2024年6月24日 (月)

大寺城の御城印

6月29日に千葉県匝瑳市の大寺城の御城印が新発売です。
今回もデザインと同封説明文を書かせていただきました。
古代寺院があったので、「大寺」という地名が残る場所。
古代寺院から、律令制の時代に繁栄していた地域です。
近くには墨書土器がでる台地もあったりして、歴史深く楽しい城です✨
御城印の詳細と販売情報は以下をご覧下さい♪

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【大寺城のご説明】千葉県匝瑳市

大寺城は江戸時代初期まで存在した椿の海の西側の台地上に築かれました。大寺城は、現在の日蓮宗長福寺一帯が城域と考えられています。大寺から台地を下れば、中世の水上交通の要所である借当川沿いにあたり、また大寺はこの地域の街道が集まる要所であることから、水陸両方の交通が発達していた場所だと考えられます。大寺の中心を通る下総道は、中世において重要な街道であり、戦国期には軍用道路としても使われたと考えられています。

弘治三年(1557年)、森山城の城主であった千葉胤富が千葉家当主となり本佐倉城に移ります。胤富は本佐倉城に入ってからも森山城を重要視し、戦争の際には「森山衆」として森山城の兵力を主力としました。森山城と本佐倉城への行き来に、この大寺を通る下総道が使われたと思われます。まさに、戦国期に軍事用道路であった下総道は最重要ルートのひとつであり、このような理由から街道の整備が進んだと考えられます。

また文禄4年(1595年)には、江戸城に岡飯田(森山)から蜜柑が伝馬によって運ばれたことがわかっています。経路は岡飯田、府馬、鏑木、大寺というルートを通り、江戸に向かったことが分かっており、このことから大寺が江戸ともつながる重要な街道における要所的宿場であったことがわかります。

大寺には現在も、下総道に沿うように「横宿」「上宿」などの宿地名が残るとともに、中世期に構築されたと思われる鍵型の折れ筋も明瞭に残っています。まさに大寺は中世期の街道と城郭との関係を見て取ることができる貴重な場所であり、大寺城はこのような重要な街道を押さえる役目を担っていたと考えられます。

現在の長福寺の西側には「要害」の地名が残ることから、長福寺から西にかけて、城域が広がっていたと推察され、長福寺の寺域の中にも一部土塁が残るとともに、西側の台地には櫓台や堀切状の窪みが確認できます。

大寺城の詳細は不明ですが、この地域は匝瑳郡「北条庄」にあたり、北条庄の地頭は千葉一族飯高氏でした。そのため、ここ大寺も飯高氏に繋がる勢力がいたと考えられます。また、大寺城の西約3kmの距離には、飯高城があります。飯高城は戦国時代に平山氏の居城でした。このことから、大寺城も飯高城と連携して機能する戦国時代の城だった可能性もあります。

 

【御城印のご説明】

大寺城が築かれた大寺には、「大寺廃寺」と呼ばれる古代寺院がかつてあり、その大寺廃寺を前身とするのが現在の龍尾寺です。この寺が地名の由来になっています。このことから、大寺地区が古代から発展した地であり、地域の中でも重要な場所だったことがわかります。そのため、中世には城が築かれました。大寺は古代のみならず、時代を通して要衝地であり続けました。

江戸時代にも、大寺には幹線道路が通り、いくつもの道が交差する要所だった大寺城の御城印には、戦国時代に描かれたと推測される「下総之国図」をデザインしました。この図により、大寺の重要性がよく分かります。

そして、大寺を通り、輸送されていた蜜柑をデザインしました。この当時の蜜柑は、今と違って小ぶりで酸味が強かったようですが、甘い物が貴重な当時においては高級品であり、大名間での贈答品として多用されたようです。下総は日本有数の蜜柑の産地であり、その輸送を担ったのが大寺を通る街道であり、まさに蜜柑は大寺の重要性を物語る象徴的アイテムといえます。千葉一族の九曜紋も、蜜柑カラーでデザインしました。

 

販売場所

〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休


○まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

 

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2024年5月23日 (木)

埼玉県小川町「中城」御城印販売開始

埼玉県比企郡小川町の中城の御城印が販売開始になりました✨
中城はツアーでも何度か訪れた大好きな城。
デザインと説明文を書くことができて嬉しいです。

またツアーやりたいな。
駅から近いし、まわりには見どころたくさんあるし。

関東動乱シリーズ、企画しないとなぁ。
行きたいとこたくさんありすぎてキリがない!

