千葉県香取市の岩ヶ崎城御城印が発行になりました。
岩ヶ崎城は鳥居元忠ゆかりの城。
いま、大河ドラマでとても目立ってるカッコイイ鳥居元忠ゆかりの城です。
(鳥居元忠ゆかり、2回言いました笑)
1590年の小田原合戦後に、徳川家康が関東に入ってくると、自分の家臣団を関東の要所に配置しました。
本多忠勝を大多喜城、鳥居元忠を岩ヶ崎城、三浦重成を大網(佐倉などもふくめ)、井伊直政を箕輪城などに。
岩ヶ崎城に入った鳥居元忠はここから伏見城の戦いに出陣。
そこで討ち死にを遂げました。
岩ヶ崎城はあまり知られていませんが、とても面白い歴史を秘めた城なんです。
また、香取市は9月9日に講演会もあるので、ぜひフラリとお越し下さい。
講演会情報はこちら。
香取市講演会のお知らせ: 山城ガールむつみの出陣ノススメ (cocolog-nifty.com)
岩ヶ崎城の御城印は8月26日(土)から販売開始です。
お城の説明と販売情報は以下です✨
【岩ヶ崎城のご説明】千葉県香取市
岩ヶ崎城は、かつての内海「香取の海(現利根川)」に向かって伸びる台地の北端に築かれました。城山の標高は30m程ですが、湿地や湖沼、海に囲まれた要害だったと考えられます。現在、城山には稲荷神社と愛宕神社が祀られています。周辺には「城之内」「堀之内」「カラ堀」「大手」「若殿宿」などの地名が残っています。
現在でも千葉県と茨城県の県境にあたる岩ヶ崎城は、中世期においても下総国と常陸国の国境にあたることからも、岩ヶ崎城の緊迫した状況が推察できます。
岩ヶ崎城の詳細は不明ですが、千葉一族国分氏が築城に着手した可能性はありそうです。国分氏の本城は矢作城(大崎城)ですが、水運の抑えのため、さらには国境の防衛のために岩ヶ崎城を築城したとも考えられます。国分氏の主家である千葉氏が小田原北条氏の配下となると、国分氏も北条氏に属しました。そのため、岩ヶ崎城も北条氏方の城として、里見氏や正木氏、さらには常陸国の佐竹氏に備えたと考えられます。
天正18年(1590年)の小田原の役によって北条氏が滅び、関東に徳川家康が入部すると、岩ヶ崎城には家康配下の鳥居元忠が入り、下総矢作藩4万石が立藩されました。元忠は藩統治の拠点のひとつとして岩ヶ崎城の大規模な改修整備を始めたとされています。おそらく、常陸国佐竹氏への備えだと推察されます。
しかし、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる伏見城の戦いで元忠は戦死。これにより、岩ヶ崎城の改修が中止され、元忠の息子忠政が磐城平藩へ移封されると、矢作藩は廃藩となり、岩ヶ崎城は廃城となりました。
【御城印のご説明】
要害性の高い岩ヶ崎城の御城印には、海に向かって突き出す城山の地形がわかる地図をデザインしました。
そして、千葉一族国分氏ゆかりの城であるため、千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。あわせて、天正18年以降に入部した鳥居氏の家紋「竹に雀」「鳥居」を配置しました。
また、徳川家康から信頼の厚かった鳥居元忠ゆかりの城であることから、元忠の所用兜「鉄錆地椎実形兜」、所用籠手「袖付三本筒籠手」をモチーフにしました。これらは、元忠を祭神とする栃木県都賀郡壬生町に鎮座する精忠神社の社宝です。さらに鳥居元忠画像(壬生町・常楽寺所蔵)をモチーフにしました。
壬生は岩ヶ崎から陸奥国磐城平藩、出羽国山形藩、信濃国高遠藩、能登国下村藩、近江国水口藩への転封を経て、正徳2年(1712年)に鳥居家が入封した地であり、明治維新を迎えた地です。
販売情報
〇道の駅水の郷さわら
千葉県香取市イ3981-2
電話0478-50-1183
営業時間 8時から18時 年中無休
〇寺嶋陶苑
千葉県香取市小見川268
電話0478-82-2322
営業時間 8時30分から18時30分 水曜日定休
〇まるごとしすい
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2
043-376-6810
営業時間 9時~18時
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)