2024年2月22日 (木)

御城印新作「山田城」の販売情報

今月の新しい御城印は「山田城」です。
2月24日(土)から販売開始♪

山田城は埼玉県滑川町にあるお城です。
森林公園の敷地の中にあります。
森林公園は、そもそも敷地内に鎌倉街道が通り、もうひとつの山崎城も敷地内にあるというとても面白いスポットです。
ぜひ、森林公園で自然を楽しみながらお城と歴史も楽しんで下さい。
山田城の説明と販売情報は以下をご覧下さい✨

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【山田城のご説明】埼玉県比企郡滑川町
山田城は荒川の南側の丘陵上に築かれ、現在は国営武蔵丘陵森林公園内に遺構が良好に残っています。北方から南方に張り出した台地の突端に位置し、東西には谷が入り込み、周囲は湿地となっていたと考えられます。
山田城の築城等に関する詳細は不明なものの、長方形の区画を囲む土塁、空堀、虎口などが良好に残り、戦国時代の城館がその姿をとどめています。曲輪内部には部分的に土塁と空堀が残っており、このことから複数の区画に仕切られていたことが推察されます。しかし、曲輪内の堀は中途半端な状態で造成が終わっていて、さらに曲輪の平坦面はしっかり水平に造成されておらず、傾斜しています。このことから、未完成の城、もしくは一時的に使用された陣城とも考えられています。いずれにせよ、山田城が築かれた丘陵上には鎌倉街道(伝承)が通っていたとされるため、街道の押さえ、見張りの役目を担っていたと思われます。

山田城の詳細は不明なものの、土地の伝承では贄田摂津守、小高大和守父子らが城主だったと伝わっています。贄田氏、小高氏はともに忍の成田氏の家臣だったとされ、贄田氏は山田城の築かれた「山田」、小高氏は山田の西側に隣接する「福田」がそれぞれの領地と考えられています。
贄田、小高の両氏は、忍の成田氏の家臣であることから、永禄3年(1560年)の上杉謙信(長尾景虎)の小田原城攻めの際には上杉方として参陣したと推測されます。
また、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原の役の際には、碓氷峠を越えて関東に進軍してきた前田利家の軍勢によって落城したとも伝わります。

【御城印デザインのご説明】
山田城が築かれた丘陵上には鎌倉街道(伝承)が通り、街道を押さえる役目を持っていたと考えられることから、御城印には山田城下を行き交う軍勢を描きました。また、同じ国営武蔵丘陵森林公園の敷地内北側には、土塁と空堀で囲まれた山崎城があります。さらに、谷を挟んで東側には谷城があります。交通の要衝地のため、時代や用途に応じて複数の城が密集して築かれたのだと思われます。
また、築城等の詳細は不明なものの、国営武蔵丘陵森林公園の整備により、良好な遺構が確認できる山田城の御城印には縄張図をモチーフにしました。

販売場所は「武蔵丘陵森林公園」のエントランス売店です。

開園時間などはHPをご覧下さい。
国営武蔵丘陵森林公園 | 全国で初めての国営公園 (shinrinkoen.jp)
入園料不要でお求めいただけます。
南口改札にて販売してます。
ただし、山田城をまだ見学したことない方はぜひ入園いただき、城もお楽しみ下さい✨
※5月か6月あたりにツアーやろうとおもいます(-o-)/

 

 

 

 

 

 

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2024年1月23日 (火)

御城印、新作販売開始のお知らせ

1月27日から、千葉県旭市の「江ヶ崎城」の御城印が販売開始になります✨
かつて存在した椿の海を取り囲むように築かれた城郭群のひとつです。
下に詳しい説明と、販売情報を書いておきます(-o-)/

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【江ヶ崎城のご説明】千葉県旭市
江ヶ崎城はかつて存在した椿海(つばきのうみ)の南端に位置し、東の低地から西へ突き出した半島状の微高地上築かれました。江ヶ崎城の北方、南方、西方は椿海に面していることから、水上交通と密接に関わる城であったことが推察されます。
また、当時、椿海から太平洋に流れ出していた仁玉(にったま)川にも面していることから、椿海と太平洋を結ぶ水の道を押さえる役目も担っていたと考えられます。

椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄町、旭市、匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西12km、南北4kmにおよびました。古代から中世において、重要な水運を担う水上交通の大動脈でした。そのため、椿海を囲むようにたくさんの城郭が築かれました。

江ヶ崎城の北西700mには、入江を挟んで仲島城があり、両城で連動して椿海と刑部川の水運を掌握していたと思われます。
江ヶ崎城の築城等に関する詳細は不明で、伝承も残っていません。しかし、現在、江ヶ崎城の主郭と考える場所には子安神社が祀られていて、神社の境内の北側、東側に水堀、西側は空堀になっています。さらに、水堀の内側には土塁が残るとともに、周辺の民家の敷地等にも土塁が一部残存しています。

