2023年8月24日 (木)

岩ヶ崎城の御城印発行

千葉県香取市の岩ヶ崎城御城印が発行になりました。
岩ヶ崎城は鳥居元忠ゆかりの城。
いま、大河ドラマでとても目立ってるカッコイイ鳥居元忠ゆかりの城です。
(鳥居元忠ゆかり、2回言いました笑)

1590年の小田原合戦後に、徳川家康が関東に入ってくると、自分の家臣団を関東の要所に配置しました。
本多忠勝を大多喜城、鳥居元忠を岩ヶ崎城、三浦重成を大網(佐倉などもふくめ)、井伊直政を箕輪城などに。

岩ヶ崎城に入った鳥居元忠はここから伏見城の戦いに出陣。
そこで討ち死にを遂げました。
岩ヶ崎城はあまり知られていませんが、とても面白い歴史を秘めた城なんです。



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また、香取市は9月9日に講演会もあるので、ぜひフラリとお越し下さい。
講演会情報はこちら。
香取市講演会のお知らせ: 山城ガールむつみの出陣ノススメ (cocolog-nifty.com)



岩ヶ崎城の御城印は8月26日(土)から販売開始です。
お城の説明と販売情報は以下です✨


【岩ヶ崎城のご説明】千葉県香取市
岩ヶ崎城は、かつての内海「香取の海(現利根川)」に向かって伸びる台地の北端に築かれました。城山の標高は30m程ですが、湿地や湖沼、海に囲まれた要害だったと考えられます。現在、城山には稲荷神社と愛宕神社が祀られています。周辺には「城之内」「堀之内」「カラ堀」「大手」「若殿宿」などの地名が残っています。

現在でも千葉県と茨城県の県境にあたる岩ヶ崎城は、中世期においても下総国と常陸国の国境にあたることからも、岩ヶ崎城の緊迫した状況が推察できます。
岩ヶ崎城の詳細は不明ですが、千葉一族国分氏が築城に着手した可能性はありそうです。国分氏の本城は矢作城(大崎城)ですが、水運の抑えのため、さらには国境の防衛のために岩ヶ崎城を築城したとも考えられます。国分氏の主家である千葉氏が小田原北条氏の配下となると、国分氏も北条氏に属しました。そのため、岩ヶ崎城も北条氏方の城として、里見氏や正木氏、さらには常陸国の佐竹氏に備えたと考えられます。

天正18年(1590年)の小田原の役によって北条氏が滅び、関東に徳川家康が入部すると、岩ヶ崎城には家康配下の鳥居元忠が入り、下総矢作藩4万石が立藩されました。元忠は藩統治の拠点のひとつとして岩ヶ崎城の大規模な改修整備を始めたとされています。おそらく、常陸国佐竹氏への備えだと推察されます。
しかし、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる伏見城の戦いで元忠は戦死。これにより、岩ヶ崎城の改修が中止され、元忠の息子忠政が磐城平藩へ移封されると、矢作藩は廃藩となり、岩ヶ崎城は廃城となりました。

 

【御城印のご説明】
要害性の高い岩ヶ崎城の御城印には、海に向かって突き出す城山の地形がわかる地図をデザインしました。
そして、千葉一族国分氏ゆかりの城であるため、千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。あわせて、天正18年以降に入部した鳥居氏の家紋「竹に雀」「鳥居」を配置しました。

また、徳川家康から信頼の厚かった鳥居元忠ゆかりの城であることから、元忠の所用兜「鉄錆地椎実形兜」、所用籠手「袖付三本筒籠手」をモチーフにしました。これらは、元忠を祭神とする栃木県都賀郡壬生町に鎮座する精忠神社の社宝です。さらに鳥居元忠画像(壬生町・常楽寺所蔵)をモチーフにしました。
壬生は岩ヶ崎から陸奥国磐城平藩、出羽国山形藩、信濃国高遠藩、能登国下村藩、近江国水口藩への転封を経て、正徳2年(1712年)に鳥居家が入封した地であり、明治維新を迎えた地です。



販売情報
〇道の駅水の郷さわら
千葉県香取市イ3981-2
電話0478-50-1183
営業時間 8時から18時 年中無休

 

〇寺嶋陶苑
千葉県香取市小見川268
電話0478-82-2322
営業時間 8時30分から18時30分 水曜日定休

 

〇まるごとしすい
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 
043-376-6810
営業時間 9時~18時 
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

 

 

 

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2023年7月20日 (木)

野手城の御城印発行のお知らせ

今月も新しく御城印が発行されます。
7月22日(土)販売開始です✨

千葉県匝瑳市の野手城です。
千葉常胤の甥にあたる胤知が野手を領し、野手氏の祖となったとされています。
戦国時代には「野手合戦」と呼ばれる戦いの舞台になりました!