中城の説明や販売情報は以下をご覧下さい😺



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【中城のご説明】

中城は八幡台と呼ばれる西方から東方の小川盆地に向かって張り出す比高約20mの台地の先端に築かれました。北側は湿地になっていたと考えられ、現在も沼になっています。また、中城の南側には槻川が流れていて、要害地形というだけでなく、水上交通の発達した地であったことも分かります。

築城等の詳細は不明ですが、土地の伝承では、鎌倉時代には猿尾(ましお)太郎種直の居城だったと伝わります。猿尾氏は、鎌倉幕府最後の将軍である守邦親王が鎌倉幕府滅亡の際、この地に逃げ込んだのを助け、匿ったと伝わっています。中城の西方約800mのところに、八幡神社があり、猿尾氏に匿われた守邦親王が創建したという伝承があります。

このように鎌倉時代からの伝承が残る地域ですが、今に残る中城の遺構は戦国時代のものと思われます。中城は二重土塁、横堀、横矢掛かり、虎口などの遺構が良好に残っており、発掘調査からも15世紀後半の築城だと考えられています。

太田道灌状にある文明6年(1474年)のことと考えられる記事に、「上田上野介在郷の地小河宿」と書かれていて、道灌が現在の小川町にあたる「小河」に立ち寄ったことが分かります。このとき道灌が立ち寄った場所こそが中城ではないかと指摘されていて、これにより、中城が上田氏の城だったと考えられています。中城の詳細は不明ながら、扇谷上杉氏の家宰である道灌が小河に立ち寄っていることから、小河が扇谷上杉氏と関係の深い地であることが見て取れます。

 

【御城印デザインのご説明】

中城の詳細は不明なものの、扇谷上杉氏の家臣上田氏に関係した城であると考えられています。そのため、御城印には扇谷上杉氏の家紋をモチーフにしました。あわせて、中城は素晴らしい遺構が残ることから、縄張図をデザインしました。

中城の西方約800mの距離にある八幡神社や穴八幡古墳からは、腰越城と笠山が見えます。笠山はこの地域のシンボルの山であり、腰越城は上田氏家臣山田氏の城です。腰越城も中城と同じく上田氏ゆかりの城と考えられることから、中城と腰越城は連携していたと考えられます。そのため、この地域の印象的な景色である笠山と腰越城の山並みを描きました。

また、中城は仙覚律師ゆかりの地でもあります。鎌倉時代の僧である仙覚律師は、この地域で万葉集の研究書である『万葉集注釈』を完成させたと伝わります。『万葉集注釈』は、後の万葉集研究において重要な書籍となり、日本の和歌の歴史に多大な影響を及ぼしました。このような経緯から中城には、仙覚律師の顕彰碑が建っています。御城印には万葉集をイメージしたイラストを描きました。

  

販売情報

〒355-0328

埼玉県比企郡小川町大塚33-1

おいでなせえ小川町駅前店

電話0493-59-6988

営業時間10:00-17:00

火水木は定休日

 

ネット販売
おいでなせぇ

https://hiki-gojouin.stores.jp

 

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2024年4月24日 (水)

匝瑳市「下富谷城」御城印発行

デザインさせていただいた御城印が新たに4月27日から販売開始です。
千葉県匝瑳市の下富谷城です。
私がシティ・アンバサダーをさせていただいている匝瑳市はお城がたくさんあります。
今回の城は、九十九里浜に面した浜堤上に、微高地を上手く使って築かれました。
しかも、環濠集落になっている面白い地域です。

戦国時代には里見氏の配下の正木氏が攻めてくる大変な状況に置かれました。

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【下富谷城のご説明】千葉県匝瑳市

下富谷城は、九十九里浜から約6km内陸に築かれました。下富谷城の東約1kmには横須賀城、南東約5kmには野手城、また北約3kmには八日市場城があります。

九十九里浜一帯は約6000年前の縄文海進が終わると、海岸線が徐々に後退していったため、太平洋に面して数列の浜堤が形成されました。浜堤と浜堤の間は低地のために湿地化し、沼沢地や潟湖となりました。下富谷城は、八日市場城の築かれた台地から数えると、3列目にあたる浜堤の上に築かれています。周辺が低湿地化した浜堤といった地形的特色を活かした防御性の高い城といえます。

また、周辺の沼沢地は要害性が優れただけではなく、水路としても使われました。八日市場城や近隣の城との間で、舟運で連携が取れ、輸送が行えるという利便性もあったものと推察できます。