江ヶ崎城の周辺には、「鎮守郭」「東郭」「西郭」などの小字名が残り、また、古くは「馬場内」「花だて」「中屋敷」などの地名も存在していたといい、それらの地名が城の存在を示しているといえます。
また、子安神社は、明治元年まで妙見社であり、妙見社は千葉氏の信仰を集めた神社であることから、江ヶ崎城は千葉一族に関係する城だったことが推察されます。仲島城は千葉一族である大須賀氏、加瀬氏に関係する城であることから、江ヶ崎城も仲島城、ひいては千葉一族との関係性が偲ばれます。

 

【御城印デザインのご説明】
椿海と太平洋を結ぶ水運の要衝地に築かれた江ヶ崎城の御城印には、地形の分かる地図を配置しました。あわせて、連携して機能していたであろう仲島城の場所も地図上に図示しました。さらに、水上交通の発達した江ヶ崎城をイメージし、行き交う舟を描きました。
江ヶ崎城は千葉一族と関係する城と思われるため、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。

 

 1月27日(土)から販売開始。
販売場所は以下の2箇所です♪

〇季楽里あさひ

〒289-2511

千葉県旭市イの5238番地

電話:0479-62-0888

9:00~17:00 年中無休



〇まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)


 

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2023年12月18日 (月)

御城印のお知らせ

今月は私がデザインさせていただいた御城印が2城発行になりました。
現地で是非お求めください✨
猿掛城は、先日ツアーで訪れましたがとっても楽しい城です。
今度、ブログで紹介しますね。

①岡山県矢掛町「猿掛城」
12月18日から販売開始

【猿掛城のご説明】
猿掛城は矢掛町と倉敷市にまたがって広がる丘陵から北方に張り出した標高約250mの猿掛山に築かれました。北麓には小田川が流れ、さらに小田川と並行するように山陽道が通る水陸交通の要衝地です。
猿掛城は鎌倉時代に庄家長によって築かれたと伝わります。庄氏は、武蔵国児玉郡(埼玉県本庄市)を本拠とする氏族で、源頼朝の挙兵に従いました。家長は平家追討の一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いなどで活躍し功を上げ、備中国で地頭となり、猿掛城を築き領地経営にあたったとされます。以降、猿掛城を本城とし、室町時代には備中守護代になるほど勢力を拡大しました。

15世紀終わり頃、備中守護細川氏と細川本家である細川京兆家が激しく対立すると、庄家当主元資は京兆家の後ろ盾を受けて守護細川氏と対立。それにより、猿掛城は守護方の軍勢の攻撃を受け、元資は逃亡、家臣香西五郎衛門は城内で切腹したと伝わります。その後、守護細川氏と庄氏は和睦しました。

天文22年(1553年)、尼子氏の配下にあった庄氏と、毛利氏と結んでいた鶴首城主三村家親の対立により、「猿掛合戦」と呼ばれる戦いが起き、城下で激しい戦いが繰り広げられたといいます。結果、庄氏は三村氏から元祐(元資)を養子として受け入れることを条件に和睦を結び、三村氏の配下に組み込まれていきました。これにより、城代であった庄実近は城内の太夫丸に移ったと伝わります。

しかし天正3年(1575年)、三村氏が毛利氏から離反すると、猿掛城は毛利氏から攻撃され落城。以降、毛利元清(元就の4男)が猿掛城主となり、毛利方の城になりました。水攻めで有名な豊臣秀吉による備中高松城攻めでは、猿掛城には毛利輝元が入り、毛利方の本陣になりました。元清が猿掛城より少し西に位置する茶臼山に城を築き移ると、猿掛城は地域の拠点としての役目を終えたと考えられます。

【御城印デザインのご説明】
猿掛城の御城印には、鎌倉時代から戦国時代まで猿掛城を本城とした庄氏の家紋「軍配団扇紋」をデザインしました。あわせて、庄氏に養子を送り、実質的に支配下に組み込んだ三村氏の家紋「丸に三つ柏」、さらに三村氏に替わって猿掛城に入った毛利氏の家紋「一文字に三つ星」をデザインしました。

また、庄家長が源平合戦の際に、平清盛の5男重衡を捕らえたと伝わることから「平家物語絵巻」をモチーフにしました。
さらに、古くからの交通の大動脈であった小田川と山陽道を臨む要衝地に築かれた猿掛城の城山の山容と、地形がわかる地図をそれぞれモチーフにしました。