遺構は少ないですが、地名や城下の雰囲気から戦国時代を感じることができます。
野手城の詳細や御城印情報は以下をご覧下さい✨



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【野手城のご説明】千葉県匝瑳市
野手城は九十九里浜の野手浜海岸から約2km内陸に入った野手に築かれました。野手周辺は九十九里浜と北側の丘陵部との間に位置する低湿地帯ですが、野手城は砂州の微高地をうまく利用して築かれています。
現地に野手城の遺構はほとんど残っていませんが、地名や街道から野手城の姿を想像することができます。野手集落のほぼ中央に「御城」という字名が残り、他にも「東門」「上の馬場」「大門」「前古屋」「宿」などの字名が残ります。これらから、中世期における野手城と城下集落を偲ぶことができます。

地元の伝承によれば、かつての野手城は内堀、中堀、外堀に囲まれた広大な城だったといいます。まさに三重の堀をもつ堅固な城郭で、内堀に囲まれた正方形の空間が「御城」と呼ばれる主郭だったと伝わります。

『千葉大系図』によると、千葉常胤の弟椎名胤光の第2子の胤知が野手を領し、野手次郎胤知と称したとされます。野手城の築城に関する詳細は不明ながら、この胤知の系統が野手城を築き、居城としたと伝わります。

天文4年(1535年)、古河公方足利晴氏と小弓公方足利義明の対立に端を発した「野手合戦」が起きました。小弓公方方の八日市場城主押田氏が古河公方についた野手氏の居城野手城に攻め寄せ、野手氏当主義長と子義治らが討ち死にしたとされます。これにより、野手城は押田氏の城となり、八日市場城周辺は押田氏によって掌握されました。

野手合戦において当主父子が討ち死にした野手氏ですが、義長の弟義通が常陸国江戸崎へ逃げ、小田城を居城とする小田氏治に仕えたとされます。小田氏没落後は常陸国下妻を領する多賀谷氏に仕えたとされています。

 

【御城印デザインのご説明】
野手城は城郭遺構こそ残っていないものの、周辺には城郭の存在を示す地名が数多く残ります。「字御城」の南側には街道が通り、それに沿って宿が形成されていたと思われます。現在もこの街道沿いには人家が密集しており、「宿」の字名が残ります。さらに、この街道は現在も鍵型の屈曲を伴う道筋になっており、敵に攻め込まれにくい防衛の意図が見て取れます。このように、地名やいまに残る街道から当時の城下の様相を窺い知ることができます。御城印には、このような野手城の城下の構成がわかる地図をデザインしました。
また、「野手合戦」において、野手氏が戦った押田氏の居城である八日市場城と野手城の位置関係が分かる地図も御城印にデザインしました。
あわせて、野手氏の出自である千葉一族の家紋「月星」と、野手氏の家紋「九曜」をモチーフにしました。


販売場所
〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休

〇まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810



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2023年6月22日 (木)

大網城の御城印販売開始

千葉県大網白里市の大網城の御城印販売開始のお知らせです。
大網城は九十九里平野に向かって飛び出す丘陵に築かれました。眼下には街道が通り、城下の趣を残します。
街道沿いに北に向かうと田間城、成東城と大きな城が連なり、中世からの街道を押さえる大事な城がずらっと並ぶ面白いエリアです。
しかも!!
1590年の小田原の役後に徳川家康が江戸に入ると、家康の家臣三浦重成が大網に配置されました。
そうなんです!三浦一族ファンにとって、大網は歴史ロマンを感じる地域でもあるのです♡

大網周辺は講演とツアー計画が目白押し✨
7月22日(土)13:30から
講演会とトークショーやらせていただきます。
会場は大網白里保健文化センター3階ホール
告知は数日お待ちください。まもなく解禁です♪

さらに、9月24日(日)はJRバス関東のガタゴトバスツアーあります!
こちらは、大網城、成東城、松尾城などをまわる盛りだくさんツアー✨
こちらも7月早々に告知開始になります。もう少しお待ちを!!