下富谷城の特徴として、集落全体を取り囲む土塁と堀があげられます。これは、環濠集落としての優れた防御性、さらに堀には水を引き込んで水堀にしているのが見て取れます。現在も集落の北側には長さ約600m、幅約4mの水堀及び水堀跡、それに伴う土塁が残ります。

下富谷城の詳細は不明なものの、八日市場城主押田氏の後裔に伝わる『押田家譜注記』には、「下総国八日市場同州横須賀城主」という肩書きが付けられていることなどから、横須賀城は押田氏の城だったと考えられています。そのため、横須賀城と隣接する下富谷城も押田氏に関連する城だったと思われます。

戦国時代のこの地域は、香取の海、椿の海の制海権の掌握を狙う里見氏と、その配下の正木氏の侵攻を頻繁に受けるなど、緊迫した状況にありました。そのため、横須賀城とともに、有事の際には押田氏の本城八日市場城を守るための最前線の役目を担ったと考えられます。

 

【御城印のご説明】

下富谷は、平安時代には熊野神社神領となっていたとされ、それを証拠づけるように現在でも下富谷集落の中心に熊野神社が鎮座しています。下富谷集落は、神領管理のために下向してきた熊野神社の神官たちの居住地として始まったのではないかともいわれています。
下富谷集落は、もともと「ジョウ」と呼ばれていたといいます。戦国期に作成された『下総之国図』には、「チヤウ(ジョウ)」と記載されています。「下富谷」という名称への変更は、天正18年(1590年)の小田原の役後に為政者が変わったことによって行われたとされています。しかしながら、地元では現在でも、多くの住民が下富谷集落のことを「ジョウ」と呼んでいます。おそらく、「ジョウ」は「城(ジョウ)」であり、この地域に城が築かれていたと伝わる貴重な伝承といえます。御城印には『下総之国図』をデザインしました。

あわせて、下富谷城周辺地域を治めていた八日市場城主押田氏の家紋「九曜」をモチーフにしました。


御城印の説明と販売情報は以下をご覧下さい。

〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休


○まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

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2024年4月17日 (水)

衣笠城特別御城印販売開始のお知らせ

衣笠城の特別御城印が販売開始です!
すでに販売している通常版はそのままで、今回は6年ぶりに開催される「衣笠さくら祭り」を記念しての発行です。
三浦一党武者行列の開催日にあわせて、4月21日(日)に販売開始になります。

武者行列はただのパレードではなく、何十年も続く三浦一族顕彰のための行事です。
地元の方にとっては儀礼儀式のように大切なものです。
私も巴御前で歩くので、しっかりと思いを込めて歩かせていただこうと思います✨

第72回衣笠さくら祭 三浦一党出陣武者行列|横須賀市 (city.yokosuka.kanagawa.jp)


御城印の販売情報と、デザインの説明は以下をご覧下さい♪
金箔の文字で高級感あってカッコいいです!

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【衣笠城特別御城印デザインのご説明】

衣笠合戦を経て、源頼朝の旗揚げに最大の功を上げた三浦一族は、三浦半島を足がかりに全国各地に領土を広げ活躍し、語り継がれる名族になりました。三浦一族の本拠地衣笠では、隔年で「三浦一党出陣武者行列」が行われています。この武者行列は、石橋山の戦いに参陣する三浦一族の軍列を再現し、顕彰する催しです。御城印には武者行列で掲げる「三浦一党石橋山に参陣せんとす」と書かれた旗をデザインしました。

衣笠行政センター(衣笠コミュニティセンター)に保存展示されてる「三浦一党出陣武者行列」で使用する甲冑も御城印にデザインしました。ぜひ御城印を通して、三浦一族の勇姿に思いを馳せてください。

衣笠城の御城印の中心には三浦一族の家紋「三引両」を配置し、三浦一族の旗印「黄紫紅(きむらご)」カラーを上部に入れました。
衣笠合戦を描いた浮世絵をモチーフにしました。この浮世絵は、衣笠城に攻め寄せた平家方の金子家忠が果敢に戦う姿に感動した三浦大介義明が、家忠を褒め称え、敵であるにもかかわらず酒を送ったと伝わる場面を描いたものです。御城印にはこの場面の義明の姿を描きました。

