ついに!武茂城の御城印販売です
ふるさと大使を務めさせていただいている那珂川町から、武茂城の御城印がついに販売開始です。
デザインと説明文を書かせていただきました✨
武茂城の御城印、感無量です。
関わらせていただいてから、4年?5年目にして…(T-T)
御城印はただ出せば良いなら簡単ですが、地元の想いや環境を整えて、しかるべきタイミングで発行しないと意味がないし、ただ出して終わってしまったら意味が無いです。
次の一手に役立たないと。それに、満を持して発行して、地元の方々に大事にして欲しいので✨
あと、下野新聞にも取り組みを記事にしていただいたのでよかったらお読み下さい。
日本初の金の産地なので、背景をちょっと黄金ぽく。
カッコよくできたと思います♪
値段は400円(税込み)です。
私の講演会にて先行販売です。
2026年2月1日(日曜)「那珂川町の歴史を考える」講演会会場にて。
(参加希望は、那珂川町なす風土記の丘資料館)
時間 13:30~16:00
場所 あじさいホール
講師 山城ガールむつみ氏
定員 200名(要予約/先着順)
【武茂城のご説明】
武茂城は、水上交通の大動脈である那珂川と武茂川が合流する「久那瀬」の北東に位置する丘陵上に築かれました。城下を流れる武茂川に沿うように街道も通っていることから、水陸交通において要所にあたることがうかがえます。
武茂城は、永仁年間(1288-1299)に、武茂泰宗によって築かれたと伝わります。武茂氏は、下野を代表する名族宇都宮氏の分家にあたります。宇都宮貞綱の弟泰宗が武茂の地を領し、武茂氏を名乗ったといいます。泰宗は、元寇の際に、兄貞綱と一緒に九州に赴き、蒙古軍と戦い活躍しました。また、泰宗は歌人としても優れ、武家歌人として鎌倉や京都で活躍。その歌は勅撰和歌集に15首も選ばれています。
南北朝時代には、武茂泰藤・氏泰兄弟が新田義貞とともに南朝方の中心的存在として活躍したことが『太平記』に見えます。義貞が討ち死にした北陸での戦いの後、泰藤は武茂に戻らず、三河にて南朝挽回のために兵を集めましたが、最後は三河国六ツ美村(現岡崎市宮地町)で没したといいます。なお、この泰藤の系統が三河に土着し、徳川譜代の家臣になる三河大久保氏へと繋がります。小田原藩の大久保氏、烏山藩の大久保氏などもこの後裔にあたります。一方、弟の氏泰は武茂に戻り、北朝に属して領地の支配にあたり、宇都宮氏の重要な分家として存続しました。
応永14年(1407年)、宇都宮家の当主が途絶えたため、武茂氏の当主持綱が宇都宮家を継承します。これにより武茂氏は一度断絶しましたが、永正3年(1506年)に宇都宮一族の芳賀正綱が武茂に入り、武茂氏を再興しました。その後の武茂氏の詳細は不明ですが、天文年間(1532~1555)末期には、武茂氏は下野国に進出してきた常陸佐竹氏に属していることが、佐竹氏が発給した所領安堵状から確認できます。そして、佐竹氏と武茂氏は、那珂川を挟んで対峙する烏山城を本拠とする那須氏と抗争を繰り広げました。とくに天正10年(1582年)の戦いでは、武茂城で激しい戦いが繰り広げられました。那須資胤、資晴父子が久那瀬から上陸。これに対し、佐竹氏と武茂氏は久那瀬を見下ろす愛宕山(赤坂)に布陣。武茂城下で激しい戦いが繰り広げられたといいますが、武茂守綱が那須軍を撃退したといいます。
その後、豊臣政権下において武茂氏は、佐竹氏の家臣団として常陸国大賀村に移封となり、さらに、慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田へ移ると一緒に秋田へ移住しました。
武茂城は、麓の乾徳寺西側の丘陵上に、主として使われたと思われる本城があり、乾徳寺の谷を挟んだ東側丘陵上と、本城の西側の丘陵上にも城郭遺構が残っています。本城エリアは、土塁、空堀、虎口、曲輪、土塁などの遺構が良好に残っており、戦国時代における当地の緊迫した歴史を今に伝える貴重な城といえます。
【御城印デザインのご説明】
武茂城の御城印には、武茂氏の祖武茂泰宗の銅像と家紋、さらに菩提寺乾徳寺の山門をデザインしました。乾徳寺山門は、武茂城の城門とも伝わります。あわせて、江戸時代の武茂城周辺の様子がよく分かる馬頭村絵図をモチーフにしました。絵図には、現在も城下に残るクランク状の街道が描かれており、これは戦国期において軍事的意図をもって設計された可能性が高いと思われます。
那珂川町は、縄文遺跡や古墳をはじめとする数多くの史跡を有し、日本初の採金の地としても知られるなど、古代より連綿と歴史が息づく地です。武茂城とあわせて町内の歴史をお楽しみください。
【販売場所】
①馬頭広重美術館
販売開始日:3月1日(日)
②那珂川町なす風土記の丘資料館
販売開始日:2月3日(火)
③馬頭郷土資料館
販売開始日:2月3日(火)
※那珂川町観光協会でも今後販売予定です。






