今月は私がデザインさせていただいた御城印が2城発行になりました。
現地で是非お求めください✨
猿掛城は、先日ツアーで訪れましたがとっても楽しい城です。
今度、ブログで紹介しますね。
①岡山県矢掛町「猿掛城」
12月18日から販売開始
【猿掛城のご説明】
猿掛城は矢掛町と倉敷市にまたがって広がる丘陵から北方に張り出した標高約250mの猿掛山に築かれました。北麓には小田川が流れ、さらに小田川と並行するように山陽道が通る水陸交通の要衝地です。
猿掛城は鎌倉時代に庄家長によって築かれたと伝わります。庄氏は、武蔵国児玉郡(埼玉県本庄市)を本拠とする氏族で、源頼朝の挙兵に従いました。家長は平家追討の一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いなどで活躍し功を上げ、備中国で地頭となり、猿掛城を築き領地経営にあたったとされます。以降、猿掛城を本城とし、室町時代には備中守護代になるほど勢力を拡大しました。
15世紀終わり頃、備中守護細川氏と細川本家である細川京兆家が激しく対立すると、庄家当主元資は京兆家の後ろ盾を受けて守護細川氏と対立。それにより、猿掛城は守護方の軍勢の攻撃を受け、元資は逃亡、家臣香西五郎衛門は城内で切腹したと伝わります。その後、守護細川氏と庄氏は和睦しました。
天文22年(1553年)、尼子氏の配下にあった庄氏と、毛利氏と結んでいた鶴首城主三村家親の対立により、「猿掛合戦」と呼ばれる戦いが起き、城下で激しい戦いが繰り広げられたといいます。結果、庄氏は三村氏から元祐(元資)を養子として受け入れることを条件に和睦を結び、三村氏の配下に組み込まれていきました。これにより、城代であった庄実近は城内の太夫丸に移ったと伝わります。
しかし天正3年(1575年)、三村氏が毛利氏から離反すると、猿掛城は毛利氏から攻撃され落城。以降、毛利元清(元就の4男)が猿掛城主となり、毛利方の城になりました。水攻めで有名な豊臣秀吉による備中高松城攻めでは、猿掛城には毛利輝元が入り、毛利方の本陣になりました。元清が猿掛城より少し西に位置する茶臼山に城を築き移ると、猿掛城は地域の拠点としての役目を終えたと考えられます。
【御城印デザインのご説明】
猿掛城の御城印には、鎌倉時代から戦国時代まで猿掛城を本城とした庄氏の家紋「軍配団扇紋」をデザインしました。あわせて、庄氏に養子を送り、実質的に支配下に組み込んだ三村氏の家紋「丸に三つ柏」、さらに三村氏に替わって猿掛城に入った毛利氏の家紋「一文字に三つ星」をデザインしました。
また、庄家長が源平合戦の際に、平清盛の5男重衡を捕らえたと伝わることから「平家物語絵巻」をモチーフにしました。
さらに、古くからの交通の大動脈であった小田川と山陽道を臨む要衝地に築かれた猿掛城の城山の山容と、地形がわかる地図をそれぞれモチーフにしました。
販売場所
〇やかげビジターセンター問屋
小田郡矢掛町矢掛1989
営業時間:9:00~17:00(年中無休。年末12/30~1/2休み)
電話番号:0866-83-0001
②千葉県匝瑳市「宮和田城」
12月30日から販売開始
【宮和田城のご説明】千葉県匝瑳市
宮和田城は借当川の南側に位置し、北に向かって大きく突き出した台地上に築かれました。この台地の北側突端には大浦城、西側突端には長岡城が築かれています。
宮和田城の築城等に関する詳細は不明ですが、伝承によれば千葉氏の系統である椎名一族、宮和田氏の居城とされています。大浦城の大浦氏、長岡城の長岡氏は宮和田氏とともに椎名一族の系統であると考えられていて、その立地から宮和田城、大浦城、長岡城が連携して機能していたことが推察されます。
借当川は中世においては「境川」と呼ばれ、北条庄と南条庄の境界河川となっていました。宮和田城を含む借当川より南側は、当時は南条庄に属し、椎名氏が領していました。
一方、借当川より北側の北条庄は飯高一族が領していて、南条庄の椎名一族との間でたびたび争いが起きました。それにより、緊迫したこの地域には多くの城が築かれたと考えられます。