【販売場所】
〇メガネのささき
横須賀市衣笠栄町1-8
営業時間:10:00~18:00
定休日:年末年始
046-854-0222

〇衣笠行政センター(衣笠コミュニティセンター)
横須賀市公郷町2-11
営業時間:8:30~17:00
定休日:年末年始、土日祝
046-853-1611 
※行政センターは22日からの販売

※通販でも取り扱います。歴×トキのメールにご連絡ください。
700円プラス送料180円です。
rekitoki@rekitoki.com

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2024年3月27日 (水)

御城印販売のお知らせ「横須賀城」

デザインさせていただいた御城印が新たに販売開始になったのでお知らせさせていただきます。
千葉県匝瑳市の横須賀城です。
私がシティ・アンバサダーをさせていただいている匝瑳市はお城がたくさんあります。
今回の城は、名前の通り、横に広がった砂州を利用して築かれた城です✨

九十九里浜に面した浜堤上に、微高地を上手く使って築かれました。
近くでは何度も戦いが起きていて、緊迫したエリアです。
戦国時代には里見氏の配下の正木氏が攻めてくる大変な状況に置かれました。

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御城印の説明と販売情報は以下をご覧下さい。

【横須賀城のご説明】
横須賀城は、九十九里浜から約6km内陸に入った横須賀に築かれました。横須賀城の南東約4kmには野手城、また北約3kmには八日市場城があります。
九十九里浜一帯は約6000年前の縄文海進が終わると、海岸線が徐々に後退していったため、太平洋に面して数列の浜堤が形成されました。浜堤と浜堤の間は低地のために湿地化し、沼沢地や潟湖となりました。横須賀城は、八日市場城の築かれた台地から数えると、3列目にあたる浜堤の上に築かれています。周辺が低湿地化した浜堤といった地形的特色を活かした防御性の高い城といえます。

また、周辺の沼沢地は要害性が優れただけではなく、水路としても使われました。八日市場城や近隣の城との間で、舟運で連携が取れ、輸送が行えるという利便性もあったものと推察できます。

横須賀城の詳細は不明なものの、八日市場城主押田氏の後裔に伝わる『押田家譜注記』には、「下総国八日市場同州横須賀城主」という肩書きが付けられていることなどから、横須賀城は押田氏の城だったと考えられています。

天文4年(1535年)、古河公方足利晴氏と小弓公方足利義明の対立に端を発した「野手合戦」が起きました。小弓公方方の八日市場城主押田氏が古河公方についた野手氏の居城野手城に攻め寄せ、野手氏当主義長と子義治らが討ち死にしたとされます。この戦いの際に、横須賀城がどのような状況だったかは不明ですが、戦国時代にこの地域が緊迫した状況に包まれていたことが想像できます。野手合戦後、野手城は押田氏の城となり、八日市場城周辺は押田氏によって掌握されました。横須賀城は八日市場城、野手城と連携して機能していたと考えられます。

城跡は現在集落になっていて、遺構等は明確に残っていないものの、「戸城(外城)」の字名が残り、地元には「向城」「コヅメ(小詰か?)」という城郭を連想させる呼び名も残ります。また、西側の長徳寺周辺には土手や水路が残っていて、当時の堀、土塁だと考えられています。

 

【御城印デザインのご説明】

城郭遺構があまり残っていない横須賀城ですが、江戸時代に描かれた絵図面には、「コヅメ」を取り囲むように堀が巡らされている様子が描かれています。また、長徳寺の西側には「鐘ヶ淵」と呼ばれる沼があり、湿地帯に囲まれた微高地の様子が見て取れます。御城印はその絵図面をモチーフにするとともに、周囲の関連する城である八日市場城、野手城との位置関係が分かる地図をデザインしました。あわせて、押田氏の家紋「九曜」をモチーフにしました。



〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休


○まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

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2024年2月22日 (木)

御城印新作「山田城」の販売情報

今月の新しい御城印は「山田城」です。
2月24日(土)から販売開始♪

山田城は埼玉県滑川町にあるお城です。
森林公園の敷地の中にあります。
森林公園は、そもそも敷地内に鎌倉街道が通り、もうひとつの山崎城も敷地内にあるというとても面白いスポットです。
ぜひ、森林公園で自然を楽しみながらお城と歴史も楽しんで下さい。
山田城の説明と販売情報は以下をご覧下さい✨