 
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販売場所
〇やかげビジターセンター問屋
小田郡矢掛町矢掛1989
営業時間:9:00~17:00(年中無休。年末12/30~1/2休み)
電話番号:0866-83-0001






②千葉県匝瑳市「宮和田城」
12月30日から販売開始

【宮和田城のご説明】千葉県匝瑳市

宮和田城は借当川の南側に位置し、北に向かって大きく突き出した台地上に築かれました。この台地の北側突端には大浦城、西側突端には長岡城が築かれています。

宮和田城の築城等に関する詳細は不明ですが、伝承によれば千葉氏の系統である椎名一族、宮和田氏の居城とされています。大浦城の大浦氏、長岡城の長岡氏は宮和田氏とともに椎名一族の系統であると考えられていて、その立地から宮和田城、大浦城、長岡城が連携して機能していたことが推察されます。

借当川は中世においては「境川」と呼ばれ、北条庄と南条庄の境界河川となっていました。宮和田城を含む借当川より南側は、当時は南条庄に属し、椎名氏が領していました。

一方、借当川より北側の北条庄は飯高一族が領していて、南条庄の椎名一族との間でたびたび争いが起きました。それにより、緊迫したこの地域には多くの城が築かれたと考えられます。

宮和田城は、現在集会所が建っている区画が主郭だったと考えられていて、いまも周囲には土塁が残ります。この主郭を中心に東西に曲輪が展開します。南側には街道が通り、かつての城下の道筋と考えられています。その街道を挟んで西側には瘡神社が建っていて、境内の西端には物見台と伝わる高まりが残っています。このように宮和田城は、城下の街道を挟み込むような構造をしていることから、松山方面と飯高方面を結ぶ街道の押さえの役目を担っていたと考えられます。宮和田城は借当川の水運のみならず、水陸両方の交通の要衝地に築かれ、大浦城や長岡城と連携して機能していた地域の重要な城であることが見て取れます。

 

 

 

【宮和田城のご説明】
宮和田城は借当川の南側に位置し、北に向かって大きく突き出した台地上に築かれました。この台地の北側突端には大浦城、西側突端には長岡城が築かれています。
宮和田城の築城等に関する詳細は不明ですが、伝承によれば千葉氏の系統である椎名一族、宮和田氏の居城とされています。大浦城の大浦氏、長岡城の長岡氏は宮和田氏とともに椎名一族の系統であると考えられていて、その立地から宮和田城、大浦城、長岡城が連携して機能していたことが推察されます。

借当川は中世においては「境川」と呼ばれ、北条庄と南条庄の境界河川となっていました。宮和田城を含む借当川より南側は、当時は南条庄に属し、椎名氏が領していました。
一方、借当川より北側の北条庄は飯高一族が領していて、南条庄の椎名一族との間でたびたび争いが起きました。それにより、緊迫したこの地域には多くの城が築かれたと考えられます。

宮和田城は、現在集会所が建っている区画が主郭だったと考えられていて、いまも周囲には土塁が残ります。この主郭を中心に東西に曲輪が展開します。南側には街道が通り、かつての城下の道筋と考えられています。その街道を挟んで西側には瘡神社が建っていて、境内の西端には物見台と伝わる高まりが残っています。このように宮和田城は、城下の街道を挟み込むような構造をしていることから、松山方面と飯高方面を結ぶ街道の押さえの役目を担っていたと考えられます。宮和田城は借当川の水運のみならず、水陸両方の交通の要衝地に築かれ、大浦城や長岡城と連携して機能していた地域の重要な城であることが見て取れます。


【御城印デザインのご説明】
千葉一族椎名氏の系統である宮和田氏の居城と推察される宮和田城の御城印には、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。また、水陸両方の要衝地に築かれた宮和田城の御城印には地形の分かる地図を配置しました。あわせて、連携して機能していたであろう大浦城、長岡城の場所も地図上に図示しました。

借当川は中世において、海上航海の難所である犬吠埼を避けて東北方面に向かうための内陸太平洋航路として利用された水運の大動脈と考えられています。ルートとしては、九十九里浜に結節する栗山川河口から、借当川を経て、椿海、香取の海、北浦、涸沼、そして太平洋へ出ると想定されています。これらのことから、宮和田城も水上交通の利便性を見込んで築かれたと考えられるため、御城印には借当川と行き交う舟のイメージを描きました。
なお、かつては借当川に繋がる沼が宮和田城の北側に入り込んでいたと考えられ、北側に残る物見台跡は船の行き来を監視していたとも推察できます。



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販売場所
〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)
千葉県匝瑳市八日市場イ137-1
電話番号 0479-73-5015
営業時間9時から18時
年中無休

 