ということで、夏と秋は大網白里周辺を楽しみましょう~。
御城印詳細は以下をご覧下さいませ💨

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【大網城のご説明】
大網城は九十九里平野に向かって伸びる丘陵に築かれました。北側は明治33年の鉄道開通の際に切断されたため独立した台地になりました。標高約40mの「要害山」と呼ばれる城山はその名の通り、斜面が切り立った自然の要害となっています。

櫓台を伴う南端の曲輪から北東に向かって、小さな曲輪が連なるように地形に沿って配置されています。尾根上の移動を遮断するようにそれぞれが堀切で分断され、さらに山肌は垂直な切岸になっています。各曲輪が狭いため、居住性はなく、居館は麓に置かれていたと推察できます。背後を取り巻く山陵部に城郭を拵え、居館部分を取り囲んだと思われます。

築城等に関する詳細は不明ですが、大網城は土気城主酒井氏の重臣板倉氏の居城と伝っています。板倉氏についての詳細は不明ですが、「板倉」という地名が千葉市緑区にあることから、その地を出自とする武家であるとも考えられています。

また、板倉は土気城に近いことから、板倉氏は土気城主酒井氏の家臣である可能性が指摘されています。土気、東金両酒井氏は、里見氏と北条氏の争いが激化すると、両勢力に挟まれ政治的な判断を迫られました。そして、最終的には北条氏に属し、天正18年(1590年)の小田原の役を迎えました。大網城は、小田原の役まで土気酒井氏の支城として機能していた可能性が高いと思われます。

小田原の役の後は徳川家康家臣三浦重成が入部し、下総三浦藩(大網、本納、佐倉あわせて1万石)となりました。なお、大網城の城下にある蓮照寺には三浦重成の供養塔が残っています。

 

【御城印デザインのご説明】

大網城の眼下にはクランクを伴う街道が通り、城下町の趣きを残しています。「本宿」という地名が残っていることから宿が形成されていたと考えられます。さらに、「城手」などの城と関連する地名が残り、かつての大網城の姿を地名から偲ぶことができます。

また、大網城からは土気城方面や、東金城、田間城方面を眺めることができ、それらの城と連携して機能していたと思われます。
大網城の御城印には城下の街道や地形のわかる地図を配し、土気城との位置関係がわかるようにデザインしました。あわせて、縄張図もデザインしました。また、昭和8年に松井天山によって描かれた『千葉縣大網鳥瞰図』と、土気酒井氏の家紋をモチーフにしました。

 

販売場所
○ ファミリーマート大網白里駒込店

住所   大網白里市東駒込2番地7

電話番号 0475-72-5310

営業時間 年中無休

 

 

○ マリンの土産店

住所   大網白里市南玉4-5-6

電話番号 0475-86-6220

営業時間 月~土 10:00~19:00

 

○まるごとしすい

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)


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2023年6月10日 (土)

大多喜城御城印特別バージョンの販売開始

大多喜城の特別御城印が本日から販売開始になりました。
いままでも大多喜城の御城印は販売されていましたが、大河ドラマ「どうする家康」の中で本多忠勝の活躍が目立っていることを受けて、特別御城印が完成しました✨

大多喜では以前から、「本多忠勝を大河ドラマに」という運動も行われており、今回の活躍はとても喜ばしいものです。
特別バージョンの御城印は金字のゴージャスなものになってます。
デザインさせていただきました。
ぜひ、お求め下さい♡
※従来の大多喜城御城印も継続して販売しています

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1枚 700円(税込み)


【大多喜城のご説明】千葉県夷隅郡大多喜町
※戦国期の大多喜城は「小田喜城」と記されますが、ここでは戦国期においても「大多喜城」と記します。
大多喜城は太平洋に注ぎ込む夷隅川中流域の丘陵部に築かれました。天然の堀ともいうべく蛇行する夷隅川に囲まれていて、堅固な要害地形を成しています。現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館が本丸、千葉県立大多喜高校が二の丸にあたります。