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【山田城のご説明】埼玉県比企郡滑川町
山田城は荒川の南側の丘陵上に築かれ、現在は国営武蔵丘陵森林公園内に遺構が良好に残っています。北方から南方に張り出した台地の突端に位置し、東西には谷が入り込み、周囲は湿地となっていたと考えられます。
山田城の築城等に関する詳細は不明なものの、長方形の区画を囲む土塁、空堀、虎口などが良好に残り、戦国時代の城館がその姿をとどめています。曲輪内部には部分的に土塁と空堀が残っており、このことから複数の区画に仕切られていたことが推察されます。しかし、曲輪内の堀は中途半端な状態で造成が終わっていて、さらに曲輪の平坦面はしっかり水平に造成されておらず、傾斜しています。このことから、未完成の城、もしくは一時的に使用された陣城とも考えられています。いずれにせよ、山田城が築かれた丘陵上には鎌倉街道(伝承)が通っていたとされるため、街道の押さえ、見張りの役目を担っていたと思われます。

山田城の詳細は不明なものの、土地の伝承では贄田摂津守、小高大和守父子らが城主だったと伝わっています。贄田氏、小高氏はともに忍の成田氏の家臣だったとされ、贄田氏は山田城の築かれた「山田」、小高氏は山田の西側に隣接する「福田」がそれぞれの領地と考えられています。
贄田、小高の両氏は、忍の成田氏の家臣であることから、永禄3年(1560年)の上杉謙信(長尾景虎)の小田原城攻めの際には上杉方として参陣したと推測されます。
また、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原の役の際には、碓氷峠を越えて関東に進軍してきた前田利家の軍勢によって落城したとも伝わります。

【御城印デザインのご説明】
山田城が築かれた丘陵上には鎌倉街道(伝承)が通り、街道を押さえる役目を持っていたと考えられることから、御城印には山田城下を行き交う軍勢を描きました。また、同じ国営武蔵丘陵森林公園の敷地内北側には、土塁と空堀で囲まれた山崎城があります。さらに、谷を挟んで東側には谷城があります。交通の要衝地のため、時代や用途に応じて複数の城が密集して築かれたのだと思われます。
また、築城等の詳細は不明なものの、国営武蔵丘陵森林公園の整備により、良好な遺構が確認できる山田城の御城印には縄張図をモチーフにしました。

販売場所は「武蔵丘陵森林公園」のエントランス売店です。

開園時間などはHPをご覧下さい。
国営武蔵丘陵森林公園 | 全国で初めての国営公園 (shinrinkoen.jp)
入園料不要でお求めいただけます。
南口改札にて販売してます。
ただし、山田城をまだ見学したことない方はぜひ入園いただき、城もお楽しみ下さい✨
※5月か6月あたりにツアーやろうとおもいます(-o-)/

 

 

 

 

 

 

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2024年1月23日 (火)

御城印、新作販売開始のお知らせ

1月27日から、千葉県旭市の「江ヶ崎城」の御城印が販売開始になります✨
かつて存在した椿の海を取り囲むように築かれた城郭群のひとつです。
下に詳しい説明と、販売情報を書いておきます(-o-)/

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【江ヶ崎城のご説明】千葉県旭市
江ヶ崎城はかつて存在した椿海(つばきのうみ)の南端に位置し、東の低地から西へ突き出した半島状の微高地上築かれました。江ヶ崎城の北方、南方、西方は椿海に面していることから、水上交通と密接に関わる城であったことが推察されます。
また、当時、椿海から太平洋に流れ出していた仁玉(にったま)川にも面していることから、椿海と太平洋を結ぶ水の道を押さえる役目も担っていたと考えられます。

椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄町、旭市、匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西12km、南北4kmにおよびました。古代から中世において、重要な水運を担う水上交通の大動脈でした。そのため、椿海を囲むようにたくさんの城郭が築かれました。

江ヶ崎城の北西700mには、入江を挟んで仲島城があり、両城で連動して椿海と刑部川の水運を掌握していたと思われます。
江ヶ崎城の築城等に関する詳細は不明で、伝承も残っていません。しかし、現在、江ヶ崎城の主郭と考える場所には子安神社が祀られていて、神社の境内の北側、東側に水堀、西側は空堀になっています。さらに、水堀の内側には土塁が残るとともに、周辺の民家の敷地等にも土塁が一部残存しています。