〇まるごとしすい
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2
043-376-6810
営業時間 9時~18時 
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)



 あわせて、小机城のお城エキスポ2023バージョンもデザインさせていただきました。
1000枚限定販売なので、EXPOで売り切れたたら販売終了です。
残っていれば、横浜市立歴史博物館で販売されると思います。

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2023年11月28日 (火)

産経新聞埼玉県版コラム「プロローグ・埼玉県内の歴史舞台に出陣!」前後編

産経新聞埼玉県版ネット記事になったので前編後編全文読めます。
今回はプロローグです。来月からは1城づつ、お城の紹介コラムになります。
お城だけじゃなくて、周辺の歴史を楽しめる出陣型(笑)コラムにするつもりです。
文字数の制限などがあるので、全部は書き切れませんが行ってみたい!見てみたい!と思っていただけるように書こうと思います♪


埼玉県内の歴史舞台に出陣!(前編)
 
埼玉県内の歴史舞台に出陣!(後編)

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2023年11月23日 (木)

仲島城の御城印販売開始のお知らせ

新しく千葉県旭市の「仲島城」の御城印が発行になります。
デザインと説明文書かせていただきました。
仲島城は椿海に面した城で、低い台地ながらも水上交通と密接に結びついた大事な城であったことが現地に行くと分かります。
よかったら現地に行ってみてください。
神社が残り、わずかな遺構を残す程度ですが周辺には良い雰囲気の集落が残り、歴史を感じることができて楽しいです♪
お城の情報や販売情報は以下をご覧下さい✨

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販売開始
2023年11月25日(土曜)

販売場所
◎季楽里あさひ
〒289-2511
千葉県旭市イの5238番地
電話:0479-62-0888
9:00~17:00 年中無休

◎まるごとしすい
〒285-0912
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810
営業時間 9時~18時 
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)


仲島城の説明
かつて存在した椿海(つばきのうみ)の南側の台地に築かれました。椿海を水堀代わりとした要害であったと考えられます。かつて、この地域は「大田村」と呼ばれており、『旭市史』には、椿海に面した湊町だったと書かれています。
椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄町、旭市、匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西12km、南北4kmにおよびました。古代から中世において、重要な水運を担う水上交通の大動脈でした。そのため、椿海を囲むようにたくさんの城郭が築かれました。
現在、仲島城の周りは開発され住宅地となっていますが、浅間神社を中心に周囲には平場が残っていて、腰曲輪や土塁などの城郭遺構が確認できます。
仲島城の築城などに関する詳細は不明ながらも、正中元年(1324年)に千葉一族の大須賀尾張守が築城したとされ、大須賀八左衛門が城主となったと伝わっています。
戦国時代、仲島城の大須賀氏は福岡城(匝瑳市)の城主押田氏と連合していた時期があり、東総地域における反小田原北条氏の中核となっていたようです。天文16年(1547年)、大須賀氏は、押田氏とともに仲島城を拠点に北条方の勢力と戦ったと伝わり、「大田合戦」と呼ばれる激しい戦いが行われたとされます。仲島城では、500名以上の戦死者が出たと伝わります。
さらに、大田合戦の3日後には、八日市場城にて「八日市場合戦」が行われ、この戦いでも800名近くの戦死者が出たと伝わっています。これらの戦いを経て、東総地域の反小田原北条勢力は、ついに北条氏の勢力下に入ったと考えられています。
永禄元年(1558年)には、加瀬肥後守が城主だったと伝わり、大須賀氏に代わって加瀬氏が仲島城に入ったと考えられています。その後、永禄8年(1565年)に里見方の正木時忠が府馬方面から来襲。その後も度々、正木氏による攻撃を受けますが、加瀬氏はこれを撃退したと伝わります。豊臣秀吉による小田原の役(1590年)の際に仲島城は降伏開城し、その後、廃城となりました。

 

御城印デザインの説明
千葉一族大須賀氏が築城した仲島城の御城印には、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。
また、低い台地でありながら、椿海を水堀代わりに使用した要害であった仲島城の地形が分かる地図をモチーフにしました。中世期においては、椿海沿岸にはたくさんの城が築かれており、仲島城もそれらの城と水上交通を介して連携していたと思われ、内陸部の河川湖沼の水運や湊の掌握を目的とする水城(みずじろ)の機能を有していたと推察されます。
何度も合戦があったとされる伝承を持つ仲島城の御城印には、舟で攻め寄せる戦いの場面をイメージとして描きました。

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2023年10月26日 (木)