大多喜城の築城等の詳細は不明ですが、江戸時代に書かれた『房総治乱記』などの軍記物によると、大永元年(1521年)頃に上総武田氏が築城したとされています。上総武田氏は真里谷城、長南城を拠点に勢力を拡大し、大多喜城も上総武田氏の拠点のひとつとなりました。

しかし、大多喜城における上総武田氏は天文13年(1544年)に正木氏と苅谷ケ原で戦いに及び、敗北したと伝わります。それにより、正木時茂が大多喜城に入城したとされ、小田喜(大多喜)正木氏とよばれる勢力へと発展していきました。以後、大多喜城は里見氏、正木氏の東上総統治における重要な拠点として、整備改修が繰り返されたと考えられます。

天正18年(1590年)の小田原合戦後、里見氏が上総の所領を没収されると、徳川家康の関東移封に伴い、上総国には家康の配下の武将たちが入ってきました。そして、大多喜城には本多忠勝が10万石で入城し、その際に地名を小田喜から大多喜に変更し、近世城郭として整備改修をしました。この改修整備では、石垣を一切使用することなく、大田代層といわれる独特の地質を活かした上で、近世城郭化を進めました。さらに、正木氏の中世城郭の構造を踏襲しながらも、城下町整備、街道整備を進めていきました。このような忠勝の計画的な町づくりによって、大多喜の町は生まれ変わり、大規模な城下町として発展しました。
大多喜城は本多氏、阿部氏、青山氏、稲垣氏、大河内松平氏などの統治を経て、明治維新まで存続しました。

 

【御城印デザインのご説明】
大多喜城の特別御城印(黒地に金字バージョン)は、大多喜町に建てられている本多忠勝像をモチーフにしました。本多氏は三河譜代最古参の家柄で、忠勝も徳川家康につかえました。忠勝は生涯で57回の戦いに参陣したといい、いずれの戦いにおいても傷ひとつ負わなかったと伝わります。織田信長からも「花も実も兼ね備えた武将」と評されたといいます。このように忠勝は武勇に優れ、数々の伝説をもつ歴史上名高い武将です。酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに、「徳川四天王」と称され、江戸時代以降、人気を誇り語り継がれてきました。 

千葉県立大多喜高校の敷地内には、千葉県内唯一の現存城郭建造物である二の丸御殿薬医門が移築されています。また、現在本丸には、三層四階の模擬天守が建てられています。御城印には現存する大変貴重な薬医門と、模擬天守ではあるものの、大多喜のシンボルともいえる天守をデザインしました。


販売場所:大多喜町観光本陣
     まるごとしすい
     千葉ポートタワー
     道の駅あずの里いちはら

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2023年5月30日 (火)

椿の海の歴史の掘り起こし

千葉県旭市にお邪魔して、米本市長にお会いしました✨
千葉城郭保存活用会や周辺自治体や関係団体が連携して去年開催した椿の海サミットの報告や今後の展望をお話しさせていただきました。熱心に話を聞いてくださり、嬉しかったです!

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旭市の米本市長とパシャリ✨


高橋県議や匝瑳市の都祭市議らも来てくださって、活発な意見交換ができました。
今後はさらに椿の海を囲む各地域で連携できそうで嬉しいです!!


椿の海とは江戸時代の初めまで存在した内海です。
いまの、東庄町、旭市、匝瑳市がかつての椿の海に面している自治体です。
その海を囲むように城が築かれました。この海は水上交通の要所なので、お城以外にも面白い歴史がたくさん詰まってるんです✨
そんな椿の海の 周辺自治体で連携して、椿の海の歴史を使って色々楽しいことできたらいいなと思います🙋‍♀️


あわせて、東庄町にツアーの下見に行ってきました💨
東庄町では4城目となる大友城の御城印が発行されました。
大友城は平良文の伝承や、平忠常の居館跡とも伝わるロマン溢れる城です。
戦国時代には東氏の城として使われていたと思われます。ツアーでは大友城を始め、千葉常胤の子胤頼から続く東氏の歴史を楽しく紹介します♪

