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2023年11月23日 (木)

仲島城の御城印販売開始のお知らせ

新しく千葉県旭市の「仲島城」の御城印が発行になります。
デザインと説明文書かせていただきました。
仲島城は椿海に面した城で、低い台地ながらも水上交通と密接に結びついた大事な城であったことが現地に行くと分かります。
よかったら現地に行ってみてください。
神社が残り、わずかな遺構を残す程度ですが周辺には良い雰囲気の集落が残り、歴史を感じることができて楽しいです♪
お城の情報や販売情報は以下をご覧下さい✨

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販売開始
2023年11月25日(土曜)

販売場所
◎季楽里あさひ
〒289-2511
千葉県旭市イの5238番地
電話:0479-62-0888
9:00~17:00 年中無休

◎まるごとしすい
〒285-0912
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810
営業時間 9時~18時 
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)


仲島城の説明
かつて存在した椿海(つばきのうみ)の南側の台地に築かれました。椿海を水堀代わりとした要害であったと考えられます。かつて、この地域は「大田村」と呼ばれており、『旭市史』には、椿海に面した湊町だったと書かれています。
椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄町、旭市、匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西12km、南北4kmにおよびました。古代から中世において、重要な水運を担う水上交通の大動脈でした。そのため、椿海を囲むようにたくさんの城郭が築かれました。
現在、仲島城の周りは開発され住宅地となっていますが、浅間神社を中心に周囲には平場が残っていて、腰曲輪や土塁などの城郭遺構が確認できます。
仲島城の築城などに関する詳細は不明ながらも、正中元年(1324年)に千葉一族の大須賀尾張守が築城したとされ、大須賀八左衛門が城主となったと伝わっています。
戦国時代、仲島城の大須賀氏は福岡城(匝瑳市)の城主押田氏と連合していた時期があり、東総地域における反小田原北条氏の中核となっていたようです。天文16年(1547年)、大須賀氏は、押田氏とともに仲島城を拠点に北条方の勢力と戦ったと伝わり、「大田合戦」と呼ばれる激しい戦いが行われたとされます。仲島城では、500名以上の戦死者が出たと伝わります。
さらに、大田合戦の3日後には、八日市場城にて「八日市場合戦」が行われ、この戦いでも800名近くの戦死者が出たと伝わっています。これらの戦いを経て、東総地域の反小田原北条勢力は、ついに北条氏の勢力下に入ったと考えられています。
永禄元年(1558年)には、加瀬肥後守が城主だったと伝わり、大須賀氏に代わって加瀬氏が仲島城に入ったと考えられています。その後、永禄8年(1565年)に里見方の正木時忠が府馬方面から来襲。その後も度々、正木氏による攻撃を受けますが、加瀬氏はこれを撃退したと伝わります。豊臣秀吉による小田原の役(1590年)の際に仲島城は降伏開城し、その後、廃城となりました。

 

御城印デザインの説明
千葉一族大須賀氏が築城した仲島城の御城印には、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。
また、低い台地でありながら、椿海を水堀代わりに使用した要害であった仲島城の地形が分かる地図をモチーフにしました。中世期においては、椿海沿岸にはたくさんの城が築かれており、仲島城もそれらの城と水上交通を介して連携していたと思われ、内陸部の河川湖沼の水運や湊の掌握を目的とする水城(みずじろ)の機能を有していたと推察されます。
何度も合戦があったとされる伝承を持つ仲島城の御城印には、舟で攻め寄せる戦いの場面をイメージとして描きました。

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