千葉県匝瑳市「椿城」の御城印発行✨

シティ・アンバサダー(観光大使)を務めさせていただいている千葉県匝瑳市で新しい御城印が発行になります✨
「椿城」です。
素敵な名前✨

かつて存在した広大な湖「椿の海」に面して築かれた城です。
今はほとんどが畑になっていますが、交通の要衝地であったことがよく分かります。

すぐ近くには、古代の大湊があったと指摘されていますし、実際歩いたらめちゃめちゃ面白かった!
ツアー、来年やります。
私が最も得意とするパターンのコースができそう♪
お楽しみに✨

ということで、椿城の御城印も愛情込めて作りました。
説明文や販売情報は以下をご覧下さい。

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椿城のご説明
椿城は、かつて存在した椿海(つばきのうみ)の南西隅に張り出す台地に築かれた城です。椿海は江戸時代初期に干拓されるまで存在した巨大な湖で、現在の東庄町、旭市、匝瑳市にまたがって広がり、その大きさは東西12km、南北4kmにおよびました。古代から中世において、重要な水運を担う水上交通の大動脈でした。そのため、椿海を囲むようにたくさんの城郭が築かれました。
椿城は、八重崎集落背後の台地に築かれ、その南側を街道が通っていることから水陸交通の要衝地であったことが分かります。

椿城については文献には乏しいものの、大正8年に発刊された『千葉縣誌』にその名が見え、「字八幡台、浅間台、蔵之内に跨がる東西七十間、南北二百間ばかり」と記されています。現在、城跡は広大な畑になっていて、かつての城域の大きさを偲べるものの、遺構としてはわずかな土塁などを残すのみです。

築城年代や築城主に関する詳細は不明ですが、『千葉縣誌』には海保三吉(かいほみつよし)の居城と書かれています。しかし、海保氏と椿城には全く関連性が見当たらず、むしろ、椿城の北側に位置する飯塚城を居城とした千葉一族飯塚氏と椿城の関連性が指摘されています。椿城の麓には飯塚氏ゆかりの常福寺があり、さらに椿城と道を挟んで東北にある「星神社」は、千葉一族の妙見信仰を祀るものであることからも、千葉一族飯塚氏と椿城の関連性が見て取れます。また、星神社が鎮座する小丘には物見台のような高まりや、堀切などが残ることから、星神社の一帯が椿城と連携して機能していたと推察できます。

 

御城印デザインのご説明
椿城周辺の常福寺や星神社が千葉一族と関連があると思われることから、御城印には千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。
また、椿海という中世における重要な水上交通の要所を臨む場所に位置する椿城の御城印には、地形の分かる地図をモチーフにしました。あわせて、椿海方面から見た椿城の城山山容とかつて行き交っていたであろう舟をデザインしました。

なお、椿城の城名としては、「椿海城」と表記している場合もありますが、地元では台地の地名が「椿」ということから、古くからこの城は「椿城」と呼ばれていました。そのため、当御城印でも「椿城」と表記しました。



10月28日(土)販売開始!

〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休

 

○まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

 

 

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2023年8月24日 (木)

岩ヶ崎城の御城印発行

千葉県香取市の岩ヶ崎城御城印が発行になりました。
岩ヶ崎城は鳥居元忠ゆかりの城。
いま、大河ドラマでとても目立ってるカッコイイ鳥居元忠ゆかりの城です。
(鳥居元忠ゆかり、2回言いました笑)

1590年の小田原合戦後に、徳川家康が関東に入ってくると、自分の家臣団を関東の要所に配置しました。
本多忠勝を大多喜城、鳥居元忠を岩ヶ崎城、三浦重成を大網(佐倉などもふくめ)、井伊直政を箕輪城などに。

岩ヶ崎城に入った鳥居元忠はここから伏見城の戦いに出陣。
そこで討ち死にを遂げました。
岩ヶ崎城はあまり知られていませんが、とても面白い歴史を秘めた城なんです。



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また、香取市は9月9日に講演会もあるので、ぜひフラリとお越し下さい。
講演会情報はこちら。
香取市講演会のお知らせ: 山城ガールむつみの出陣ノススメ (cocolog-nifty.com)



岩ヶ崎城の御城印は8月26日(土)から販売開始です。
お城の説明と販売情報は以下です✨


【岩ヶ崎城のご説明】千葉県香取市
岩ヶ崎城は、かつての内海「香取の海(現利根川)」に向かって伸びる台地の北端に築かれました。城山の標高は30m程ですが、湿地や湖沼、海に囲まれた要害だったと考えられます。現在、城山には稲荷神社と愛宕神社が祀られています。周辺には「城之内」「堀之内」「カラ堀」「大手」「若殿宿」などの地名が残っています。