東庄町歴史ツアーは6/29です。
申し込み締め切りは6/5です。
詳細は東庄町観光協会ホームページをご覧ください。

 

御城印発行にあわせて、郷土の歴史を綴った『大友城址考』も復刻されました。地元の方々も御城印発行喜んでくださって嬉しいです♪こちらもぜひ📗

千葉日報でも椿の海と香取の海を繋げる要衝地である大友城を記事にしてくださいました。
千葉日報の中瀬記者は、いつも現地に来て熱心に話を聞いてくださって、素敵な記事を書いてくださいます♪



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2023年5月24日 (水)

大友城&安戸城の御城印発行

新しい御城印が発行されます。
記念すべき千葉県101城目は「大友城」です!千葉県香取郡東庄町。
この城は私もとても思い入れがあります。歴史的にも千葉県101城目に相応しいです✨

大友城は坂東武士の大元ともいえる平良文の居館跡とも伝わります。
この付近には、良文の伝承がたくさん残り、大友城じゃなくともこの付近にいたと考えられています。
平良文は大庭氏、梶原氏、長尾氏などの鎌倉党、三浦氏、和田氏、佐原氏などの三浦党、中村氏、土肥氏、土屋氏などの中村党、河越氏、畠山氏などの秩父党、さらには千葉氏、上総氏などの両総平氏の元になった人物!
まさに坂東武士の祖!!

しかもそれだけではないのです。
この城は、平忠常の居館とも伝わります。
平忠常は、1028年に「平忠常の乱」と呼ばれる乱を起こします。
これにより、都から平直方、次いで源頼信という追討軍が送られます。
このときに、平直方が本営を置いたのが鎌倉でした。

乱は程なく鎮圧されますが、このときに本営とした地が源頼信に譲られ、源氏代々の鎌倉屋敷になっていくのです。
現在の寿福寺の場所。
ということで、源頼朝が鎌倉を幕府の地とした理由が、この平忠常の乱にあるわけです。
大友城は鎌倉が武家の都になるキッカケの城なんですね。
101城目にますます相応しい♡


もうひとつの安戸城は埼玉県秩父郡東秩父村。
こちらは、古くは武蔵七党丹党の大河原氏の城と伝わります。大河原氏が没落すると武蔵七党の西党である上田氏が入ったとされます。安戸エリアは戦国時代には上田氏の本拠として菩提寺や館が置かれたと思われます。

ちなみにこの上田氏は武蔵松山城主で、そこを拠点に勢力を広げました。
扇谷上杉氏に仕え、その後は小田原北条氏に仕えました。
横浜の権現山城もこの上田氏の城です。

そんなこんなで、今回も歴史深く素敵な城を紹介できて嬉しいです。幸せ♡
では、以下にお城の紹介や御城印情報を記しますのでご覧ください✨
両方とも5月27日(土)の販売開始です。


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【大友城のご説明】千葉県香取郡東庄町

大友城は椿の海の最北端に位置する半島状に突き出た標高約50mの舌状台地に築かれました。城域は東西約100m、南北約300mに及ぶとされ、「政所台」「遠所台」という字名が残っています。政所台は二の丸、遠所台は主郭にあたるとされていて、地形を活かした連郭式の構造になっています。

大友城は、古くは長元元年(1028年)に朝廷に対する反乱(平忠常の乱)を起こした平忠常の館跡とも伝わっていますが、今に残る遺構は戦国時代のものと思われます。
このように築城についての詳細は不明ですが、立地的に考えると、東氏や海上氏など千葉一族に関連する城館だと推察されます。城域の大部分は畑になっているものの、わずかながらも土塁、空堀、腰曲輪などが残っています。字名として「鍛冶屋敷」「旗口」「兵岬」など、城と関連が想像される地名も残っています。

 

【御城印のデザインご説明】

『香取郡誌』によると、大友城は平良文の居城と伝わっています。平良文は桓武平氏良文流の祖とされ、千葉一族、三浦一族など坂東を代表する氏族を輩出しました。
また、『今昔物語集』には平忠常の乱の平定のため、源頼信が忠常の居館に向かう際の記述があります。それによると、頼信が鹿島神宮から南下して利根川の北岸に至ったところで、「忠常の居館は内海に入った場所にある」と記されています。この記述により、平忠常の居館は大友城と考えられています。