江ヶ崎城の周辺には、「鎮守郭」「東郭」「西郭」などの小字名が残り、また、古くは「馬場内」「花だて」「中屋敷」などの地名も存在していたといい、それらの地名が城の存在を示しているといえます。
また、子安神社は、明治元年まで妙見社であり、妙見社は千葉氏の信仰を集めた神社であることから、江ヶ崎城は千葉一族に関係する城だったことが推察されます。仲島城は千葉一族である大須賀氏、加瀬氏に関係する城であることから、江ヶ崎城も仲島城、ひいては千葉一族との関係性が偲ばれます。

 

【御城印デザインのご説明】
椿海と太平洋を結ぶ水運の要衝地に築かれた江ヶ崎城の御城印には、地形の分かる地図を配置しました。あわせて、連携して機能していたであろう仲島城の場所も地図上に図示しました。さらに、水上交通の発達した江ヶ崎城をイメージし、行き交う舟を描きました。
江ヶ崎城は千葉一族と関係する城と思われるため、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。

 

 1月27日(土)から販売開始。
販売場所は以下の2箇所です♪

〇季楽里あさひ

〒289-2511

千葉県旭市イの5238番地

電話:0479-62-0888

9:00~17:00 年中無休



〇まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)


 

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2023年12月18日 (月)

御城印のお知らせ

今月は私がデザインさせていただいた御城印が2城発行になりました。
現地で是非お求めください✨
猿掛城は、先日ツアーで訪れましたがとっても楽しい城です。
今度、ブログで紹介しますね。

①岡山県矢掛町「猿掛城」
12月18日から販売開始

【猿掛城のご説明】
猿掛城は矢掛町と倉敷市にまたがって広がる丘陵から北方に張り出した標高約250mの猿掛山に築かれました。北麓には小田川が流れ、さらに小田川と並行するように山陽道が通る水陸交通の要衝地です。
猿掛城は鎌倉時代に庄家長によって築かれたと伝わります。庄氏は、武蔵国児玉郡(埼玉県本庄市)を本拠とする氏族で、源頼朝の挙兵に従いました。家長は平家追討の一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いなどで活躍し功を上げ、備中国で地頭となり、猿掛城を築き領地経営にあたったとされます。以降、猿掛城を本城とし、室町時代には備中守護代になるほど勢力を拡大しました。

15世紀終わり頃、備中守護細川氏と細川本家である細川京兆家が激しく対立すると、庄家当主元資は京兆家の後ろ盾を受けて守護細川氏と対立。それにより、猿掛城は守護方の軍勢の攻撃を受け、元資は逃亡、家臣香西五郎衛門は城内で切腹したと伝わります。その後、守護細川氏と庄氏は和睦しました。

天文22年(1553年)、尼子氏の配下にあった庄氏と、毛利氏と結んでいた鶴首城主三村家親の対立により、「猿掛合戦」と呼ばれる戦いが起き、城下で激しい戦いが繰り広げられたといいます。結果、庄氏は三村氏から元祐(元資)を養子として受け入れることを条件に和睦を結び、三村氏の配下に組み込まれていきました。これにより、城代であった庄実近は城内の太夫丸に移ったと伝わります。

しかし天正3年(1575年)、三村氏が毛利氏から離反すると、猿掛城は毛利氏から攻撃され落城。以降、毛利元清(元就の4男)が猿掛城主となり、毛利方の城になりました。水攻めで有名な豊臣秀吉による備中高松城攻めでは、猿掛城には毛利輝元が入り、毛利方の本陣になりました。元清が猿掛城より少し西に位置する茶臼山に城を築き移ると、猿掛城は地域の拠点としての役目を終えたと考えられます。

【御城印デザインのご説明】
猿掛城の御城印には、鎌倉時代から戦国時代まで猿掛城を本城とした庄氏の家紋「軍配団扇紋」をデザインしました。あわせて、庄氏に養子を送り、実質的に支配下に組み込んだ三村氏の家紋「丸に三つ柏」、さらに三村氏に替わって猿掛城に入った毛利氏の家紋「一文字に三つ星」をデザインしました。

また、庄家長が源平合戦の際に、平清盛の5男重衡を捕らえたと伝わることから「平家物語絵巻」をモチーフにしました。
さらに、古くからの交通の大動脈であった小田川と山陽道を臨む要衝地に築かれた猿掛城の城山の山容と、地形がわかる地図をそれぞれモチーフにしました。

 
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販売場所
〇やかげビジターセンター問屋
小田郡矢掛町矢掛1989
営業時間:9:00~17:00(年中無休。年末12/30~1/2休み)
電話番号:0866-83-0001