現在でも千葉県と茨城県の県境にあたる岩ヶ崎城は、中世期においても下総国と常陸国の国境にあたることからも、岩ヶ崎城の緊迫した状況が推察できます。
岩ヶ崎城の詳細は不明ですが、千葉一族国分氏が築城に着手した可能性はありそうです。国分氏の本城は矢作城(大崎城)ですが、水運の抑えのため、さらには国境の防衛のために岩ヶ崎城を築城したとも考えられます。国分氏の主家である千葉氏が小田原北条氏の配下となると、国分氏も北条氏に属しました。そのため、岩ヶ崎城も北条氏方の城として、里見氏や正木氏、さらには常陸国の佐竹氏に備えたと考えられます。

天正18年(1590年)の小田原の役によって北条氏が滅び、関東に徳川家康が入部すると、岩ヶ崎城には家康配下の鳥居元忠が入り、下総矢作藩4万石が立藩されました。元忠は藩統治の拠点のひとつとして岩ヶ崎城の大規模な改修整備を始めたとされています。おそらく、常陸国佐竹氏への備えだと推察されます。
しかし、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる伏見城の戦いで元忠は戦死。これにより、岩ヶ崎城の改修が中止され、元忠の息子忠政が磐城平藩へ移封されると、矢作藩は廃藩となり、岩ヶ崎城は廃城となりました。

 

【御城印のご説明】
要害性の高い岩ヶ崎城の御城印には、海に向かって突き出す城山の地形がわかる地図をデザインしました。
そして、千葉一族国分氏ゆかりの城であるため、千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。あわせて、天正18年以降に入部した鳥居氏の家紋「竹に雀」「鳥居」を配置しました。

また、徳川家康から信頼の厚かった鳥居元忠ゆかりの城であることから、元忠の所用兜「鉄錆地椎実形兜」、所用籠手「袖付三本筒籠手」をモチーフにしました。これらは、元忠を祭神とする栃木県都賀郡壬生町に鎮座する精忠神社の社宝です。さらに鳥居元忠画像(壬生町・常楽寺所蔵)をモチーフにしました。
壬生は岩ヶ崎から陸奥国磐城平藩、出羽国山形藩、信濃国高遠藩、能登国下村藩、近江国水口藩への転封を経て、正徳2年(1712年)に鳥居家が入封した地であり、明治維新を迎えた地です。



販売情報
〇道の駅水の郷さわら
千葉県香取市イ3981-2
電話0478-50-1183
営業時間 8時から18時 年中無休

 

〇寺嶋陶苑
千葉県香取市小見川268
電話0478-82-2322
営業時間 8時30分から18時30分 水曜日定休

 

〇まるごとしすい
千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 
043-376-6810
営業時間 9時~18時 
定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)

 

 

 

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2023年7月20日 (木)

野手城の御城印発行のお知らせ

今月も新しく御城印が発行されます。
7月22日(土)販売開始です✨

千葉県匝瑳市の野手城です。
千葉常胤の甥にあたる胤知が野手を領し、野手氏の祖となったとされています。
戦国時代には「野手合戦」と呼ばれる戦いの舞台になりました!

遺構は少ないですが、地名や城下の雰囲気から戦国時代を感じることができます。
野手城の詳細や御城印情報は以下をご覧下さい✨



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【野手城のご説明】千葉県匝瑳市
野手城は九十九里浜の野手浜海岸から約2km内陸に入った野手に築かれました。野手周辺は九十九里浜と北側の丘陵部との間に位置する低湿地帯ですが、野手城は砂州の微高地をうまく利用して築かれています。
現地に野手城の遺構はほとんど残っていませんが、地名や街道から野手城の姿を想像することができます。野手集落のほぼ中央に「御城」という字名が残り、他にも「東門」「上の馬場」「大門」「前古屋」「宿」などの字名が残ります。これらから、中世期における野手城と城下集落を偲ぶことができます。

地元の伝承によれば、かつての野手城は内堀、中堀、外堀に囲まれた広大な城だったといいます。まさに三重の堀をもつ堅固な城郭で、内堀に囲まれた正方形の空間が「御城」と呼ばれる主郭だったと伝わります。

『千葉大系図』によると、千葉常胤の弟椎名胤光の第2子の胤知が野手を領し、野手次郎胤知と称したとされます。野手城の築城に関する詳細は不明ながら、この胤知の系統が野手城を築き、居城としたと伝わります。

天文4年(1535年)、古河公方足利晴氏と小弓公方足利義明の対立に端を発した「野手合戦」が起きました。小弓公方方の八日市場城主押田氏が古河公方についた野手氏の居城野手城に攻め寄せ、野手氏当主義長と子義治らが討ち死にしたとされます。これにより、野手城は押田氏の城となり、八日市場城周辺は押田氏によって掌握されました。