大友城が平忠常の居館という伝承に基づき、大友城の御城印には平家の家紋を入れました。あわせて、忠常の乱を平定した源頼信に因み、源氏の家紋をデザインしました。
そして、江戸時代に描かれた平忠常の乱を題材にした『源頼信 平忠常 大椎城水攻之図(歌川貞秀)』をモチーフにしました。忠常の生きた平安時代とは、時代の合わない天守閣などが描かれているものの、城の周りは海になっています。椿の海に面して築かれ、水上交通の押さえの役目を担っていたと推察される大友城の特性を描いていて、大変貴重な絵だと思われます。なお、絵の表題は「大椎城」になっていますが、近年では平忠常の本拠は大友城の可能性が高くなっているため、この絵をモチーフにしました。

あわせて、大友城は戦国時代には千葉一族に関する城として使われていたと考えられることから、千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。
なお、東庄町発行すべての御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。

販売場所

○東庄町役場
千葉県香取郡東庄町笹川い4713-131
0478-86-6075(東庄町観光協会事務局)

○東庄町観光会館
千葉県香取郡東庄町笹川い580-1
0478-86-6075(東庄町観光協会事務局)

○まるごとしすい
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 
043-376-6810
営業時間 9時~18時
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

 



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【安戸城のご説明】埼玉県秩父郡東秩父村

安戸城は槻川とかつての安戸宿を眼下に見下ろす、標高約240mの丘陵に築かれました。現在は山頂に城山権現が祀られています。安戸宿は東から西に向かって谷が入り込み、谷間には菅谷・小川方面から寄居・皆野方面に向かう街道が通り、宿場が形成されました。その谷の入口に当たる場所に安戸城があります。城山の山頂が主郭にあたり、その周囲に小規模な曲輪が築かれ、主郭の東と北には堀切が見て取れます。
『新編武蔵国風土記稿』には、大河原氏の居城として紹介されています。現在の東秩父村一帯は戦国期の史料によると、「大河原谷」と呼ばれているとされ、大河原氏はこの地域の在地の豪族と考えられています。

また、『関八州古戦録』には、「扇谷上杉氏の家臣安戸城主上田左衛門太夫」という記述がありますが、現在「腰越城」と呼ばれている城のことをかつて「安戸城」と呼んでいたことがあったといい、『関八州古戦録』に書かれた上田氏が城主だった安戸城は、現在の腰越城にあたるとも指摘されています。
しかし、現在、安戸谷奥には上田氏の菩提寺浄蓮寺があり、周辺には「御堂」の字名が残ることからも、この地域が上田氏にとって大事な場所であったことが分かります。安戸城の詳細は不明ながらも、この安戸の地が腰越城の退路として機能していた重要なエリアだったことが推察できます。

【御城印のデザインご説明】
大河原氏については詳細不明なものの、出自は武蔵七党丹党とされています。古くから大河原氏が開拓し、現在の浄蓮寺の場所に居館を構えていたとも伝えられています。そのことから、安戸城の御城印には丹党嫡流の家紋「三つ星」を配置しました。あわせて、戦国期に武蔵松山城主としてこの地域を領した上田氏の主筋にあたる扇谷上杉氏と、扇谷上杉氏滅亡後に上田氏が仕えた北条氏の家紋を配置しました。
安戸谷(かつての大河原谷)は古くから水陸交通が発展していたと思われ、地域の要衝でした。そのため、大河原氏の本拠となり、その後、上田氏の菩提寺も置かれました。御城印には、地形が分かる地図と縄張図をデザインしました。

また、東秩父村は小川町と共に国の重要無形文化財に指定されている伝統的な手漉き和紙「細川紙」の産地でもあります。細川紙は貴重な国内産楮(こうぞ)を使用した和紙です。御城印には細川紙の象徴である楮をモチーフにしました。


〒355-0328

埼玉県比企郡小川町大塚33-1

おいでなせえ小川町駅前店

電話0493-59-6988

営業時間10:00-18:00

定休日なし

 

ネット販売
おいでなせぇ

https://hiki-gojouin.stores.jp




 










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2023年4月28日 (金)

峰上城御城印発行&千葉100城記念!!