宮和田城は、現在集会所が建っている区画が主郭だったと考えられていて、いまも周囲には土塁が残ります。この主郭を中心に東西に曲輪が展開します。南側には街道が通り、かつての城下の道筋と考えられています。その街道を挟んで西側には瘡神社が建っていて、境内の西端には物見台と伝わる高まりが残っています。このように宮和田城は、城下の街道を挟み込むような構造をしていることから、松山方面と飯高方面を結ぶ街道の押さえの役目を担っていたと考えられます。宮和田城は借当川の水運のみならず、水陸両方の交通の要衝地に築かれ、大浦城や長岡城と連携して機能していた地域の重要な城であることが見て取れます。
【宮和田城のご説明】
宮和田城は借当川の南側に位置し、北に向かって大きく突き出した台地上に築かれました。この台地の北側突端には大浦城、西側突端には長岡城が築かれています。
宮和田城の築城等に関する詳細は不明ですが、伝承によれば千葉氏の系統である椎名一族、宮和田氏の居城とされています。大浦城の大浦氏、長岡城の長岡氏は宮和田氏とともに椎名一族の系統であると考えられていて、その立地から宮和田城、大浦城、長岡城が連携して機能していたことが推察されます。
借当川は中世においては「境川」と呼ばれ、北条庄と南条庄の境界河川となっていました。宮和田城を含む借当川より南側は、当時は南条庄に属し、椎名氏が領していました。
一方、借当川より北側の北条庄は飯高一族が領していて、南条庄の椎名一族との間でたびたび争いが起きました。それにより、緊迫したこの地域には多くの城が築かれたと考えられます。
宮和田城は、現在集会所が建っている区画が主郭だったと考えられていて、いまも周囲には土塁が残ります。この主郭を中心に東西に曲輪が展開します。南側には街道が通り、かつての城下の道筋と考えられています。その街道を挟んで西側には瘡神社が建っていて、境内の西端には物見台と伝わる高まりが残っています。このように宮和田城は、城下の街道を挟み込むような構造をしていることから、松山方面と飯高方面を結ぶ街道の押さえの役目を担っていたと考えられます。宮和田城は借当川の水運のみならず、水陸両方の交通の要衝地に築かれ、大浦城や長岡城と連携して機能していた地域の重要な城であることが見て取れます。
【御城印デザインのご説明】
千葉一族椎名氏の系統である宮和田氏の居城と推察される宮和田城の御城印には、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。また、水陸両方の要衝地に築かれた宮和田城の御城印には地形の分かる地図を配置しました。あわせて、連携して機能していたであろう大浦城、長岡城の場所も地図上に図示しました。
借当川は中世において、海上航海の難所である犬吠埼を避けて東北方面に向かうための内陸太平洋航路として利用された水運の大動脈と考えられています。ルートとしては、九十九里浜に結節する栗山川河口から、借当川を経て、椿海、香取の海、北浦、涸沼、そして太平洋へ出ると想定されています。これらのことから、宮和田城も水上交通の利便性を見込んで築かれたと考えられるため、御城印には借当川と行き交う舟のイメージを描きました。
なお、かつては借当川に繋がる沼が宮和田城の北側に入り込んでいたと考えられ、北側に残る物見台跡は船の行き来を監視していたとも推察できます。
販売場所
〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)
千葉県匝瑳市八日市場イ137-1
電話番号 0479-73-5015
営業時間9時から18時
年中無休
〇まるごとしすい
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2
043-376-6810
営業時間 9時~18時
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)
あわせて、小机城のお城エキスポ2023バージョンもデザインさせていただきました。
1000枚限定販売なので、EXPOで売り切れたたら販売終了です。
残っていれば、横浜市立歴史博物館で販売されると思います。