野手合戦において当主父子が討ち死にした野手氏ですが、義長の弟義通が常陸国江戸崎へ逃げ、小田城を居城とする小田氏治に仕えたとされます。小田氏没落後は常陸国下妻を領する多賀谷氏に仕えたとされています。

 

【御城印デザインのご説明】
野手城は城郭遺構こそ残っていないものの、周辺には城郭の存在を示す地名が数多く残ります。「字御城」の南側には街道が通り、それに沿って宿が形成されていたと思われます。現在もこの街道沿いには人家が密集しており、「宿」の字名が残ります。さらに、この街道は現在も鍵型の屈曲を伴う道筋になっており、敵に攻め込まれにくい防衛の意図が見て取れます。このように、地名やいまに残る街道から当時の城下の様相を窺い知ることができます。御城印には、このような野手城の城下の構成がわかる地図をデザインしました。
また、「野手合戦」において、野手氏が戦った押田氏の居城である八日市場城と野手城の位置関係が分かる地図も御城印にデザインしました。
あわせて、野手氏の出自である千葉一族の家紋「月星」と、野手氏の家紋「九曜」をモチーフにしました。


販売場所
〇そうさ物産センター匝りの里(めぐりのさと)

千葉県匝瑳市八日市場イ137-1

電話番号 0479-73-5015

営業時間9時から18時

年中無休

〇まるごとしすい

〒285-0912

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810



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2023年6月22日 (木)

大網城の御城印販売開始

千葉県大網白里市の大網城の御城印販売開始のお知らせです。
大網城は九十九里平野に向かって飛び出す丘陵に築かれました。眼下には街道が通り、城下の趣を残します。
街道沿いに北に向かうと田間城、成東城と大きな城が連なり、中世からの街道を押さえる大事な城がずらっと並ぶ面白いエリアです。
しかも!!
1590年の小田原の役後に徳川家康が江戸に入ると、家康の家臣三浦重成が大網に配置されました。
そうなんです!三浦一族ファンにとって、大網は歴史ロマンを感じる地域でもあるのです♡

大網周辺は講演とツアー計画が目白押し✨
7月22日(土)13:30から
講演会とトークショーやらせていただきます。
会場は大網白里保健文化センター3階ホール
告知は数日お待ちください。まもなく解禁です♪

さらに、9月24日(日)はJRバス関東のガタゴトバスツアーあります!
こちらは、大網城、成東城、松尾城などをまわる盛りだくさんツアー✨
こちらも7月早々に告知開始になります。もう少しお待ちを!!

ということで、夏と秋は大網白里周辺を楽しみましょう~。
御城印詳細は以下をご覧下さいませ💨

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【大網城のご説明】
大網城は九十九里平野に向かって伸びる丘陵に築かれました。北側は明治33年の鉄道開通の際に切断されたため独立した台地になりました。標高約40mの「要害山」と呼ばれる城山はその名の通り、斜面が切り立った自然の要害となっています。

櫓台を伴う南端の曲輪から北東に向かって、小さな曲輪が連なるように地形に沿って配置されています。尾根上の移動を遮断するようにそれぞれが堀切で分断され、さらに山肌は垂直な切岸になっています。各曲輪が狭いため、居住性はなく、居館は麓に置かれていたと推察できます。背後を取り巻く山陵部に城郭を拵え、居館部分を取り囲んだと思われます。

築城等に関する詳細は不明ですが、大網城は土気城主酒井氏の重臣板倉氏の居城と伝っています。板倉氏についての詳細は不明ですが、「板倉」という地名が千葉市緑区にあることから、その地を出自とする武家であるとも考えられています。

また、板倉は土気城に近いことから、板倉氏は土気城主酒井氏の家臣である可能性が指摘されています。土気、東金両酒井氏は、里見氏と北条氏の争いが激化すると、両勢力に挟まれ政治的な判断を迫られました。そして、最終的には北条氏に属し、天正18年(1590年)の小田原の役を迎えました。大網城は、小田原の役まで土気酒井氏の支城として機能していた可能性が高いと思われます。

小田原の役の後は徳川家康家臣三浦重成が入部し、下総三浦藩(大網、本納、佐倉あわせて1万石)となりました。なお、大網城の城下にある蓮照寺には三浦重成の供養塔が残っています。

 

【御城印デザインのご説明】

大網城の眼下にはクランクを伴う街道が通り、城下町の趣きを残しています。「本宿」という地名が残っていることから宿が形成されていたと考えられます。さらに、「城手」などの城と関連する地名が残り、かつての大網城の姿を地名から偲ぶことができます。