4月29日(土)に千葉県富津市の「峰上城」の御城印が発行されます!
この峰上城が、千葉県御城印100城目になります✨
記念すべき御城印です♪

100城記念イベントもありますので、もしよかったらお越し下さい。
イベントの詳細はこちら
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
金谷城ツアーと千葉のお城&御城印トークショー: 山城ガールむつみの出陣ノススメ (cocolog-nifty.com)



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【峰上城のご説明】
峰上城は湊川の河口から5kmほど上流、支流である志駒川と合流する地点の標高約130mの丘陵に築かれました。
長狭方面や小糸方面、また湊川を通じて東京湾に出ることができる立地からも、水陸両方の交通の要衝地であったことが分かります。秋元(小糸)城、久留里城を通じて真里谷武田氏の本城である真里谷城と連携していたと考えられます。

峰上城は遺構が広範囲にわたって良好に残っています。また、『上総国天羽郡峯上古城之図』(国学院大学図書館所蔵)には、「大橋」「大門」「中城」「本丸」「尾崎曲輪」などの記載があり、当時の大手道など、城の様子が推察できます。 

峰上城の築城等の詳細は不明ですが、古河公方足利成氏の家臣真里谷武田氏が上総南西部の支配拠点として築いたと考えられていて、真里谷武田信興による築城とも伝わっています。城内の環神社に奉納された天文2年(1533年)の紀年銘を持つ鰐口に「峰上之城」と刻まれていることから、少なくともこのときまでには築城されていたことが明らかとなっています。

峰上城は真里谷武田氏の重要拠点として機能していたと考えられますが、『鳥海文書』には、尾崎曲輪に駐屯していた吉原玄蕃助が二十二人衆を率いて小田原北条方として戦ったと記されていて、16世紀中頃には小田原北条方の城となっていた可能性も指摘されています。詳細は不明ながら、戦国期の諸勢力が入り乱れて争った状況を知ることができる貴重な城といえます。

 

【御城印のご説明】
戦国時代の遺構を良好に残し、広大な城域を誇る峰上城の御城印には、『上総国天羽郡峯上古城之図』(国学院大学図書館所蔵)をモチーフにしました。この絵図には、峰上城の代名詞ともいえる全国にも類を見ない特徴的な七連続堀切がしっかりと書かれています。

峰上城に関する遺物として、前述の天文2年の紀年銘を持つ鰐口や、同じく天文年間の紀年銘で真里谷全芳奉納の鰐口が伝わっています。御城印には、鰐口をデザインしました。

また、伝吉原玄蕃助着用といわれる、房総の戦国時代を代表する甲冑としても有名な仏胴胸取五枚胴具足(館山市博物館所蔵)もデザインしました。いずれも、峰上城を物語る上でとても貴重な伝承品といえます。あわせて、真里谷武田氏の家紋「四ツ菱」をデザインしました。



販売情報は以下です。

〇高梨商店
千葉県富津市湊735

0439-67-0224
午前11時~午後6時

休業日:月曜日

※年末年始やその他臨時休業あり  

 

○まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

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2023年4月26日 (水)

小田原北条五代祭りに参加します♪

5月3日(祝)に小田原城で「小田原北条五代祭り」が開催されます。
二の丸広場には、たくさんブースが出展されます。

その中に、岡山県井原市ブースも登場します✨
井原市は北条早雲の出身地!
小田原北条五代祭りにふさわしい出展ですね♡

以前ツアーやらせていただきましたが、井原は歴史ロマン溢れる素晴らしい地。
今回、関東で出展されるのはとても嬉しいです。
ぜひ、ブースに立ち寄って、早雲生誕地に思いを馳せて下さい✨

ちなみに、13:00-17:00は井原市ブースに私もお邪魔します。
お立ち寄り下さい。
現地の話などできますので、気軽にフラっと寄って下さいませ♡

ブースでは、早雲生誕の城とも伝わる高越城の御城印とオリジナルトートバッグを販売します。
どちらもデザインさせていただきました。
小田原城で販売できるなんて、嬉しいー!!
みなさまのお越しをお待ちしてまーす♡

