松尾曲輪」に因み、城名を「松尾城」としました。明治3年に藩庁(現松尾自動車学校)と藩主の居館である御住居地(現松尾中学校)、そして城下町が完成すると、柴山から移り、藩名を「松尾藩」に改称し、太田資美を藩主とする松尾藩5万石が成立しました。

しかし、明治4年に廃藩置県を迎えたため、松尾藩はその他の諸藩とともに松尾県に組み込まれ、松尾城は未完のまま廃城となりました。

松尾城は当初の計画では四稜郭の予定でしたが、地形等の制約により、最終的には三稜郭となりました。三稜郭は日本では松尾城が唯一となる貴重な遺跡です。

 

【御城印デザインのご説明】

松尾城の御城印には、松尾藩主太田氏の家紋「丸に桔梗」をデザインしました。松尾藩が成立したときの当主資美から数えて15代前の当主が道灌(資長)にあたります。道灌は桔梗紋を好んだと伝わっています。あわせて、「違い鏑矢」の家紋もデザインしました。この家紋は桔梗紋よりも古い時期から太田家で使われていたともいわれています。

そして、「臨時築法四稜城之図」をモチーフにしました。これは松尾城の計画絵図と考えられていましたが、調査の結果、16世紀初頭にオランダが植民地に築いた城塞とほぼ同じであることが判明しました。この絵図の入手経路などは不明なものの、松尾城築城には蘭学が大きな影響を及ぼしたことが分かる貴重な図面といえます。 

さらに御城印には掛川城の天守をデザインしました。掛川城から移封になりながらも、新たな城名と藩名に「松尾」の名を付けた藩主と藩士らの想いが偲ばれます。

 


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【埴谷城のご説明】千葉県山武市

埴谷城は山武市内を南北に流れる境川の左岸に広がる台地上に築かれました。標高は40mほどですが、周囲はかつて水田となっていて、湿地に囲まれた要害です。

台地の突端を利用し、地形に沿った五角形の単郭構造となっていて、腰曲輪が周りを囲んでいます。折れを伴う土塁や堀の痕跡が見て取れます。

築城等の詳細は不明ですが、上杉禅秀家臣の埴谷氏や、千葉一族宍倉氏との関連が指摘されています。
埴谷氏は、秩父平氏を出自とすると伝わり、関東管領を務める家柄の犬懸上杉氏の執事だったといわれています。犬懸上杉氏は上総国守護を務めていたため、埴谷氏がいずれかの段階で上総国埴谷に入植したと考えられます。重氏の代に、主人である犬懸上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こした「上杉禅秀の乱(1416年)」が勃発しました。翌年、乱は鎮圧され、禅秀は鎌倉で自害しましたが、上総国内で禅秀方の残党が処遇に対する不満から上総本一揆とよばれる一揆を形成し、鎌倉府の軍勢と戦いました。その上総本一揆の拠点のひとつが埴谷城だったと考えられています。

 

【御城印デザインのご説明】

埴谷城の御城印には、千葉氏の家紋「月星」、千葉一族宍倉氏の家紋「九曜」と、埴谷氏の主家である上杉氏の家紋「竹に雀」をデザインしました。埴谷氏は「鍋かむり日親」で有名な、日蓮宗の高僧日親(1407年-1488年)を輩出した家です。日親は、埴谷城下の妙宣寺で修行したといいます。

あわせて、埴谷城の築かれた台地の地形が分かる地図と、上総本一揆の拠点のひとつだった埴谷城に集まった埴谷重氏をはじめとする上杉禅秀の残党の姿をイメージしました。

 

 松尾城と埴谷城のご購入はコチラ

○わがまち案内処(山武市観光協会)

〒289-1345 千葉県山武市津辺361-13

0475-82-2071

営業時間9:00~16:00

休館日12月29日から翌年1月3日

 

○道の駅あずの里いちはら

市原市浅井小向492-1
TEL 0436-37-8891

営業時間 午前9時~午後6時 ※一部営業時間が異なります。
定休日 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日) 、1/1~1/3

 

○千葉ポートタワー

千葉市中央区中央港1丁目
電話:043-241-0125

[6月~9月]
9:00~21:00(毎日)
[10月~5月]
9:00~19:00(月~金)
9:00~20:00(土日祝)
※最終入館は閉館時間の30分前までになります。

休館日12月28日~1月4日、2月28日(月)

※安全上において、強風等により臨時休業する場合があります。

 

○まるごとしすい

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)




 

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