また、大網城からは土気城方面や、東金城、田間城方面を眺めることができ、それらの城と連携して機能していたと思われます。
大網城の御城印には城下の街道や地形のわかる地図を配し、土気城との位置関係がわかるようにデザインしました。あわせて、縄張図もデザインしました。また、昭和8年に松井天山によって描かれた『千葉縣大網鳥瞰図』と、土気酒井氏の家紋をモチーフにしました。

 

販売場所
○ ファミリーマート大網白里駒込店

住所   大網白里市東駒込2番地7

電話番号 0475-72-5310

営業時間 年中無休

 

 

○ マリンの土産店

住所   大網白里市南玉4-5-6

電話番号 0475-86-6220

営業時間 月~土 10:00~19:00

 

○まるごとしすい

千葉県印旛郡酒々井町飯積 2-8-2 

043-376-6810

営業時間 9時~18時 

定休日 毎週月曜日(但し、月曜日が祝日の場合は営業で、翌火曜日がお休みになります)


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2023年6月10日 (土)

大多喜城御城印特別バージョンの販売開始

大多喜城の特別御城印が本日から販売開始になりました。
いままでも大多喜城の御城印は販売されていましたが、大河ドラマ「どうする家康」の中で本多忠勝の活躍が目立っていることを受けて、特別御城印が完成しました✨

大多喜では以前から、「本多忠勝を大河ドラマに」という運動も行われており、今回の活躍はとても喜ばしいものです。
特別バージョンの御城印は金字のゴージャスなものになってます。
デザインさせていただきました。
ぜひ、お求め下さい♡
※従来の大多喜城御城印も継続して販売しています

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1枚 700円(税込み)


【大多喜城のご説明】千葉県夷隅郡大多喜町
※戦国期の大多喜城は「小田喜城」と記されますが、ここでは戦国期においても「大多喜城」と記します。
大多喜城は太平洋に注ぎ込む夷隅川中流域の丘陵部に築かれました。天然の堀ともいうべく蛇行する夷隅川に囲まれていて、堅固な要害地形を成しています。現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館が本丸、千葉県立大多喜高校が二の丸にあたります。

大多喜城の築城等の詳細は不明ですが、江戸時代に書かれた『房総治乱記』などの軍記物によると、大永元年(1521年)頃に上総武田氏が築城したとされています。上総武田氏は真里谷城、長南城を拠点に勢力を拡大し、大多喜城も上総武田氏の拠点のひとつとなりました。

しかし、大多喜城における上総武田氏は天文13年(1544年)に正木氏と苅谷ケ原で戦いに及び、敗北したと伝わります。それにより、正木時茂が大多喜城に入城したとされ、小田喜(大多喜)正木氏とよばれる勢力へと発展していきました。以後、大多喜城は里見氏、正木氏の東上総統治における重要な拠点として、整備改修が繰り返されたと考えられます。

天正18年(1590年)の小田原合戦後、里見氏が上総の所領を没収されると、徳川家康の関東移封に伴い、上総国には家康の配下の武将たちが入ってきました。そして、大多喜城には本多忠勝が10万石で入城し、その際に地名を小田喜から大多喜に変更し、近世城郭として整備改修をしました。この改修整備では、石垣を一切使用することなく、大田代層といわれる独特の地質を活かした上で、近世城郭化を進めました。さらに、正木氏の中世城郭の構造を踏襲しながらも、城下町整備、街道整備を進めていきました。このような忠勝の計画的な町づくりによって、大多喜の町は生まれ変わり、大規模な城下町として発展しました。
大多喜城は本多氏、阿部氏、青山氏、稲垣氏、大河内松平氏などの統治を経て、明治維新まで存続しました。

 

【御城印デザインのご説明】
大多喜城の特別御城印(黒地に金字バージョン)は、大多喜町に建てられている本多忠勝像をモチーフにしました。本多氏は三河譜代最古参の家柄で、忠勝も徳川家康につかえました。忠勝は生涯で57回の戦いに参陣したといい、いずれの戦いにおいても傷ひとつ負わなかったと伝わります。織田信長からも「花も実も兼ね備えた武将」と評されたといいます。このように忠勝は武勇に優れ、数々の伝説をもつ歴史上名高い武将です。酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに、「徳川四天王」と称され、江戸時代以降、人気を誇り語り継がれてきました。 

千葉県立大多喜高校の敷地内には、千葉県内唯一の現存城郭建造物である二の丸御殿薬医門が移築されています。また、現在本丸には、三層四階の模擬天守が建てられています。御城印には現存する大変貴重な薬医門と、模擬天守ではあるものの、大多喜のシンボルともいえる天守をデザインしました。


販売場所:大多喜町観光本陣
     まるごとしすい
     千葉ポートタワー
     道の駅あずの里いちはら

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