②千葉県匝瑳市「宮和田城」
12月30日から販売開始

【宮和田城のご説明】千葉県匝瑳市

宮和田城は借当川の南側に位置し、北に向かって大きく突き出した台地上に築かれました。この台地の北側突端には大浦城、西側突端には長岡城が築かれています。

宮和田城の築城等に関する詳細は不明ですが、伝承によれば千葉氏の系統である椎名一族、宮和田氏の居城とされています。大浦城の大浦氏、長岡城の長岡氏は宮和田氏とともに椎名一族の系統であると考えられていて、その立地から宮和田城、大浦城、長岡城が連携して機能していたことが推察されます。

借当川は中世においては「境川」と呼ばれ、北条庄と南条庄の境界河川となっていました。宮和田城を含む借当川より南側は、当時は南条庄に属し、椎名氏が領していました。

一方、借当川より北側の北条庄は飯高一族が領していて、南条庄の椎名一族との間でたびたび争いが起きました。それにより、緊迫したこの地域には多くの城が築かれたと考えられます。

宮和田城は、現在集会所が建っている区画が主郭だったと考えられていて、いまも周囲には土塁が残ります。この主郭を中心に東西に曲輪が展開します。南側には街道が通り、かつての城下の道筋と考えられています。その街道を挟んで西側には瘡神社が建っていて、境内の西端には物見台と伝わる高まりが残っています。このように宮和田城は、城下の街道を挟み込むような構造をしていることから、松山方面と飯高方面を結ぶ街道の押さえの役目を担っていたと考えられます。宮和田城は借当川の水運のみならず、水陸両方の交通の要衝地に築かれ、大浦城や長岡城と連携して機能していた地域の重要な城であることが見て取れます。

 

 

 

【宮和田城のご説明】
宮和田城は借当川の南側に位置し、北に向かって大きく突き出した台地上に築かれました。この台地の北側突端には大浦城、西側突端には長岡城が築かれています。
宮和田城の築城等に関する詳細は不明ですが、伝承によれば千葉氏の系統である椎名一族、宮和田氏の居城とされています。大浦城の大浦氏、長岡城の長岡氏は宮和田氏とともに椎名一族の系統であると考えられていて、その立地から宮和田城、大浦城、長岡城が連携して機能していたことが推察されます。

借当川は中世においては「境川」と呼ばれ、北条庄と南条庄の境界河川となっていました。宮和田城を含む借当川より南側は、当時は南条庄に属し、椎名氏が領していました。
一方、借当川より北側の北条庄は飯高一族が領していて、南条庄の椎名一族との間でたびたび争いが起きました。それにより、緊迫したこの地域には多くの城が築かれたと考えられます。

宮和田城は、現在集会所が建っている区画が主郭だったと考えられていて、いまも周囲には土塁が残ります。この主郭を中心に東西に曲輪が展開します。南側には街道が通り、かつての城下の道筋と考えられています。その街道を挟んで西側には瘡神社が建っていて、境内の西端には物見台と伝わる高まりが残っています。このように宮和田城は、城下の街道を挟み込むような構造をしていることから、松山方面と飯高方面を結ぶ街道の押さえの役目を担っていたと考えられます。宮和田城は借当川の水運のみならず、水陸両方の交通の要衝地に築かれ、大浦城や長岡城と連携して機能していた地域の重要な城であることが見て取れます。


【御城印デザインのご説明】
千葉一族椎名氏の系統である宮和田氏の居城と推察される宮和田城の御城印には、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。また、水陸両方の要衝地に築かれた宮和田城の御城印には地形の分かる地図を配置しました。あわせて、連携して機能していたであろう大浦城、長岡城の場所も地図上に図示しました。

借当川は中世において、海上航海の難所である犬吠埼を避けて東北方面に向かうための内陸太平洋航路として利用された水運の大動脈と考えられています。ルートとしては、九十九里浜に結節する栗山川河口から、借当川を経て、椿海、香取の海、北浦、涸沼、そして太平洋へ出ると想定されています。これらのことから、宮和田城も水上交通の利便性を見込んで築かれたと考えられるため、御城印には借当川と行き交う舟のイメージを描きました。
なお、かつては借当川に繋がる沼が宮和田城の北側に入り込んでいたと考えられ、北側に残る物見台跡は船の行き来を監視していたとも推察できます。



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販売場所
〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)
千葉県匝瑳市八日市場イ137-1
電話番号 0479-73-5015
営業時間9時から18時
年中無休

 