2023年5月3日『第59回小田原北條五代祭り』開催! | 特集-特集記事 | リトルトリップ小田原 [小田原市観光協会] (odawara-kankou.com)


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Gジャンは井原デニム!
デニムは井原の一大産業のひとつです。
これ着て、みなさまのお越しをお待ちしてます✨

持っているのがオリジナルトートバッグ!
井原デニムのトートで、早雲のデザインになってます。
かっこいいですよー



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2023年4月23日 (日)

日経新聞掲載

日経新聞で御城印の取り組みを記事にしていただきました✨
ありがたいことです。
御城印発行だけで終わらせず、継続的に各地域と色々な企みをしていきたいです。

ツアー、講演講座、学校授業、リーフレットや案内板の整備などなど。
御城印発行がはじめの一歩。
その後に繋げることが次の課題です。
賛同いただく輪をどんどん広げていきたいですね。



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2023年3月24日 (金)

「堀川館」御城印発行

千葉県匝瑳市「堀川館」の御城印発行です✨
今は星宮神社が建っている場所に、かつて堀川館が築かれました。

千葉一族堀川氏と野手氏の抗争の舞台になった場所でもあります。
九十九里に面して、たくさんの城が築かれたエリアです。


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【堀川館のご説明】
堀川館は標高5mほどの砂州上の微高地を利用して築かれた居館です。堀川集落に残る館跡のため、「堀川館」とよばれていて、現在は星宮神社が鎮座しています。以前は、星宮神社の境内を囲むように堀と土塁が巡らされていたといいます。近年の道路工事でほとんどの遺構が消滅しましたが、現地に残るわずかな土塁と堀の痕跡からかつての方形区画の館跡を想像することができます。

築城等に関する詳細は不明ですが、千葉一族の庶流である堀川氏の居館と伝わっています。堀川氏についての詳細も不明ですが、『神代本千葉系図』には、椎名胤光の子に胤次、清胤の名前が載っており、それぞれ堀河四郎、同又四郎と脇書されています。このことから、堀川氏は千葉一族椎名氏の分家であることが推察されていて、鎌倉時代に堀川の地頭職を得て、代々この地を治めていたとされています。

戦国時代には、野手周辺を領していた同じく千葉一族椎名氏の庶流である野手氏によって堀川館は攻められ、堀川氏は家臣ともども討ち死にしたと地元に伝わっています。
また、『天正十八年千葉家落城両総城々』には、天正18年(1590年)に椎名山城守が堀川館の城主だったと記されています。

発掘調査では、奈良時代から江戸時代にかけての遺物が出土していることから、継続的にこの地に地域の中心的な施設があったと考えられます。また、明治初年には堀川館の跡地に三河西端藩の陣屋が設けられました。

 

【御城印デザインのご説明】

千葉一族堀川氏の居館と伝わる堀川館の御城印には、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。現在鎮座する星宮神社の旧号は「妙見大菩薩」だったといい、妙見信仰を重んじていた千葉一族との繋がりが推察できます。この神社は堀川氏が勧請したとも、堀川氏の後に入った野手氏が勧請したとも伝わっています。

堀川館の発掘調査では、台と歯を一木から作る鎌倉時代の連番下駄が出土しています。実際は下駄の台のみの出土ですが、御城印にはイメージとして下駄完品の絵を描きました。 他にも堀川館からは15世紀の土鍋、内耳土鍋、17世紀以降の陶磁器など、多数の生活用品が発掘調査から見つかっています。

さらに、調査ではフイゴの羽口や鉄滓が見つかっていて、周辺には「鍛冶屋」という字名も残ることから、この地域で中世から近世にかけて鍛冶が行われていたと推察されています。また、堀川館は微高地を巧みに利用して築かれた居館であることから、地形が分かる地図を配置しました。


3月25日(土)から販売開始!

販売場所
〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)
千葉県匝瑳市八日市場イ137-1
電話番号 0479-73-5015
営業時間9時から18時
年中無休

〇まるごとしすい
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 
043-376-6810
営業時間 9時~18時 
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

 

 

 

 

 

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