〇まるごとしすい
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2
043-376-6810
営業時間 9時~18時 
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)



 あわせて、小机城のお城エキスポ2023バージョンもデザインさせていただきました。
1000枚限定販売なので、EXPOで売り切れたたら販売終了です。
残っていれば、横浜市立歴史博物館で販売されると思います。

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2023年11月28日 (火)

産経新聞埼玉県版コラム「プロローグ・埼玉県内の歴史舞台に出陣!」前後編

産経新聞埼玉県版ネット記事になったので前編後編全文読めます。
今回はプロローグです。来月からは1城づつ、お城の紹介コラムになります。
お城だけじゃなくて、周辺の歴史を楽しめる出陣型(笑)コラムにするつもりです。
文字数の制限などがあるので、全部は書き切れませんが行ってみたい!見てみたい!と思っていただけるように書こうと思います♪


埼玉県内の歴史舞台に出陣!(前編)
 
埼玉県内の歴史舞台に出陣!(後編)

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2023年11月23日 (木)

仲島城の御城印販売開始のお知らせ

新しく千葉県旭市の「仲島城」の御城印が発行になります。
デザインと説明文書かせていただきました。
仲島城は椿海に面した城で、低い台地ながらも水上交通と密接に結びついた大事な城であったことが現地に行くと分かります。
よかったら現地に行ってみてください。
神社が残り、わずかな遺構を残す程度ですが周辺には良い雰囲気の集落が残り、歴史を感じることができて楽しいです♪
お城の情報や販売情報は以下をご覧下さい✨

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販売開始
2023年11月25日(土曜)

販売場所
◎季楽里あさひ
〒289-2511
千葉県旭市イの5238番地
電話:0479-62-0888
9:00~17:00 年中無休

◎まるごとしすい
〒285-0912
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810
営業時間 9時~18時 
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)


仲島城の説明
かつて存在した椿海(つばきのうみ)の南側の台地に築かれました。椿海を水堀代わりとした要害であったと考えられます。かつて、この地域は「大田村」と呼ばれており、『旭市史』には、椿海に面した湊町だったと書かれています。
椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄町、旭市、匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西12km、南北4kmにおよびました。古代から中世において、重要な水運を担う水上交通の大動脈でした。そのため、椿海を囲むようにたくさんの城郭が築かれました。
現在、仲島城の周りは開発され住宅地となっていますが、浅間神社を中心に周囲には平場が残っていて、腰曲輪や土塁などの城郭遺構が確認できます。
仲島城の築城などに関する詳細は不明ながらも、正中元年(1324年)に千葉一族の大須賀尾張守が築城したとされ、大須賀八左衛門が城主となったと伝わっています。
戦国時代、仲島城の大須賀氏は福岡城(匝瑳市)の城主押田氏と連合していた時期があり、東総地域における反小田原北条氏の中核となっていたようです。天文16年(1547年)、大須賀氏は、押田氏とともに仲島城を拠点に北条方の勢力と戦ったと伝わり、「大田合戦」と呼ばれる激しい戦いが行われたとされます。仲島城では、500名以上の戦死者が出たと伝わります。
さらに、大田合戦の3日後には、八日市場城にて「八日市場合戦」が行われ、この戦いでも800名近くの戦死者が出たと伝わっています。これらの戦いを経て、東総地域の反小田原北条勢力は、ついに北条氏の勢力下に入ったと考えられています。
永禄元年(1558年)には、加瀬肥後守が城主だったと伝わり、大須賀氏に代わって加瀬氏が仲島城に入ったと考えられています。その後、永禄8年(1565年)に里見方の正木時忠が府馬方面から来襲。その後も度々、正木氏による攻撃を受けますが、加瀬氏はこれを撃退したと伝わります。豊臣秀吉による小田原の役(1590年)の際に仲島城は降伏開城し、その後、廃城となりました。

 

御城印デザインの説明
千葉一族大須賀氏が築城した仲島城の御城印には、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。
また、低い台地でありながら、椿海を水堀代わりに使用した要害であった仲島城の地形が分かる地図をモチーフにしました。中世期においては、椿海沿岸にはたくさんの城が築かれており、仲島城もそれらの城と水上交通を介して連携していたと思われ、内陸部の河川湖沼の水運や湊の掌握を目的とする水城(みずじろ)の機能を有していたと推察されます。
何度も合戦があったとされる伝承を持つ仲島城の御城印には、舟で攻め寄せる戦いの場面をイメージとして描きました。

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